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『望潮』 村田喜代子
密かな名作短編をひとつ紹介したい。
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元高校教師の、喜寿の祝いの席。
老先生は、集まった教え子たちにある話をする。
10年ほど前、彼は俳句の仲間と、玄界灘の小島に吟行の旅に出かけ、そこで異様な光景に出会ったという。
「ほとんどエビみたいにつの字に曲がった腰」をした老婆達が、手押し車を押しながら、車道を行進する光景である。
地元のタクシー運転手は彼女達を「カニ」と呼んだ。「磯カニとおんなじで、あとからあとから這い出てくるとですよ。」
この老婆達の目的は、車に轢かれることなのだという。とはいえ、補償金目当ての当たり屋とは違う。
長生きして家の者に迷惑をかけるより、ひと思いに死んで子や孫にまとまった金を遺してやる方がいい、という思いで、死ぬ覚悟で歩いているのだ。
島の老婆達の想像を絶する行為に、旅の一行は衝撃を受ける。
行き交う車は彼女たちを轢かないように、牛の列みたいにのろのろ進む。車のあいだを箱車の婆さんたちは亡者みたいに蹌踉と横切って行く。異様な光景だね。箱車によろめく体を預け、平べったくてひしゃげた格好で行くんだよ。
タクシーの運転手は、「あの年寄りの中には、うちのお袋も混じっとるんです。」「止めても止まらんのですよ。」と話したという。
今も島には老婆たちが歩いているのか。
彼女たちを見てきてほしい、と老教師は言う。
その後、二人の元生徒が連れ立って、件の小島「蓑島」に出かけてみたという、その一人が、老教師に電話でその報告をする。
島に手押し車を押す老婆たちの姿はなかった。
誰に聞いても皆、そんな話は聞いたことがない見たことがない、と言っていた。
報告を聞き、老教師は思う。
老婆たちがどのようにして姿を消したか、消え方は曖昧でなんだか後味も良くないが、消えたことだけは幸いだった。あんな凄いことがいつまでも続いてはならないのだ。
「でもね、先生」と、教え子が言う。「わたし、一人だけお婆さんと会ったんです。」
彼女が老婆に出会ったのは、日の出の浜だったと言う。毎朝浜へ日の出を拝みにくるという老婆は、元海女だった。
「もともと蓑島では、亭主を養えぬようでは一人前の海女でねえと言うたもんやね。亭主を食わせて子供も食わせて舅に姑も食わせてな、それでやっと蓑島の一人前の海女ということよね」と話す老婆。
一家を養った海女が老いて養われる身になるのはいかほど不本意なことか。そう考えた時、命と引き換えに子や孫に大きな贈り物をしようとする手押し車の老婆たちの姿が、彼女の眼にだぶった。
朝日が昇りきる頃、老婆は立ち去った。
その時教え子は、砂浜一面にチカリチカリと動いているものに気がついたという。
それは、シオマネキというカニの群れだった。
「先生。砂浜一面の夥しい数のカニが、チカリ、チカリと海へ向いてハサミを打ち振っていたんです。・・・わたしは胸が一杯になりました。ああ、彼女たちはここにいるじゃないか、と……。浜はもうかげろうのように燃えていました」
電話の声がとぎれ、老教師の頭の中にも、浜の景色が広がる。
それだけの、シンプルな、ごく短い小説だ。しかし、しみじみと味わい深い。胸に様々な思いが去来する。
あらすじを全て書いてしまったが、内容を知った上で読んでも、その味わいの深さは変わらないと思う。
村田喜代子の小説には「日本の女性」という奥深い世界が詰まっている。
『望潮』は、同タイトルの短編集に表題作として収められているが、文庫本の『八つの小鍋』にも収められており、こちらの方がその他の収録短編が秀逸であり、個人的にはオススメである。