ズボンのことをズボンと呼ぶことにした。
履き物としてのズボンを、パンツではなく慣れ親しんだ「ズボン」に戻すと友人に宣言した。なんだか清々しい気分だった。言葉は日々変化していてーーアップデートというより「変化」だ。個人的にアップデートは最新かつ現段階の最高みたいなニュアンスがあるーー女子中高生が使っている言葉を大人たちに教えるツールも多い。
彼女ら彼らの言葉がこの社会の最新である価値観に異を唱えるつもりはない。けれどなんでもかんでも寄せなくていいよなぁと思うようになった。
そもそもは26歳を過ぎたあたりから、体感的に分かり使っていた流行り言葉と距離ができ始めた。仕事では丁寧語だしなと、流行り言葉を使わず丁寧な言葉遣いにした。そうすればダサい/ダサくないというジャッジの外にいられるし、元々の私は丁寧な言葉が好きだった。それまでは頑張ってぞんざいな言い回しをしていただけだったので話しかたの変更は気持ちよかった。
それでも自分の預かり知らない場所で、うわっまだこの言葉使っているのと思われるのはなんか嫌だった。だから小さいころズボンと呼んでいたものを「パンツ」と言ったりしてたけど、この2〜3年で時間をかけゆっくりと、誰にも求められていないおもねりはもういいかなと自然に思い始めた。
もちろん相手は選ぶ。古い話しかたをして、会話で句読点のような「?」の間を作ってしまったり、嘲笑をわざわざ浴びる必要はないから、相手がパンツパンツと連呼する場面では私もパンツと言う。ノイズキャンセリングもノイキャンと言うだろう。
でも、この人だったら伝わりそう、みたいな相手には年齢に関係なくノイズキャンセリングというしズボンと言う。「あるあるだよね」も使う。
正確には、「今日のこのパンツがさぁ、いや、ごめん、ズボンと言うね」とこっそり表明のような断りを入れて話す。意外なことに、私がズボンと言うと決めた相手たちは少しほっとしてくれるというか、「本当はズボンが言いやすい」とか「パジャマのパンツを言うとき迷う。パジャマはズボンだし」みたく、なんだかちょっと打ち解ける。みんな内心ビクビクしているのだなと思う。
私達は老若男女すべての世代で、自分たちが慣れ親しんだ言葉を大切にしていいのではないかと思う。流石に「旦那さんとエッチして早く子どもを作らないとネ」みたいな台詞は時代に即していないからアップデートが必要だけれど、カタカナの「ネ」に関してはその人がどうしても使いたいなら使えばいいと思う。単なる言葉としての「旦那さん」「エッチ」「ネ」は、それを使うと不快に思われたり嘲笑の的になったりする場合があると自覚しているのであれば、時と場合に応じて決めればいいのだと思う。要は許容と自覚の問題なのだろう。
ーー私は親しい友達の前ではズボンをズボンと言うことに決めた。とても年下の友人がパンツと言えば同じセリフを使うけれど、ノイキャンはノイズキャンセリングと言うのだと思う。ケンタッキーフライドチキンのことは、昔も今もこれから先も「ケンタッキー」と呼ぶのだと思う。
それで笑われたら、まぁそれはそれでいい。相手を不快にさせない限り、そして自覚している限り、私は私の好きな言葉を使おうと思う。
言葉は変化していくものだから、ときには「エモい」みたく、ほかに替えが効かない画期的な発明もある。あれはノスタルジーとはぜんぜん違うし、エモーショナルではしっくりこない。チルとも異なり、哀愁とはずいぶん遠い。言葉フェチとしては稀に発明があるのはうれしいしありがたい。
それでもやはり丁寧な言葉遣いが好きなので、基本的にはごく普通の言葉を使い続けるのだろう。自覚があれば何を使ってもいいと言いつつ、このエッセイの中に自覚できていない笑われる言葉が混ざっているだろうから、今度年下の友人に読んでもらって教えてもらうつもりだ。なんにせよ、情報だけは知っておこう。意思と頑固は紙一重だしね。
そろそろ夜が近くなってきた。今夜もお風呂に入ってパジャマのズボンを履こうと思う。下着としてのパンツをいつの日かショーツと呼ぶかは、今はまだ保留中です。ひとまず皆さんおつかれさま。みなに幸あれ。