カシアス小5

きちんとした形にまとめる時間がなさそうなので、取り急ぎ諸々の考えをまとめるNoteに。

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マガジン

  • ものの見方を疑う

    既存の「ものの見方」を取り急ぎ疑っています

最近の記事

糸が切れたら

緊張の糸が切れる、という言い回しがある。 好投していたピッチャーが、たった一球の失投から、ガタガタと崩れてしまう。ダグアウトから監督が出てきて、審判に合図を送る。すかさず解説が「ああ、ここでピッチャー交代です。何々(投手の名)、緊張の糸が切れたか」などと言ったりする、あれです。集中が途切れる、という意味合いのほう。 その、投手氏の緊張の糸が切れるあの感じを、つい先日、noteで体感(?)しました。 先月、7月の間、毎日投稿をするという試みを行い、なんとか無事1ヶ月を乗り

    • 「時間」の地域性

      「時間」はどこの誰にでも平等に流れていくものだけれども、それをどう捉えるかには地域差がある。言語によって自然音の捉え方が異なるように、時間の概念も地域(文化)によって異なり、それを表す言語によって異なる。 実感を持って言えるのは日本語と英語のみだが、それだけでも「時間」の概念は確実に異なる。異なる時の捉え方をしているから時を表す表現が異なるわけで、さらには、言語で表現される時間の捉え方をその言語を話す者たちは身につけていく、という繰り返し。 英語の時制を学ぶ時に、よくこん

      • 「国民性」と「〜主義」

        国民性というものは、土地土地に応じた暮らし方の中から生まれてきていると考えている。単純に、その土地の気候風土、自然環境とそこから成立してきた文化、立地からくる他文化の影響などの歴史的背景、そういったものを見ていけば、例えばなぜ日本人が、集団的、没個性、空気を読む、などの特徴を持っているのか、その基盤となっているものが何かの説明はおのずとついてくると思っている。ヒトの強みは適応する能力と捉えているので、環境→適応であり、ごくごく単純に、環境への適化が積もり積もって文化や国民性に

        • 21. 「産業革命」の地域性

          今日、全ての考え方の前提に、「初期採集・狩猟経済から次段階へ、それからまた次の段階へと『発展』して、現在の自由経済に至る」という概念があるが、この「発展」という捉え方には懐疑的である。 昔と今の経済のあり方が異なるのは、「人類共通の進化発展の過程」なのではなくて、生活の形態が自然や社会の移り変わりにより変化し、集団が社会生活を営んでいく上での「必要性」が、それに応じて「変化」を遂げる、という行為が繰り返されてきたからに過ぎないと考えている。 したがって、例えば狩猟・採集経

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          33本

        記事

          空想物語と現実

          思い返してみれば、幼い頃に読んだ物語には、英国のものが多かった。児童文学やファンタジーといったジャンルの草分けが英国なのだから、当然といえば当然かもしれない。 空想物語をただ楽しむことから脱さなければならない年齢になった時、その読書体験を現実の中に結びつけることができずに、持て余すようになった。多読家の姉妹が、うまくそれを「夢物語」に消化し、一時の現実逃避の手段として、非常に現実的に楽しむようになっていくのを横目に見ながら、私にはどうもそれが上手くできなかった。 その後、

          空想物語と現実

          コイケヤさんに物申す

          スナック菓子が好きだ。年代的に特にそうだ。ポテトチップスとコーンパフ系のスナック菓子がたまらなく好きだ。どうして私の友人知人は、誕生日にスナック菓子の詰め合わせをくれる、ということを思いつかないのか、と毎年疑問になるほどだ。 うまい棒などの駄菓子系も外せないが、長年の気に入りはコイケヤだった。定番の「のり塩」味だけではなくて、うすしおもコンソメも、コイケヤの味が好きだった。休日前や嫌なことがあった時のヤケクソ食い用「ガーリック」味、疲れた時や褒美用の「サワークリームオニオン

          コイケヤさんに物申す

          7月を終えて

          うーむ、である。 7月の間、毎日朝の決まった時間に投稿をして、頭の中になんとなくある「考え」をできる限りまとめてみようというチャレンジをした。 なんとか毎日投稿という目標は達成したものの、毎朝8時半(前後1時間)に、というのは、後半はほぼ守れなかった。一度、仕事の多忙さで生活リズムを崩してからは、深夜前の駆け込み投稿がほぼ日課になってしまった。 しかも、なんとか決まった時間内に書き上げようと思っているせいで、きちんと考えをまとめる間も無く、ともかく次々と言葉を書き綴って

          20. 現代という世の中

          今、私たちが生きている世界のことを、頭脳の暴走した社会だと考えている。現代社会は「認識」の比重が「脳内の知識と妄想」に偏りすぎている。 人が頭の中に、①現実を認識する部分、②他人の認識を理解する部分(知識)、③それらをもとに現実に存在しないものを描きだす部分、を持っているとすると、多くが②と③のみで成り立っている。 全てが人間の脳から始まっているという考え方が基盤となり、世の中を、人間の理性と知性のみで捉えようとしている。 が、所詮人間は動物にすぎないので、その存在のあ

          20. 現代という世の中

          19. 「大英帝国」の特異性?

          どの国の文化も言語も、異なる文化や言語と互いに交わりを持ち、影響を受け与え合いながら存在している。南米の密林など、環境的に隔絶された民族(言語)でない限りは、どの文化も言語も「生粋の〜」であることはなく、何かしらの影響を別の文化から受けている。 どんな形であれ、交流が起これば互いに影響を受けあう。それが「実生活」と結びついていくことによって、定着していく。 例え他文化に侵略され支配されたとしても、その圧政下においてすら各土地の実生活そのものは継続し、やがて為政者のほうが各

          19. 「大英帝国」の特異性?

          【番外】土台すら借物

          学生の頃、明治〜昭和初期の西洋建築を見る度に、どこか違和感を覚えた。しっくりこないものが多かった。しっくりこないのは様式だったと思う。「そこにあるそのもの」をただ観察するだけでは、どうしてこういう形になったのか説明がつかない様式。どこか別の土地環境で成立したものの完成形を、その生まれ育った土地とは異なる場所で、成立の過程を考慮しないままに模倣して作られた建築だから、しっくりくるはずがない。輸入された「様式」が、この土地の過去と結びつかないまま、今も、たぶんこれからも「借物=土

          【番外】土台すら借物

          18. 言語の違いが意味するもの

          「ヒトの体と脳というハードウェアの中に、基本機能として人類共通の『ある一定の思考方法』と『言語の文法』が入っている。現在認識されうる『違い』はその変化形であり単なる地域差」といった類の考え方は腑に落ちない。そもそもそれが正しいのなら、今ここで疑問に思っているような疑問は起こらない。こういう疑問が疑問として誰かの中に生じる時点で、理論としては破綻している気がしなくもない。 基本、異なる自然・立地条件下で棲息する中で、見聞きした物事や体験した事象を特定の音に置き換えて蓄積してい

          18. 言語の違いが意味するもの

          【番外】「日本」の中で「英語」

          日本人が英語が苦手なのには、案外深い理由がある。ので、苦手で然るべきだと思っている。 どうしても日本人に「英語」を浸透させたいのか、ここ10年くらい国を挙げて「英語教育」に力を入れているのは感じ取っているけれども、「英語が苦手で然るべき」案外深い理由については、あまり検討されないまま、とにかく若い頃から英語に慣れさせろ、で突き進んでいる気もしなくもない。 その成果か、それともインターネットが普及したおかげか、はたまた国際化が進んだためか、最近ではカタカナ語だけではなくて、

          【番外】「日本」の中で「英語」

          17. ヒトの高次性、言語の独自性

          人間は高度に発達した脳を持ち、言語を操り、思考と想像と創造が可能である、この高度な能力は人類共通であり、ゆえに言語と思考と想像と創造の力は、人間皆が平等に有するものである、という考え方に懐疑的だ。 懐疑的だというよりも、いくつかの事象が混同されているように思えてならない。 そもそも、現実の「認識」の「音への置き換え」と、「その蓄積」が言語の始まりだと考えていて、そういうことが可能だった脳を有する、ということがヒト共通の特徴なのだと思っている。また、ヒトの最大の能力は、その

          17. ヒトの高次性、言語の独自性

          【番外】文化と文化の組み合わせ 3

          非常にざっくりとした「文化」のイメージの話。 歴史的に、明確な自己アイデンティティを持たないーーというよりも、自分よりも明確に上位にあると認識する他者に自己アイデンティティの拠り所を委ねる、というアイデンティティの持ち方が文化となっている国もある、気がする。 こういう場合(=頭の中で理解するアイデンティティの認識が、現実と直接結びつかない場合)、自尊心が肥大化しやすいのではないかと疑っている。多くの文化では、現実に鑑みて「自己認識」の整合性を調整するのだと思うが、こういう

          【番外】文化と文化の組み合わせ 3

          【番外】文化と文化の組み合わせ 2

          国を問わず、「西欧」の文化を若いうちに学んで帰ってきた日本人たちは、芝居(と文学)に啓蒙的な価値を見出す傾向があるように思う。それは、西洋において伝統的にそういう傾向があるからであって(西欧の文化の中に、観劇を疑似体験と思考の刺激として捉えるやり方が成立しているからであって)、特に初期の「日本人留学生」たちが直接影響を受けた、18世紀後半から19世紀の啓蒙の時代においては、「シェイクスピアと英国の演劇文化を賞賛する知識人たちが欧州本土に多く現れ、自らの国のアイデンティティを同

          【番外】文化と文化の組み合わせ 2

          【番外】文化と文化の組み合わせ

          日本語を母語とする者が、海外の文化や文学、概念などを学んだ時、どの国のものを主に学んだかで、その人物の考え方の傾向が決まるような気がする。文化ごとに「ものの見方」に特徴があると認識しているが、「日本語話者の思考と感性」の基盤の上に、他のどの文化の考え方が合わさるかで、その人の思考回路の毛色が決まる。同じ国を選んだ人たちは「考え方」の傾向が似ている。 当たり前と言えば当たり前なのだが、面白いと思うのは、その「日本人+どこかの国」の考え方は、「どこかの国」の考え方そのものとは異

          【番外】文化と文化の組み合わせ