20. 現代という世の中
今、私たちが生きている世界のことを、頭脳の暴走した社会だと考えている。現代社会は「認識」の比重が「脳内の知識と妄想」に偏りすぎている。
人が頭の中に、①現実を認識する部分、②他人の認識を理解する部分(知識)、③それらをもとに現実に存在しないものを描きだす部分、を持っているとすると、多くが②と③のみで成り立っている。
全てが人間の脳から始まっているという考え方が基盤となり、世の中を、人間の理性と知性のみで捉えようとしている。
が、所詮人間は動物にすぎないので、その存在のあり方の核は、「生まれ、生き延び、死ぬ」という活動、つまりは生活だ。そして、その生活というものは、本来、それぞれが生きている「土地」の特徴に結びついている。
現在の世の中の仕組みは、頭の中の理解ーー頭の中で思い描いたものを、現実に再現したものが基本形なのだと考えている。そういう「頭の中に描いた形」を世界共通のものとして、トップダウンでそれぞれの土地の社会の上に押し付けている状態なのだと。そして、それが実現可能なのは、人間が、完全なる人工物の中で完結する社会に暮らしている場合のみであり、そういう人工的な環境を現実の中に作り上げようとしているのが、現代の世界なのだと思っている。
確かに、そういう「人工的な環境」で地球を覆い尽くすことができるのであれば、ヒトは、おそらく「土地」の特徴に呼応した生活から逃れて、理性と知性とで作り上げた机上の理想社会の具現化の中で生きていくこともできるかもしれない。
だが、人間は地球上に暮らす生物の一つに過ぎず、人間社会も、所詮は地球上に存在している生物活動の一つに過ぎない。ので、人間が生物であり地球上に暮らしている限り、人間の生活が土地との関わりを断つことはほぼ不可能なのだと思う。たとえ理性と理解による「人類共通」の生活自体が、自然から独立させた人工物の中で実現可能だとしても、自然から独立させた人工物が自然に取って代わる(もしくは、人工物で地球を覆い尽くす)ことは、どうあっても不可能なのだと思う。人間は地球が生み出したものの一つに過ぎず、地球は人間が作り出したものではない。
故に、土地土地の違いにより、人間の生活が異なる、考え方も異なる(世界共通の理性などというものは思い込みと幻想)という認識の上に、新しい世のあり方を考えなければならない時期にきているのではないかと思う。ブリテン島から始まった「世の捉え方」の限界が見えている。現代の世の中を形成している「人間の認識の仕方のそもそもの前提」が覆る時が近いような気がしている。
それとも、人間は、そのうち「惑星そのもの」をどこかに作ってしまえるようになるのだろうか。
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