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書評「「これくらいできないと困るのはきみだよ」?」(編著:勅使河原真衣)

勅使河原真衣さんの「「これくらいできないと困るのはきみだよ」?」は、教育社会学を修め現在は組織開発者である勅使河原さんが編著の本です。この本の始まりは、初作『「能力」の生きづらさをほぐす』に対し寄せられた学校の先生からの反響であったそうです。

ここではまず、同書の対談2「学校でケアし、ケアされるということ」の要点を取り上げます。その後、以下の本と合わせ、その内容を考えます。

千葉雅也さん「勉強の哲学」「現代思想入門」「センスの哲学」
鳥羽和久さん編著「学びがわからなくなったときに読む本」
渡邉雅子さん「論理的思考とは何か」
小熊英二さん「日本社会のしくみ」
戸谷洋志さん「スマートな悪」

〇要点:対談2「学校でケアし、ケアされるということ」

この対談は、竹端寛さん(兵庫県立大学環境人間学部教授)と勅使河原さんの対談です。竹端さんは、「現場(福祉、地域、学生)とのダイアローグの中からオモロイ何かを模索しようとする、サン馬術的触媒と社会学者の兼業」と紹介されています(p93)。

対談2「学校でケアし、ケアされるということ」の内容に移ります。主に私が気になったところを取り上げます。

竹端さんは、子どもに批判的主体性を求めるならば、大人も批判的な主体であるべきだといいます。ここでいう批判的とは、現状を鵜呑みにせず、別の可能性を想起することです。

竹端さんは、学校における他者比較による評価を問題視し、評価方法を静的評価から動的評価に変える必要があるといいます。そのためには、例えば学校であれば、クラスのサイズを小さくし、先生一人あたりの生徒の数を減らす必要がある。

勅使河原さんは能力主義を「ケアを絞る道具」だとします。竹端さん曰く、ケアする範囲は予測不可能です。企業や学校は、一定PDCAサイクルで運営されており、そのサイクルは予測可能なものを対象とします。そのため、ケアはPDCAサイクルから除かれる。ケアは常に、PDCAサイクルの流れに竿をさす。

竹端さんが行った介護福祉関係者向けのWEBセミナーでのエピソードが興味深いです。ソーシャルワーカーや看護師は、対象者や看護師に優しい人ほど、仕事ができない同僚に厳しいことがある、と竹端さんはいいます。同質性の高い相手をすぐ批判しないためには、まず相手の話を100%聞くことが重要だといいます。またここにはオープンダイアログの文脈があります。

また、勅使河原さんは話を聞く際、相手をよく観察するといいます。これに関連して竹端さんは、対人理解において重要なのは、その人の言動を観察し、そこからパターンを組み立て、仮説を立てることだとします。一方で、勅使河原さん、竹端さんともに、観察を経ずに相手を既存のパターンに沿って理解することは良くないことであるといいます。勅使河原さんはこのことを「想像しない、予測しない。」というフレーズで表現します。

また「観察」は問題を解決する際の1丁目1番地であるといいます。竹端さん曰く「観察」は一般的に面倒であり、また私たちは観察する訓練や練習の機会がないのでは、といいます。

竹端さんは、職場で聞く・聞かれるの関係が機能しない場合、組織・構造に問題があると考える必要があるといいます。

竹端さんは、ポジティブフィードバックが重要だとします。
フィードバックは相互変容であり、強固な上下関係に基づきフィードバックや指導を行う側にも変容が求められるため、このようなフィードバックにおいては、上下関係のある二者間の権力勾配は変容を迫られるだろうといいます。この点、竹端さんは、道徳的秩序をいったん横に置いて、ちゃんと考えられるかどうかに価値を置いています。また規範は隠れ蓑であり、自分の行為を正当化するものだといいます。

対談2の全体として、批判的主体として規範の別の仕方を考えることに価値があると理解しました。相互変容が重要であり、それはすなわち、隠れ蓑を脱ぎ、弱い部分を晒しながら、他者を観察することが重要だということだと思います。

さて、以上の対談について興味深かった点を、他の本と合わせつつ見ていきます。

〇千葉雅也さん「現代思想入門」

哲学者・作家の千葉雅也さん「現代思想入門」第3章「フーコー――――社会の脱構築」には、権力の支配を受ける我々が積極的に支配を望んでしまう構造があることを、哲学者・歴史家のミシェル・フーコーが明らかにした、とあります(p85)。また「ちょっと変わっている」「なんか個性的だ」というありかたを、ただそれだけで泳がせておく倫理があると述べられています(p101)。

千葉さんのフーコー読解に従えば、職場では、管理職だけでなく実務を担当する者も、既存の権力勾配の見直しを迫られるでしょう。
ポジティブフィードバックは、学校や職場、病院などのパノプティコンの秩序を揺るがしうるだろうと思います。一方で同書では、近代化により統治はより強まっており、それは一見人に優しくなっていくようであることが述べられます(p91)。一見優しいようにみえるポジティブフィードバックの目的が統治に寄っていないか、という点は重要であると思います。

〇鳥羽和久さん「学びがわからなくなったときに読む本」、渡邉雅子さん「論理的思考とは何か」

学習塾「唐人町寺子屋」塾長である鳥羽和久さん編著「学びがわからなくなったときに読む本」第2章「リズムに共振する学校」で、都内の中高一貫校に勤務する国語教員である矢野利裕さんは、教育に携わる大人は、子どもとの間にある権力をあえて見ていないと指摘します。鳥羽さんは、子どもに自主性を求める大人は、子どもに責任を押し付けていると感じる、といいます(p84)。これは、子どもに批判的主体性を求めるならば、大人も批判的な主体であるべきだ、という竹端さんの指摘と類似しているでしょう。
また第3章「家庭の学びは「観察」から」で鳥羽さんは、感想文を書く訓練は人を観察から遠ざけると指摘します(p91)。竹端さん曰く、対人理解において重要なのは、その人の言動を観察し、そこからパターンを組み立て、仮説を立てることです。そうであれば感想文は、対人理解において重要な要素である観察から人を遠ざけるものだといえるでしょう。
社会学者の渡邉雅子さん「論理的思考とは何か」は、観察文を形式的な善悪や社会規範を超える道徳観を育てるものであるとし、感想文は社会秩序の形成・維持という点から再評価されるべきだ、といいます。この指摘は鳥羽さんの意見と一見矛盾するですが、そうではないでしょう。渡邉さんは同書で感想文の歴史的展開として「綴方」を紹介しています(p128)。綴方は子どもに、子ども自身の経験的記述にこだわって現実を認識さることを求めます。綴方のあり方は戦前、戦中、戦後で大きく異なり、戦前は経験的記述としての現実生活の活写に重きが置かれましたが、戦後、特に高度経済成長以降は、読書体験によって児童個々の成長が伺える「感想」を記すことが主流となり、その流れは現代まで受け継がれています(p128-130)。鳥羽さんが「学びがわからなくなったときに読む本」で行う感想文から観察文へという主張は、鳥羽さんが同書で述べるように現代社会のなかでは反動的な主張に見えますが、その実、社会の秩序と権力を前に批判的主体となることを、書き手、そして読み手にも求めるものになるでしょう。

観察文は、目の前の問題を観察し書き出すことで規範の別の仕方を匂わせる。今とは別の仕方を書き手や読み手に考えさせるものになる。

〇小熊英二さん「日本社会のしくみ」、戸谷洋志さん「スマートな悪」

次に、職場で聞く・聞かれるの関係が機能しない場合、組織・構造に問題があると考える必要があるとする竹端さんの指摘について考えます。
社会学者の小熊英二さん「日本社会のしくみ」は、日本の企業の構造は戦前の官制の秩序に影響を受けていることを指摘します(p239-p244)。戦前の官制はピラミッド構造で、少数の者を頂点としています。ピラミッド構造自体は日本特有ではありませんが、その構造が産業にも適用されていることが日本特有だとするロナルド・ドーアの発言を紹介しています。なお小熊さんはドーアは印象論として日本企業と官庁の類似を指摘しただけだとしつつも、彼の直感は正しかったと述べています。
哲学者の戸谷洋志さん「スマートな悪」第6章「機械への同調」では、哲学者ギュンター・アンダースの「機械」の概念が紹介されています。アンダースは人間は機械に対して無能力であるといいます。ここで機械は、何らかの目的を達成するための機構一般を示しています。制度化され工場化された生産過程が機械であるとされますが、その生産過程は無数の個々の仕事に分業されるため、人間は機械の全容を把握できません。そうすると、人間は機械全体のメカニズムや機械によって生み出される最終産物への関心を失い、また最終産物について想像する能力も失う、といいます。
また戸谷さんは「スマートな悪」を、人間がテクノロジーのシステムに自らを最適化することで、システムの「歯車」となり、責任の主体としての能力を失い、無抵抗なままに暴力に加担してしまう悪のあり方であるとします。
勅使河原さんと竹端さんの話は、戸谷さんのいう機械に対する人間の無能力さにどう向き合うか、という話としても読めるでしょう。

〇千葉雅也さん「センスの哲学」、「勉強の哲学」

最後に観察についてもう少し。千葉雅也さん「センスの哲学」は、リズムという言葉を、音楽だけでなく絵画や小説の話にも用います。そして第3章「いないいないばあの原理」で、リズムを構成する要素を、ビート(はっきりした対立関係、在/不在)とうねり(生成変化の多様性)であるとします。

同章では、精神分析の創始者であるフロイトが、「いないいないばあ」のようなリズム形成によって、欠如に耐えられるようになると論じたといいます。ここは私の読みになりますが、私たちは、現状の秩序に検討を加えるとき、秩序が無くなる、あるいはしっかりした秩序はそもそも無かったのだ、と感じるのではないでしょうか。それは方向感覚を失うようなもので、恐怖を感じる。けれど実際は、現状の秩序に検討を加えるとき、秩序は無くなるのではなく、変化し始めているのではないか。

同書第4章「意味のリズム」では、人間関係の小意味を、一方では0→1でも捉えられますが、それよりもうねりとして(変化していくものとして)見ることが提案されます。大意味に至る手前で、秩序をうねるのある変化するものとして観察することで、私たちは新たな秩序について考える際の欠如のイメージに耐えられるのかもしれません。

秩序という言葉が固いようであれば、ノリという言葉に言い換えられると思います。千葉雅也さん「勉強の哲学」は、今の自分のノリから異なるノリへ引っ越すためにーーあえて強く言えば自分を破壊するためにーー勉強するのだといいます。普段自分が従っているノリ=秩序を改めて観察するということであれば、イメージしやすいかもしれません。

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