「ブランデンブルク」でつながる門とバッハとワーグナーとは?【後編】
前回に続き、「ブランデンブルク」と「ブランデンブルク門」について紹介し、それらと関連するバッハとワーグナーのエピソードをご紹介します!
今回は「ブランデンブルクという地」と「ブランデンブルク門が象徴すること」、そしてワーグナーのバイロイト音楽祭とのつながりについてを扱います!
ブランデンブルクという地について
前回の記事でお話ししたように、ブランデンブルク門はドイツ・ベルリンにある門でしたね。
現在の地図上でどこにあるかといえば、もちろん、ベルリン州にあります。
よーく見るとわかるのですが、
実は、ベルリン州はブランデンブルク州に囲まれた位置にあります。
↓↓ブランデンブルク州はココ↓↓
上記の地図と見比べると、ちょうどブランデンブルク州の赤塗りされた中心の白い部分がベルリン州だとわかります。
(日本の地図を見慣れているからか少し面白い感じがするのは私だけでしょうか?)
このベルリン州・ベルリンにブランデンブルク門がある、ということです。
地図を見ることで、ブランデンブルクとベルリンのつながりがストンっと理解できるような気がします。
みなさまはいかがでしょうか?
ブランデンブルク門が象徴すること
ここは少し余談ですが、ブランデンブルク門がドイツにとってどのような存在かをお話します。
まず、この門の上部に設置されている「馬車に乗ったヴィクトリア像」(クアドリガと女神ヴィクトリアともを中心に、ある歴史的出来事が起こりました。
完成してからわずか15年後の1806年に、プロイセン王国はナポレオン軍に敗れました。すると、ナポレオンはブランデンブルク門の前で勝利のパレードを行い、そのうえ、戦利品としてヴィクトリア像をフランスに持ち帰ってしまったのです!!
(なんという悲しみ…)
しかし、プロイセンは虎視眈々と時期を待っていたのでしょう。
その後のナポレオン戦争で、プロイセンはベルリンを取り戻し、パリをも占拠し、ヴィクトリア像を取り返しました!!
これより、ヴィクトリア像とブランデンブルク門は戦勝と凱旋のシンボルとなりました。
ブランデンブルク門をめぐる事件はこれで終わりではありません。
時は流れ、1900年代に入ると、ドイツでは「ベルリンの壁」が建設されます。
このベルリンの壁はブランデンブルク門の前(門が東ベルリンの西端の行き止まりになる位置)に作られたのです。これにより、ブランデンブルク門は通過することができなくなりました。
(トマソンみたいですね)
もちろんベルリンの壁が壊された後には通行できるようになりましたが、このことより、ブランデンブルク門はドイツにおいて、ドイツ東西の分離と統合のシンボルともなったのです。
このような背景から、ドイツのユーロ硬貨(€ 0.50)の裏面にブランデンブルク門が彫られているようです。
ワーグナーのバイロイト音楽祭
さて、ここからはワーグナーのバイロイト音楽祭とブランデンブルクの関係についてお話ししましょう。
ワーグナーの記事(ここ)にて、以下のように述べました。
では、ブランデンブルク=バイロイト辺境伯領とはどのようなものでしょうか?つまり、バイロイトとブランデンブルクの関係はどのようなものなのでしょうか?
これを知るために、歴史を振り返ってみましょう。
まず、バイロイトの地は、もともとホーエンツォレルン家が本拠地のニュルンベルク城伯にありました。
1415年、当時のニュルンベルク城伯が
・選帝侯位
(貴族の称号の一種。神聖ローマ帝国の君主に対する選挙権を有する)
・ブランデンブルクの辺境伯
(貴族の称号の一種。世襲制。)
を獲得しました。
これにより、ニュルンベルク城伯がブランデンブルク辺境伯を兼任することになります。
1486年、このニュルンベルク城伯 兼 ブランデンブルク辺境伯が亡くなり、3兄弟がその領地を3分割して継承することになりました。
ここで、
・長男のヨハンが治める「ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯」
・次男のフリードリヒ2世が治める「ブランデンブルク選帝侯」
・三男のアルブレヒト・アヒレスが治める「ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯」
ができました。
1603年、当時のブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯(上記の一つ目)が、
自分の城すなわち都をバイロイトに遷し(遷都ってやつですね)、
「ブランデンブルク=バイロイト辺境伯」と改称しました。
(満を持しての登場です、「ブランデンブルク=バイロイト辺境伯」!!)
1618年には、バイロイトの付かない「ブランデンブルク選帝侯」がプロイセン公国を継承し、ブランデンブルク選帝侯一人が治める「ブランデンブルク=プロイセン」が成立し、
1701年には、帝国領域外で戴冠の承認を受けることで、初代の「プロイセンの王」を名乗れるようになり、「プロイセン王国」が誕生しました。
けれども、「ブランデンブルク=バイロイト辺境伯領」はそのままブランデンブルク=バイロイト辺境伯が治め続けます。
この間の1735~1763年が、バイエルンが最も文化的に華が開いていた時期で、ワーグナーも訪れた「バイロイト辺境伯歌劇場」が建設された時期でした。
1791年に、ブランデンブルク=バイロイト辺境伯が自分の血縁が続かないことから、ブランデンブルク=バイロイトの土地を放棄しました。
それにより、この土地はプロイセン王国の領地となります。
(なお、当時は、ブランデンブルク=バイロイト辺境伯がブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯も兼任しており、アンスバッハも放棄してプロイセン王国に渡しております)
そして同年(1791年)に、当時のプロイセン国王の命令で、ブランデンブルク門が作られたのです。(前回の記事より)
地図上では離れていても、このようにホーエンツォレルン家の家族が治めるという点では共有していたのですね。
最後に
以上、「ブランデンブルクという地」と「ブランデンブルク門が象徴すること」、そしてワーグナーのバイロイト音楽祭とのつながりについて述べました。
今回は地理や歴史といった知識のお話しでした。
前回の記事でのバッハとのつながりと、今回の記事でのワーグナーとのつながりを読んで、バッハとワーグナーが同じ国に住んでいたことがよりくっきりとイメージできるようになっていただければ幸いです。