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いつか賢くなりたかった

あおさんの一番のコンプレックスって何?と聞かれぞっとした。嫌だ、気づきたくない。コンプレックスを直視したくない。言葉にすると見えてしてしまう。

その場では、人に言える範囲のコンプレックス「一人でいるのがあんまり得意じゃないこと」を答えたけれど、全然違う。本当は「自分が賢くないことにコンプレックスを抱くこと」だ。賢くない、でなはく、賢くない自分にコンプレックスを持っていることが嫌なのだ。

なぜ「賢くないこと」ではないかというと、賢くなくても特に問題ないからだ。よく食べ働き運動して寝て自分の頭で考るのは大体の人ができる。

今はnoteなどで思考を外部化/視覚化し、アウトプットしつつ考えを調整していくこともできるし(紙が貴重だったり識字率が低かった昔は完全アウトプットに近かった)、思考を手助けしてくれる外部ツールは山程あるので、地頭が良くなくてもやりようはいくらでもある。

賢さの一側面を数値化しても、私は「特に悪い」というほどでもない。100人中すごく下位ってわけでもないのに、どうしてもコンプレックスを抱いてしまう。それは「努力不足」を認めたくないから。

つまるところ私は、努力したくないと拗ねている状態なのだ。普通に持って生まれた範囲内でできることを粛々とすれば良いのだ。でもそのためには常日頃からのささやかかつ重要な努力が要る。

知らない情報が出てきたらきちんと調べること。複雑な概念を難しい内容のまま届く形で伝えてくれる本を読んだり人に聞くこと、自分に合った入力と出力法を探ること、知った気にならず自分の頭で多角的に考えること、得手不得手を知ること。これは別に賢くなくてもできる。でも「できる」を実際に「やる」には労力が要るのだ。

何もせず賢い人にぽわんと憧れているほうが楽なのだ。

思考と精神の畑をこつこつ耕してきたじいさまから、お前さんは自分の畑をちゃんと耕しているのかい?と聞かれたら、何言ってんだおめぇ、おらだってちゃんと耕してるだ、と言いつつ雑草が生えている。

畑を耕しきった後で、なお届かないものがあるのなら、その時に初めて賢い人にコンプレックスを抱けば良い。まず耕す努力をしないと、自分の能力の畑の限界にすら直面できない。努力不足を放り投げて一足飛びに賢い人を羨むのは、なんというか、傲慢だ。だから「賢くないことにコンプレックスを抱く」状態が嫌なのだなぁ。

知らないことを知るのが好きだなぁ、は素敵なことだ。
でも理解が簡単ではないなぁ、はただの主観的事実。けれど、
もっと頭が良かったらなあ(頭が良かったら一瞬で理解できるから楽だなぁ=理解できるまでの努力面倒くさいなぁ)は努力不足からくるシンプルな実力不足なのだ。

認めたくないよう。賢さへのコンプレックスが、実はただ畑をちゃんと耕せていないことだとは認めたくない。

ーーけれど、と最後は肯定的な「けれど」も使いたい。けれど私はやはり、知らないことを知るのは好きなのだ。出来ないことが出来るようになるのも好きだし、出来ていたことが出来なくなったときにその幅で工夫するのもとても好きだ。

賢い人にうっとりするほうが楽だけど、楽しくはない。私は楽しいことが好きなのだ。たまに雑草を抜きつつ、好きに畑を耕そう。思考と精神の畑を耕していけば、いつかちょぴっとだけ畑が拡張されるかもしれない。それはきっと楽しい。

まずはこの気持ちを正直に書こうと思った。

そして結局、何をどう考えても、最終的にはただただシンプルにモテたい。こうして考えを深めるふりをして、ちやほやされる日を待っている。畑を耕しながら。みなに幸あれ。


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