怒られるのが怖い。これが私の行動の根本にあった。
それに気付いたのはいつだっただろうか。
「怒られるのが怖い」ことに気付いたのはそれなりに前だけれど、「なぜ怒られるのが怖いか」に気付いたのはごく最近だ。
それも、人に教えられてわかったことだ。
私は小さい頃から怒られて育った。
よくある子育てのストレスなのだろう。
母親は私に当たり散らした。
私は恐らく元来繊細なタイプの人間で、それがゆえに怒られるということに対して普通以上のストレスを感じていたらしい。
どうして怒られるんだろう?
それは私がうまくできないからだ。
私がいい子じゃないからだ。
私がダメなことばかりするからだ。
怒られると怖い。
おなかの辺りがゾッとして締め付けられる。
怒らないでほしい。
だからちゃんとやらなきゃ。
失敗しちゃいけない。
頑張らないといけない。
怒られるのが怖い。
それを動機として、怒られずに済みそうな行動をする。選択をする。
何かあるたびに、「本当に選びたい選択肢」よりも「怖くない方の選択肢」を選んできた。
だって、怒られるかもしれないから。しょうがないじゃない。
以前書いた記事でそれに少し触れた。
保育園でいじめられて、「行きたくない」「おなか痛い」と言っても、休むことは決して許されなかった。
小学校の頃、学校の勉強が出来たが、親は他人に私のことを「運動神経が悪い」等悪い面ばかり強調してしゃべった。いい面は決して言わなかった。
もう一つ、別の記事でもそれに近いことを書いている。
今、改めて読み返してみると、結構なサバイバル地獄にいたのだな私……。
あの頃の私、本当によく頑張りました……。
これは後々わかったことなのだが。
母親は私が「正しい」か「間違っている」かに関わらず、日によって気分や機嫌で怒鳴り散らす人だったらしい(多分、過去形だとは思う)。
そんな人間がこの世にいるなんて、小さな頃の私は思いもしなかった。子供にとって親は絶対だったから。
けれど、母親が怒るのは、私が原因ではなかったのだ。
母親自身が原因を心の内に持っていたのだ。
だから同じ事をしていても、ある日は怒られても別の日は怒られなかったりしたのだろう。
何をしたら怒られるか、いつ怒られるかわからないから、いつでもビクビクしていた。おびえて恐れていた。
心からリラックスして信じることが出来なかった。いつ怒るかわからないから。
親だけでなく、家族も他人も信じられなかった。
信じるということのやり方がよくわからなかった。
誰を相手にしても、「この人も心の中では何を考えているかわからない」と無意識に疑っていた。
だから誰かに話すこともできなかったし、話してこなかったからこそどう話せば相手にうまく伝わるのかもずっとわからないままだった。
――けど、それでも、親が悪いんじゃないんだよな。
親もそうやって育てられてきたからこそ、そういう育て方しかわからないんだ。
親は自分がそうやって育てられてきたということにも、だからこういう親になったのだということにも、気付いていなかったのだろう。
親がこういう親になった原因が本人の心の内にあるのと同じように、私のこの恐れもまた、私自身が心の内に持つ「原因」に他ならないのだ。
だから誰のせいにも出来ない。自分のせいにも。
けれど今年に入って、数ヶ月かけてこれらのことに気付いてきた。
気付けば手放せる。
手放し方もさまざまな場面で様々な方々から教わってきた。
それに少しずつトライしている最中だ。
タイトルも文章も過去形ばかりだ。それらは既に過去のことだと私の中で決めたからだ。
決めてそう信じれば過去のものとなる。
今振り返ってみると、今年の3月から書き始めた詩たちは、私がそれらを手放すことや、その手放し方について述べていたように思う。
明確に意図していたわけではない。
今目の前にある学びを文章にしただけのことも多い。
けれど、この記事からは明確に意図し始めようと思う。
意図はするけど、押しつけはしない。
これをある程度やっていこうかなと思う。
この記事のギャラリー画像は、38年もの長くて暗くて怖いトンネルをもうすぐ抜けられる、そんなイメージからチョイスさせていただいた。
使わせて頂きありがとうございます。
アッ、詩はこのマガジンにまとめています。(いつもの文言)