『貝に続く場所にて』 石沢麻依
うっすらとした非現実が淡々と現実に溶け込む世界が、美しい文章で描かれる。
そして幻想的な全体の中に、哲学的な内容があれこれ詰まっている、豆大福的な小説。
主題は重いが、短時間で読める長さでつまみ読みにも適した、文句なしの絶品だ。
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ドイツの大学に留学して博士論文に取り組んでいる主人公。彼女は震災を経験しており、仙台の大学で同じ研究室にいた仲間を一人、津波で亡くしている。
震災から9年経った今、彼女のいるドイツの街ゲッティンゲンに、津波で亡くなった野宮の幽霊がやってくるというところから小説は始まる。
幽霊といっても普通に飛行機に乗り、時勢に合ったマスク姿で野宮はやってくる。そして語学学校に入学し、知人を作り、主人公にメールでそんなこんなの報告をする。
主人公は、彼が幽霊でありながら現実世界で実体感をもって存在していることを、なんの違和感もなく受け止めている。
とても不思議な設定だ。
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野宮の到着と時をほぼ同じくして、ゲッティンゲンの街ではある奇妙な現象が見られはじめる。過去に撤去されたはずのオブジェが現れたり消えたりするようになるのだ。
そして野宮も主人公へのメールでこのようなことを報告する。
「この街を歩き回る際、よく目的地を見失うことがあります。・・・おそらくは、場所ではなく時間を間違えているのかもしれません。」
街でできた知り合いというのも、かの寺田寅彦その人らしい。
街の中で時間が重なり合い、野宮は、重なってくる別の時間にある街を、月沈原と呼ぶ。月沈原とは、かつて(寺田寅彦がこの街にいた頃に)されていたゲッティンゲンの漢字表記である。
主人公の周囲ではもう一つ、不可思議な出来事が起きる。主人公と同居する友人アガータの飼い犬が、森での散歩の際に様々なものを発掘するようになるのだ。
掘り出されるのは服や本にパンの焼き型、木彫りの身体の一部など。
そして、それを聞いたウルスラという女性がアガータに頼んでそれらを自宅に集め、現れる引き取り手に「返す」ことをはじめる。
犬が掘り出す品々は、人々の過去の記憶であり、それらを引き取ることは、自らの記憶と痛みに向き合うことのようである。
と同時に、脈絡のない様々な物が場違いな森で掘り起こされる様は、津波の後の土地の姿とイメージが重なり、津波で流されてた物が一つずつ戻ってくることの象徴のようにも読める。
ところでこのウルスラという女性は、非常に魅力的で象徴的な人物である。
こんな素敵な自宅を毎木曜日に開放し、訪れる人々に手作りのトルテを振る舞い話し相手になる。そんな彼女は小さな街で「星座的な」幅広い人間関係を持ち、主人公がアガータと友人になったのも彼女を通じてだった。
ウルスラというのは聖女の名前であるが、ウルスラの周りに集まる女性たちも皆、聖女の名を持つ。アガータ(アガタ)、ルチア、カタリナ、バルバラ・・・。そしてルチアは目をかたどったトルコのお守り(ナザールボンジュウ)を持ち、カタリナは車輪の形のイヤリングをしているなど、同名の聖女を象徴する品をそれぞれに身につけている。
主人公が博士論文で取り組んでいるのも、十四聖人に関する研究だ。聖人を研究する彼女が、聖女に見守られて、記憶の巡礼をする。小説の流れはそのように読むこともできる。
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震災の記憶を感覚として消化できずにいる主人公は、その感覚の距離に罪悪感を抱いている。
余震に怯える飼い犬を撫でたその手触りや、食糧を求める列での足踏み、空腹と寒さなど、震災の日の記憶を五感にとどめていてもなお、その身体記憶を繋げてもそれは断片の寄せ集めに過ぎないと彼女は感じている。
野宮の来訪、そして街での奇妙な現象は、そんな彼女の罪悪感や記憶との繋がりの心もとなさと関わりがあるのか。
野宮、寺田寅彦、そして聖女の名を持つ女たちと共に主人公はゲッティンゲンという小さな街の名所旧跡を訪ね歩き、記憶、そして喪失に向き合っていく。
あるいはもしかしたら、主人公のドイツ滞在自体が、精神的な巡礼だったのかもしれない。
美しい幻想小説だ。
そしてまた夢想的な旅行案内、美術鑑賞案内として素晴らしい箇所もある。
答え合わせのような説明は何もされない。
だからこそ様々な解釈ができる、自由に考えて楽しめる。
記憶と時間が交差する月沈原に、あなたもぜひ静かに身を置いてみてほしい。