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なぜ「流行語大賞」がピンとこないのかを言語化してみた

ユーキャン「新語・流行語大賞」を巡る毎年のルーティン

年末の風物詩、「ユーキャン新語・流行語大賞」が発表された。
流行したというドラマのタイトルが対象に選ばれたらしいが、僕は普段からテレビをあまり見ないし、このドラマも見ていない。
当然、あまりピンとこず、「ふーん、そういうんが流行っとったんやな」という印象だった。

ところで、この「流行語大賞」とセットで年末の風物詩と化しているのが、流行語大賞に対する世間の総ツッコミである。
発表された流行語大賞について、「誰が言うてるねん!」「どこで流行ったねん!」という反応がネット上で吹き荒れる光景が、毎年のように繰り返されている。
僕にとっては、吉本新喜劇の「邪魔するで」「邪魔するんやったら帰って」に近い、お家芸的なルーティンのようにさえ感じられる、毎年の風景だ。
この光景を見ることで、「ああ、ピンときてへんのは俺だけちゃうかってんな」と感じ、安心して年を越すことができる感すらある。

三省堂の「新語大賞」はなかなか的を得ている気がする

このことを夕食の際、なにげなく妻と話していたら、妻がぽつりとこんなことを言った。
「三省堂のほうは結構ピンとくるのにね」

詳しく聞くと、僕は恥ずかしながら全く知らなかったのだが、ユーキャンのほうと同じく、「新明解」でおなじみの三省堂が、毎年この時期に「新語大賞」というのを発表しているらしい。
こちらの今年の大賞は「言語化」。
確かに、昨年度のM-1王者、令和ロマンの高比良くるまさん然り、若者がある種の特技のようなものとして「言語化」を挙げたり、あるいは漠然とした現象を説明する場面でそれを「説明します」ではなく「言語化します」と言っている場面は、最近になってよく目にするようになった気がする。
言葉としてよく目にするだけでなく、最近の世の中や価値観の新たな動きを言い当てたような、絶妙なチョイスだと感じた。

僕と妻がレシートの置き場所について大喧嘩した話

ユーキャンの新語・流行語大賞と、三省堂の新語大賞はなにがちがうんだろう。
思うに、それは「ことば」というものの根本的な捉え方のような気がする。

ことばとは何か。
このことを考えるときに、いつも思い出すのが、僕の身に起こったある出来事だ。

ある日、僕は妻に何かのレシートを渡され、「これ、机の上に置いといて」と言われた。
僕は言われたとおりに、レシートを「机」の上に置いた。
しかししばらくすると、妻が「さっきのレシート、机の上にないんだけど」と言いだした。
僕は「いやいや、ここにあるやん」と言い、さっき自分が置いたレシートが置かれている「机」を指さした。
すると妻はこう言った。
「いや、それはテーブルやん。机ちゃうやん」

ここで僕は、妻がいう「机」と僕がいう「机」の意味が食い違っていることにようやく気が付いた。
我が家には、食事の際に使う「テーブル」と、僕や妻が仕事の際に使う「デスク」があったのだが、僕にとって「机」というのは、テーブルやデスクといったもの全般をまとめて指すものだった。
つまり僕にとっては「テーブル」も「デスク」も、どちらも「机」だ。
しかし妻にとって「机」とは「デスク」のことであり、「テーブル」は「机」ではないという理解をしていた。

そこで僕らは大喧嘩をしながら、互いにスマホで「机」の語義を調べてみたのだが、その結果、世の中の辞書には、僕のようにテーブルやデスクといった台状のものをまとめて「机」と総称する解説と、そのなかでも特に「デスク」を「机」と呼び、「テーブル」とは区別するという解説が両方存在するようだ、ということが分かった。

ことばとは「実践」である―ウィトゲンシュタインの言語哲学

この例で僕が言いたいのは、「ことばとは何かを指し示すものではない」ということだ。
ことばが何かを指し示すものであるのなら、ことばとそれが指し示す対象は常に明確につながっているはずで、したがってこのような混乱は生じるはずがない。

ではなぜ、同じことばを用いていてもこのような混乱が生じるのか。
それは、ことばが「何かを指し示すもの」ではなく、「実践」だからだ。
例えば同じサッカーというスポーツをしていても、その目的は一人ひとり異なっているのと同じように、実践にはいろんなやり方がある。
同じ「机」ということばを用いていても、それを様々な用途の台状のなにかを総称するものとして使う実践もあれば、「テーブルではないもう1つの台」を意味するものとして使う実践もある。
僕と妻は、「机」ということばを使用していたが、実は台状の物体について異なる実践をしていたのだ、ということだ。

ちょっとだけ専門的な話になるが、このような「ことばとは実践である」という言語理解は、僕のアイデアではなく、哲学者ウィトゲンシュタインから借りたものだ。
「ことばとは何かを指し示すものだ」という理解は、とても分かりやすいし一般的な理解だ。
しかし哲学者のウィトゲンシュタインは、こうした理解を「アウグスティヌスの言語像」と名付け、厳しく批判した。
例えば「ことばが何かを指し示すものだ」としたら、じゃあ「赤」とは何を指すのか。
あるいは「1」や「10」、「無限」とは具体的な何かを指し示すものなのか。
こう考えると、実はアウグスティヌスの言語像で理解できるのは、ことばのごく限定的な一側面でしかないということが分かる。
こうした立場からウィトゲンシュタインが「アウグスティヌスの言語像」を批判し、提案したのが「ことばとは実践である」という立場だった。

ユーキャンと三省堂は「ことばの哲学」が違う

話を新語・流行語大賞に戻そう。
おそらく、ユーキャンの人たちにとって、「新語・流行語」とはすなわち「今年流行したもの」とほぼ同じ意味をもっているのではないだろうか。
同じとは言わないまでも、近年選ばれた新語・流行語をみると、「新語・流行語」と「今年流行したもの」がかなり混同されている印象が否めない。
そのドラマがどれくらい流行していたのか僕はあまり知らないけど、しかし仮にこの作品が流行していたのだとしても、「ふてほど」ということばが僕らのなかでどう使われていたのか、「ふてほど」という言葉を巡ってどんな新しい実践が生じたのかということと、この作品の流行とはまた別の問題だ。
ドラマは見た人も見なかった人もいるだろうが、僕らは総じて、自分の現在のことばの実践のなかに「ふてほど」をあまり位置づけていない。
このことが、ユーキャンの新語・流行語大賞がいまいちピンとこない理由ではないだろうか。

これに対して、三省堂の「新語大賞」のほうは、「新語」とはなにかをかなり明確な立場から意味づけている。
HPを見ると、募集する新語は「この2024年を代表する言葉(日本語)で、今後の辞書に見出しとして採録されてもおかしくないもの」と明記されている。
この立場は、別にことばというものの全体を包括するような幅広い視点ではない。
むしろ、「辞書を編纂し発行する出版社」という独自の立場を明確にすることで、視野がはっきりと限定されているといっていいだろう。
しかし、このように視野を明確にする、言い換えると自分たちが依って立つことばの実践とはなにかを明確に規定することで、ことばの実践性、ライブ感のようなものを損なわずに選考することが可能になっているのではないだろうか。

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というように、年末ならではの話題についてつらつらと考えてみたが、ここでちょこっとだけ解説した「実践としての言語観」の観点に立った新しい言語心理学の教科書が今年発行された。
ひつじ書房の「新しい言語心理学」だ(Amazonでも楽天でも買える)。
僕も編集に参加したが、とても読みやすいものに仕上がったと思っている。
表紙のデザインが最高にナウくてバッチグーなので、ぜひ手に取ってほしい。

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