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『家を失う人々』 マシュー・デスモンド

本書はノンフィクションである。
ここで描かれている出来事は、
ほぼ二〇〇八年五月から二〇〇九年十二月のあいだに起こったもので、
巻末の注で説明したものを除いて、
すべてこの期間に直接、見聞きしている。

本書は、社会学教授マシュー・デスモンドが、米ウィスコンシン州最大の都市ミルウォーキーの、貧困層の住むトレーラーパークと黒人住人の多く住むスラムに、合わせて一年余り住んで行ったフィールドワークを記録したものである。
登場するのは全て実際に著者が現場に住みながら知り合った人々であり、書かれている出来事や会話は、実際に著者が目の前で見て、聞いたことだという。
膨大な取材をまとめ上げた本書が見せる現代アメリカの貧困の生々しい姿は、消化しきれない重さで胸にのしかかる。

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・スラムと人種差別

ミルウォーキーは、かつては生産業の都市として栄えたものの、大企業が労働力の安い海外や南部のサンベルトに工場を移したことで大量の失業者が生まれ、荒廃した貧困地帯が広がることになった(同じような事態は全米各地で生じたとある)。
特に打撃を受けたのは黒人労働者であり、2008年当時、アフリカ系アメリカ人の生産年齢のうち2人に1人が無職という状況だったという。

貧困層の黒人を苦しめる状況の最大の要因は、少ない収入に見合う家賃の物件がないということだ。
ミルウォーキーでは、治安が最も悪い地域にある物件でも、治安の良い地域にある物件と家賃がほとんど変わらないという。

こうした状況は、もう長いあいだ続いている。一八〇〇年代半ば、ニューヨーク市に安アパートメントが登場したとき、最悪のスラムの家賃はアップタウンのそれより三割も高かった。一九二〇年代から一九三〇年代にかけて、ミルウォーキーやフィラデルフィアといった北部の都市で黒人が暮らすスラムの家賃は、白人が暮らす地域の家賃より高かった。一九六〇年を迎えてもなお、主要都市では建物自体の条件は同じなのに、白人より黒人の家賃のほうが高かった。貧しい人々は安い住居を求めてスラムに集まるのではない。かれらがそこに集まるのは、(とくに貧困層の黒人に言えることだが)ただ、そこで暮らすことを許されたからだ。

そもそもスラムとは何なのか。
スラムが作られたのはおそらく15世紀後半のヨーロッパであると、著者は解説する。高さのある建築物が作られるようになり、「ぎゅう詰めの劣悪な住宅を最も貧困な住人に貸し、利益を吸い上げる」というスラムの形式がジュネーブやパリで形成されたのだという。

アメリカでは、南部から北部の都市部に大移動を始めた黒人達がスラムの借家にひしめき合うことになり、ジム・クロウ法など様々な制度が黒人から土地を奪い続けてきた結果、半永久的に賃貸住宅に暮らす黒人の階層が生まれ、スラムの需要は高まり続けた。

白人や中産階級が暮らす地域の高価な物件と、その半分以下の価格で手に入るスラムの物件とで、家賃がほとんど変わらないというのなら、賃貸業者にとってはおいしい話に決まっている。スラムでの賃貸業の利益率が高いという実情は、貧困層から利益を絞りとる商売の構図を作り出す。
「白人が暮らす地域では赤字になるが、低所得者が暮らす地域なら安心して月収を得られる」のだから。


・強制退去

不安定な収入と、止まらない家賃の高騰。結果として貧困地域では、家賃不払いその他の理由から毎日のように人々が「強制退去」させられている。
2009年から2011年にかけてミルウォーキーの借家人のじつに18人にひとりが転居を強制されており、強制執行を専門に扱う引越し業者もいるほどだという。

ただでさえ劣悪な環境に追いやられて困窮する黒人貧困層に、さらに追い打ちをかけるように打撃を与えるのが、この強制退去の横行だ。
家賃の不払い、借家での犯罪行為などが強制退去の理由になるが、実際はいくらでも家主が理由をつけることはできそうであり、そこには確実に黒人差別が影響する。

家主としては、犯罪や厄介ごとはできれば回避したい。家賃もできるだけ確実に回収できるに越したことはない。そこで家主達は賃貸契約前の審査に力を入れるようになる。
借家人を選ぶ際に、その犯罪歴や信用情報を徹底的に調べるのだ。
この家主による“違法行為と破壊行為の排除”が、結果として貧困家庭を安全な住居から閉め出し、社会問題を狭い地域に集中させると著者は指摘する。

黒人男性は過剰に投獄され、黒人女性は過剰に強制退去させられるという現実の中、犯罪歴や強制退去歴により入居希望者を拒否するとなれば、アフリカ系アメリカ人の不利は加速する。
そして、貧困と荒んだ人生がもたらす犯罪と暴力の被害者に最もなりやすい女性が、守られるどころか最も苦境に立たされているという残酷な現実がここにある。

その年、ウィスコンシン州では、現在または以前の交際相手、もしくは身内によって殺害された被害者が週にひとりいた。・・・ミルウォーキー市警の署長は地元のニュース番組に出演し、被害者の多くが一度も通報して助けを求めていないという事実に困惑している、と述べた。・・・この署長にはまったく理解できていないことがあった。・・・女性たちは、通報せず暴力に耐えつづけるか、警察を呼んで強制退去させられるかの、いずれを選ぶしかなかったのだ。

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著者が取材するのは、トレーラーパークに住む白人達、スラムに住む黒人達、そして彼らに家を貸す家主。彼らの姿にはそれぞれに生々しい人間味があり、チャーミングな面もあれば信用ならない面もある。
あるトレーラーの住人は、盗んだ物を売って得た現金をそのままドラッグの売人に流して家賃は滞納を続ける。
あるスラムの住人は、勝手な理由をつけて家賃を勝手に減額する。
家主も狡猾で抜け目なく、時に非情で理不尽だ。
読んでいて借家人に同情したり家主に共感したり、こちらの心情は振り回されるのだが、読みながらの印象として特徴的なのが、著者の情が登場する人々の誰にも向いていないというところだ。
借家人の自堕落な生活や信用のできない言動も、家主の冷徹な仕打ちも、どちらもフラットに事実のみを書き、そこに批評や感想は一切加えない。
そのフラットさが特徴的だと感じたのだが、最終章「執筆の裏話」に、注視すべき重大な問題に“私”というフィルターをかけないために、あえて一人称の記述を避けたとの説明があり、その言葉に感じ入った。

この豊かな国には、とほうもない貧困と苦悩がはびこっている。不平等がまかりとおり、苦難が広がり、全土で飢えとホームレスの人たちが当然のように存在するいま、私はもっと喫緊の課題について話しあいたいと思っている。“私”のことなど、どうでもいい。あなたがこの本の話をするときには、まずシェリーナやトービン、アーリーンやジョリ、ロレインやスコットやパム、クリスタルやバネッタの話をしてもらいたい。そして、あなたが暮らす町のどこかに、たったいま自宅から強制退去させられた一家がいて、かれらの家財一式が歩道に積みあげられているという現実についての話をしてもらいたい。


著者自身、白人だが貧しい家庭に生まれ、ローンと奨学金で大学在学中に、実家が銀行に差し押さえられるという経験もしている。
この問題に対する思いには、一社会学者としてという以上のものがあるだろう。
個人の感情を入れないフラットな書き方は、その強い感情があるからこそなのだ。


問題解決の糸口として著者は、収入に見合う家賃の物件民事裁判で弁護士を雇う権利(貧困層への法的扶助)を挙げ、そしてスラムでの貧困層搾取への対策としての住宅補助制度家主による差別の違法化家賃規制を提言する。
著者の提案する政策、制度は、性善説に基づいておりユートピア的とも感じられる。
ただし、著者本人もこれらが一つの都市の観察から導かれた局所的な政策提言のひとつにすぎないと言っているとおり、あくまで一社会学者の真摯な意見以上のものではない。
しかし、どんな提言であっても実行される前に、その効果を全面的に信じることも、全面的に否定することもできない。なにより、どうしようもないぬかるみで苦しむ人々のことを高みで見物するのではなく、我が事として考えることから生まれる解決策こそ、本当の出口につながるのではないだろうか。

忙しく行き来する人々と車。明るい商業施設にファストフード店や食品店。そんな都市にいて、自分には住む家がない。今夜を過ごす屋根がない。
その恐怖はぱっと想像できるものではないが、驚くほど多くの人々が、実際にそんな生活をしている現実がここにあった。

差別、搾取、社会構造の産み出すひずみは、決して対岸の火事ではないということも心に留めておきたい。

「わたしの人生が、こんなんじゃなければよかったのに。おばあさんになったら、のんびりと椅子に座って、子どもたちを眺めていたいなあって思う。子どもたちはみんなもう、おとなになっててさ。みんな、ひとかどの人間になってるんだ。わたしよりうんと立派な人間にね。で、みんな一緒にいて笑ってるの。それで、いまみたいなときのことを思いだして、あんな時代もあったねえって、笑い話をするのさ」

お金があろうとなかろうと、どこに住んでいようと、人の心は同じなのである。