見出し画像

『裁縫師』 小池昌代

同名の短編集からの表題作。
おとぎ話のような書き出しで始まるが、心しておかないと軽く動揺するハメになるので要注意だ。

わたしがまだ九歳の子供だったころ、近所にひとりの裁縫師が住んでいた。弟子もとらず、たったひとりで朝から晩まで洋服を作っていた。

戦後間もない東京での少女時代を回想するのは、ビルの清掃員として働く68歳の女性である。
庶民的な街の一角にある共同アパートに、共働きの両親と質素に暮らしていた頃のこと。近所には事業家が住む大きな家があり、その離れの一軒家に、裁縫師のアトリエ兼住居があった。

裁縫師は、坂元氏のおかかえなのだというひとがいた。親戚なのだというひともいた。いや、外で産ませた実の息子なのだというひとも。あるいはまた、二人がともに独身の男性とあって、彼らは男同士、愛し合う仲なのであると、きらめくような目でうわさするひともいた。

裁縫師のアトリエには度々裕福そうな人々が出入りしており、住む世界の違うそんな人々が訪れる場所に自分は関わろうはずがないと彼女は考えていた。
ところがある日突然彼女の母親が、あの裁縫師のところであなたの洋服をあつらえる、と言い出す。

「どうしたの、おかあさん」
「どうしたもこうしたも。あなたに一度、そういうことをしてやりたくて。あの裁縫師、すごい評判よ。連絡を取るのがたいへんだった。店は近いのに敷居が高い。でも恐れることはないわ。さあ、さあ、行きましょう」

こうしてさっそくアトリエを訪れた二人を出迎えた裁縫師は、野生的な目をした、理知的な男性であった。
彼は少女に好みの服をたずね、様々な質問をする。数週間後には理想的なデザインのスタイル画が出来上がり、さらに一ヶ月ほどして、仮縫いに来て欲しいとの連絡が来る。。。

近所に住む謎めいた人物への好奇心と密かな憧れは、実際に彼に会うことで、はじめての性の目覚めへと繋がっていく。老境の女性の胸に大事にしまいこまれた官能の思い出が、子供時代の記憶に特有のあいまいさ、幻想性や得体の知れない毒気と共に綴られる。
一切の無駄のない文章は端麗この上なく、それがゆえに、ほのかなエロスから下品ギリギリに急変調する展開が衝撃的だ。それでいてなお、露骨な言葉すら隠喩的な表現に感じられるのは、文章の美しい流れゆえだろう。

少女の官能を描いたこの小説、好みは分かれるかもしれない。川端康成が嫌いという方にはあまり合わないように思う。逆に川端が好き、または森茉莉の小説が好きという方には好まれそうだ。
(他の4編は小川洋子や村上春樹を読まれる方にもおすすめだ。幻想的で、少し怖くて少し悲しい。)

気になった方はぜひ、手に取ってみてほしい。