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【自由詩が先か、定型詩が先か】俳句的を読んで(2章-1.2.3のまとめ)

 引き続き、「思考の整理学」の著者、外山滋比古先生の「俳句的」のまとめである。今回から2章に突入である。内容が整理しやすかったので、1項「耳の形式」。2項「エディターシップ」。3項「声と顔」について、同時にまとめる。

 本項で、

「定型詩と自由詩はどちらが先に生まれたのか」

という、小生長年の疑問に外山先生が答えてくださった。故人であられる先生から、こうして教えを受けられる。本って素晴らしい。

 また、本項では、外山先生の他の著書でもたびたび見かける「エディターシップ」という考え方も登場する。エディターシップとは要するに「編集機能」のことである。「編集作業は創造的仕事である」というのが先生の生涯の主張の一つである。詳しくは下記まとめをご一読いただきたい。

グーテンベルクの活版印刷以前には自由詩はなかった(1項P52)

 俳句に限らず、今の詩歌はどうも印刷にもたれ掛り過ぎる。目で見て詩だとわかるから、耳の方は忘れて勝手なことをしかねない。そういう勝手な韻文は自由詩だというつもりはないが、耳の形式、リズムももっと大切にしてもらわないと困る。グーテンベルク以前には自由詩がなかったのはなぜかを考えてみてもいい。

・詩人の言葉は化合の「触媒」(2項P58)

 T・S・エリオットは詩人の精神を化学反応の触媒にたとえた。自然では結合しないに物が触媒を仲立ちとして化合する。それと同じように、本来ならば結びつかない経験とか事象を詩人の心は化合させる。そのとき詩人は自分の個性を表現するのではなく、新しい化合に立ち会うだけである。化学反応の終了後、そこには触媒を務めた詩人の心は少しも残っていない。これが触媒の説である。

・編集は創造的な仕事であり、編集者は詩人(2項P59~61)

 エディターシップにおける創造が、いわゆる創造とすこし違うのはやむを得ない。かりに、作家が原稿、作品を書くのを一次的創造とするなら、編集者は、そうして生まれたものをよりよく生かすための工夫、二次的創造を行う。

中略

 一次的創造は創造であることがはっきりしているが、二次的創造はいわば影のようなもので表に立たないから、目につくのがおくれる 。現在においてもなお、充分はっきりととらえられているとは言えないように思われる。二次的創造者として、もっとも重要であるはずの編集者にしても、なお、みずからの機能を自覚していないことが多い。日本の文化はこの二次的想像を尊重する文化なのではないだろうか。自己主張をしない。それでいて個性が欠けているわけではないのである。ほかのものに隠れてあらわれる。仮託する表現である。

中略

 こういう創造(自己主張をせず、思いを仮託する、編集や俳句のような東洋詩的創造)が、きわめて近代的なものでありうることは、アイゼンシュタインのモンタージュ理論が俳諧に学ぶところがすくなかったことからも想像されよう。二次的創造は決してに二流の想像ではない。一次的創造の伝統が充分に熟してからでないと生まれることができないという意味で、これは後段創造、メタ創造と呼ぶ方が適切であろう。

・俳句は朗読に適するのか(3項P64~66)

 和歌については朗読、あるいは朗詠の伝統というものがあるけれども、俳句の読み方はそれほどはっきりした型がないのではあるまいか。もちろん型通りに読んでもしかたがない。それはわかっているが、各人がいい加減な我流を振りましたら、はた迷惑になりかねない。それに、これまでの俳句は、未知の人の前で聴かせることを予期して作られてはいないのではあるまいか。文字面の面白さによりかかっている。それを耳だけで分かろうとしても無理がある。短歌においても同じことは言える。現に『現代歌人朗読集成』にも「歌集」の別冊がついていて、目でたしかめられるようになっている。短歌に比べても、俳句はよりいっそう視覚的なような印象を受ける。絵画的性格が強い。まだまだ、にらみ、ながめる詩である。

中略

詩歌というのは、声でうたい、耳できくのが基本である。明治のこのかた、わが国の文学が文字だけで勝負してきたのは、悲壮な回り道であったことになる。だから声をとりもどすのは結構である。すこしでも早い方がいい。けれども、ただ声さえ出せばいいものでもない。下手な声なら、やはり、黙っていた方がましである。

・ちょこっと解説

①外山先生の主張を理解すると、「自由詩は印刷技術の進歩によって生まれた」となる。小生、「ニワトリが先か、タマゴが先か」的な話で、「自由詩が先か、定型詩が先か」と思考したことがある。その時、小生は定型詩が先だと結論に至った。

②ロジックはこうである。

昔の人たちが普通に話をしている→なんか「心に響く言葉や言い回し」というものがある→それらの言葉や言い回しを解析→そこには一定の法則(韻であったり、レトリックであったり)があった→その法則を皆に広めて、新しい「心に響く言葉や言い回しを探す遊びをしようぜ!→「定型詩」爆誕。

だと理解した。そして、自由詩は定型詩に飽きた人々の鬱憤、反動から生まれたものなのだろうと。

先生のお示しを足すと、耳中心の定型詩に不満があった人たちが、印刷技術の普及により「文字」を手に入れて、目中心の「詩」をつくったということである。

小生の考察が、あながち的外れな推測でなかったことが、本書により明らかになったので嬉しい。

③芭蕉の舌頭千転は、「耳の文芸」として俳句を捉えよということに繋がる。芭蕉すげえ。

・「俳句的」前回のまとめ記事


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