厳しいだけじゃなくて上手い指導者
新日本プロレスのヤングライオンの、トップレスラーとのシングル5番勝負が終わった。
日に日に変化していく辻選手と上村選手を観ているのが本当に楽しかった。凄いなぁと、感動させられた。
成長って素晴らしいし、鍛える側の能力というのをあらためて考える機会であった。
最終日の上村選手と飯伏選手のシングルを観ていて、昔自分がやっていた剣道のことを思い出した。
剣道には『掛かり稽古』というものがある。
簡単に説明すると上位者にマンツーマンで鍛えて貰う稽古方法である。
(上位者を"元立ち"、鍛えられる側を"掛かり手"という)
やり方は決まっていない。元立ち主導で進められる。
元立ちが掛かり手の力量を計り、掛かり手の持つものを引き出しながら、掛かり手自身の力量より上に到達出来るように鍛える。
この様に元立ちの力量や考え方に依存するので、良い掛かり稽古になるかどうかは、元立ち次第になってしまう。
有意義な稽古になるか、ただ体を動かしている運動になってしまうか?
この掛かり稽古、厳しい指導者が元立ちの場合ボコボコにされることがかなりの確率である。
"厳しくて上手い指導者"はボコボコにされながらも、掛かり手も成長している。
しかし"厳しくて下手な指導者"は、脈絡無くただボコボコにしているだけになっていて、掛かり手は何も学ばずただ体動かして疲れるだけである。
更にはボコボコにされた印象しか残らず鍛えられたどころか元立ちに対して憎悪が生じる可能性もある。。
上手い元立ちだと簡単には打たせてくれない。
『お前そんなんじゃ一生俺は打てないゾ』と言わんばかりに竹刀が元立ちにかすりもしない。
そんな中で掛かり手は「どうやったら、この人を打てるのか?」と掛かりながら考える。
これはダメか、ならこうしてみよう、これもダメか、、何が足りない?何故だ?どこがおかしい?
ボコボコにされながら、体がキツイ中で頭もフル回転させて考える。
その厳しい状況から逃げてはいけない。逃げずに向かって乗り越えた先に光が見える。
その光を見られた過程が自信となる。
上村選手と飯伏選手のシングルを観ていて、剣道における掛かり稽古と同じだと感じた。
飯伏選手は"厳しくて上手い"指導者がする元立ちであった。
飯伏選手は上村選手に簡単に技はかけさせなかった。簡単にかけられないんだとわからせ、そうなった時どうするかを実践の中で考えさせたのではないか。
そして、終始容赦無くとても厳しかった。これまでの5番勝負の先輩レスラーの中でも一番厳しかったのではないか。圧倒的な格の違いを見せつけていた。
それは、どんな強い相手であっても、リングの上で窮地に陥った際に乗り越えられるように、今日経験をさせたかったのではないか。徹底的に厳しくしてその体験をさせたかったのではないか。
飯伏選手自身がリングの上でそういう窮地を乗り越えることがいかに大切か体験しているであろうし、乗り越えるとどうなるかをよく知っている。
『逃げない、負けない、諦めない』で大きな物を掴んだ人だから。乗り越えると光が見えることを知っているから。
また、試合後とても印象に残った場面がある。
通常、プロレスの試合では勝者は勝ち名乗りでレフェリーに片手を挙げてもらう。
しかし飯伏選手はこれを拒んだ。
飯伏選手がそれを拒んだ本当の意図はわからない。
でも、飯伏選手の中でこの一戦は勝ち負けを決める試合ではなくて"稽古"だったのではないか。
この試合は徹底的に上村選手を鍛えることしか無かった。それ以外の要素は無かったのではないか。
だから勝ち名乗りを拒んだのではないか。この一戦に"勝ち負け"という概念は無い、と。
剣道ではガッツポーズはしない。してはいけない。勝ち負けは最重要事項ではなく、勝負を通して自分の内面を成長させることが剣道における本質。それが稽古である。
プロレスは基本的にはガッツポーズも勝ち名乗りもある、勝ち負けの世界である。
そんなプロレスの世界で、今日はガッツポーズも勝ち名乗りも無かった。
だから今日の試合は稽古だったんだと思った。
それが、上村選手にも伝わったのであろうと試合後のバクステコメントを見て感じた。
そして先輩飯伏選手も試合後に自身のTwitterでこう呟いている。
あれだけボコボコにしたあとのこのフォローのコメント。
ボコボコにされてしまった後輩にやる気を持たせる、愛ある素晴らしい先輩だ。
スポーツや競技の世界での後輩を鍛える厳しい先輩っていいな、とあらためて思った。先輩って凄いな、と思った。
極限を経験し、その先も味わっている先輩に鍛えて貰えるって凄くありがたい、幸せなことなんだな、と強く感じた一戦であった。