「時間」の地域性
「時間」はどこの誰にでも平等に流れていくものだけれども、それをどう捉えるかには地域差がある。言語によって自然音の捉え方が異なるように、時間の概念も地域(文化)によって異なり、それを表す言語によって異なる。
実感を持って言えるのは日本語と英語のみだが、それだけでも「時間」の概念は確実に異なる。異なる時の捉え方をしているから時を表す表現が異なるわけで、さらには、言語で表現される時間の捉え方をその言語を話す者たちは身につけていく、という繰り返し。
英語の時制を学ぶ時に、よくこんな図が用いられる。
一本の横線とその右端に矢印。これが時間軸で、時は矢印の方向に流れていく。その横線の中間あたりに点を打ち、そこが「現在」。その点から右側に進むと「未来」、左側にあるのは「過去」。
英語という言語で表される時間は直線的で、先へ先へと進んでいく。その根底には「変わることなく続く地盤」のようなものがあり、それがブリテン、ことイングランドという土地の特徴なのではないかと思う。そこにずっと変わらずに存在することを疑いもしない、という地盤。
「世は全て舞台であり、人は皆役者である」というのはシェイクスピアの台詞だが、それが意味するところの最も重要な部分は、前提に「舞台」という土台がある、というところなのではないかと思う。芝居が始まり、人はその舞台上に入場して(生まれ落ち)、退場する(死にゆく)役者に過ぎない、という人の一生の捉え方。舞台という変わらぬ地盤の上を、始まり、終わる、という時間が真っ直ぐに流れていく。
ブリテン島で「伝統」を引き継ぐ人々がよく「これは自分の所有物ではなく、今、自分が預かっているに過ぎない。自分は、これを先代から引き継ぎ、後代へと受け渡す、その繋ぎ役を果たしているに過ぎない」ということを口にするが、これはそういう考え方からきているのではないかと思っている。
対して、本来、日本の時間の捉え方は、円形で、その円が折り重なっていく、というものではないかと思う。もしくは、螺旋状に上に積み上がっていく。時は一年で終わりを告げ、また新たに始まる。それが延々と繰り返されていく。「歳を重ねる」という言い回しは、まさにそういう感覚から来ている。式年遷宮もそういう考え方が根底にある。そう思う。
「年年歳歳花相似たり、年年歳歳人同じからず」という言葉も、日本では、中国本国とは異なる捉え方をしているのではないだろうか。
「新年」を迎え、「年末」を迎え、「歳を重ねる」。人は、入場して去っていくのではなく、どんどん上に積み重なっていく。人は、生まれた時から年老いて死ぬまで、時を重ねていく。
そこには、やはり日本という「変わりうる」土地のあり方が関わっている。昨日そこにあった土地の様子が、明日もまた同じようにそこにあるとは限らない。土地そのものが、そっくり形を変えてしまうことがある。が、例えそれが起こり、それまでの生活を覆したとしても、一年という時が過ぎてしまえば、それでおしまい。また新たな「一年」を迎えることができる。
そういう時の捉え方が、本当は、日本で生きていく上では最も適しているのではないかと思っている。
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