【まいにち小説】戻れない時間
お母さんとわたしは血が繋がっていない。わたしを産んだ実母はすでに亡くなっていて、だけどなぜ死んだのか分からない。実母が原因不明の死を遂げた後、実父はクミコという女と再婚した。わたしの義母となったクミコは、それなりに家庭的で家事や育児も何でもテキパキとこなす人だ。しかし、人間性が何かとやばい。とにかくぶりっ子で、男の前で演じるキャラが気持ち悪すぎる。わたしの友達の母親は義母と会社の同期らしく、その人は義母のことを「浮気女だった」と言った。それはもう若いころの話だというけれど、今でも男の前で可愛い子ぶっているような人だから可能性はゼロではない。真実を突き止めたいところだけれど、もし義母が浮気をしていてそれが父にバレたら、父は相当悲しむだろう。彼は一途で、しかも相手にとことん尽くす人だから、立ち直れないほどのショックを受けるだろう。義母は男の中で唯一、父に見せる顔だけはぶりっ子じゃない。父は誠実で真面目な人が好きだと聞いたことがあるから、きっと彼女のそんな顔に惹かれて結婚したのだろう。大きな勘違いをして、可哀想だ。
学校帰り、スクールバッグを手に下げながら家の玄関の扉を開けると、家の中がいつもとどこか様子が違うように見えた。古びた床と黄ばんだ壁はリフォームをする前に住んでいた家の内装に似ていて、しかもあの懐かしい畳の香りまでする。でも今住んでいる家はこんなんじゃなくて、もっと洋風なんだけどな......。違和感を抱き「ただいま」と小さく吐き捨てるように言う。頭の中はたくさんのクエッションマークでいっぱいだ。
「ど......なたですか......? なんで......入れたの? 鍵掛けてたはずなんだけど......」
目の前に現れたのは、エプロン姿の綺麗な女性だった。低い位置で結んだポニーテール、広いおでこ、美しい瞳。
「お母さん......!?」
あまりの嬉しさに思わず声が出たけれど、きっとそうだ。間違いない。お母さんは目を丸くして「......お母さん?」と不思議そうに小さくつぶやいた。
「まあとりあえず、靴を脱いでこちらへいらっしゃい。あなたは高校生よね?」
「はい、そうです」
お母さんだ。大好きなお母さんが目の前にいる。興奮した状態で、リビングへ向かう。ああ、こんな感じの内装、懐かしい。この黒いソファは今もあるけれど、なんだか今よりもピカピカしている。買ったばかりなのだろうか。
「さて、色々とお話しましょうか」
座布団に座ると、お母さんが優しく微笑んだ。
「それで、あなたはどうしてここに?」
「家に帰ってきたら、なんか過去に来ちゃって」
過去? とお母さんが眉を寄せる。
「実はわたし、あなたの娘のミライです」
お母さんはとても驚いているのか、無言でただ目と口を大きく開いた。
「本当に......未来から来たの......?」
「うん!」
生きているお母さんを見ると、自然と口角が上がる。嬉しくて仕方がなくて、だけど切ない気もする。
「確かにあなた、ミライに似ている気がするわ」
お母さんはわたしをミライだと信じたのか、わたしをミライと呼ぶようになった。そしてわたしも、お母さんと呼ぶ。
いつの間にか雑談が始まっていて、わたしとお母さんは大きく笑う。笑いのツボや価値観などがまったく一緒で、やっぱり親子なんだなと思う。お母さんが生きていたら、こんな感じで毎日が楽しいんだろうな。生きていてほしかった......
お母さんの死を思い出すと、また悲しくなる。わたしは涙脆いから、思い出さないようにして生きてきたというのに。急に涙があふれてきて、咄嗟に堪えようとしたけれど遅かった。
「あら、どうしたの! 思い出に浸っちゃった?」
お母さんに緩く抱きしめられながら、その腕の中で何度も頷く。するとお母さんは「ふふっ」と優しい笑い声を漏らした。その懐かしい温もりを感じて、さらに涙の勢いが増していく。体を震わせながら号泣するわたしの背中を、お母さんはトントンと叩いた。まるであの日、日向の下でお昼寝をしたときのように。
突然、ガッシャーンと何かが破壊されたような爆音が聞こえた。涙を拭い、反射的に身構える。ふと顔を上げると、向こうの窓ガラスが割れていて、そこから真っ黒な服装をした女が現れた。女の目元や口元をよく見てみると、それは義母のクミコにどこか似ている。その義母のような女は刃の鋭い包丁を持っていて、今にもこちらに襲いかかってきそうだ。
「クミコ......!? どうしたの......?」
お母さんは焦るように声を上げた。やはり、この女の正体はわたしの義母であるクミコだった。
「あんたが死ねば、あの男はあたしのものになる」
義母が奇妙な笑みを浮かべて包丁を振り回す中、お母さんはわたしの耳元で「あなたは逃げなさい」と囁き、ニコッと笑った。
きっとお母さんはこれで死んだんだ。クミコというクソ女に殺されたんだ!
お母さん、嫌だよ。わたし、お母さんを置いていけるわけがないよ。だってお母さんに死んでほしくない......
その場で泣き叫ぶ。次第に視界が白くなっていき、意識を失い、床にバタンと倒れ込んだ。
目覚めると、そこはいつも通りの家だった。わたしは自分の部屋のベッドの上にいた。
「夢......だったの......?」
それにしても不思議だった。階段を下ると、あのリビングは元通りだし、そこにお母さんの姿もなかった。
「一体、何人いるんだ!」
「誰もいないっ......」
「嘘つけ。俺は見たぞ。お前が見知らぬ男とキスをしているところをな。あと、寝室に見覚えのないメンズサイズの服があった」
「それは......」
「俺はミライとこの家を出て行く。離婚するよ」
父が深いため息を吐いた。
やっぱり、浮気していたのかよ。あのクソ女。わたしの大切な大切なお母さんも殺しやがって。
父と義母の口喧嘩を聞きながら、強く苛立ちを指先に込めて警察に電話を掛ける。夢の話なんて信じてくれるか分からないけれど、手と口が勝手に動いた。
後日、義母は殺人の罪を認めて逮捕された。未解決事件だったらしいけれど、父はわたしにお母さんが誰かに殺されたということを隠していた。まだ幼い子どもに、社会の恐ろしさを話す勇気がなかったという。
お母さんの命日、父とわたしは墓の前で静かに手を合わせた。「お母さん、ありがとうね」と小さな声で呟くと、胸の奥にぽかりと空いた寂しさが広がった。でも、同時にそれが温かいもので満たされるような気もする。
ふと背中に温もりを感じた。
まるで、お母さんがそっと抱きしめてくれているみたいだった。
空を見上げると、木漏れ日の中にお母さんの笑顔が見えた気がした。風が頬を撫で、優しい声が耳元で囁く。
「ミライ」
冷たい涙が顔を伝った。