光源氏の憂鬱
ーー15歳の女子高生はおずおずと車に乗り込んできたーー
激しい雨の日だった。閉館時間を過ぎ仕事を終えた私は、当時勤めていた図書館を施錠しようとしていた。5分ほど前に退社したはずの女性同僚が、裏口から私のいる事務所に駆け戻ってくる。
「あおさん大変です!女子高生が図書館の自動ドア前に立っています。とにかく美少女です!」
こういうことはたまにある。親が車で迎えに来るまでの時間つぶしに屋根のある図書館入口で過ごす中高生はごくまれいる。しかしそろそろ図書館を施錠しなければならない。
ひとつは閉館時間を大幅に過ぎていること。そしてもう一つは今すぐ家に帰って観たいアニメがあったからだ。高校生の彼女には申し訳ないけれど図書館の敷地外で待ってもらうしかない。そう思い、しかしまてよ、と思いなおす。
「雨の日に図書館の入り口に佇むとびっきりな美少女」って物語に出てきそうな設定ではないか。それが現実に起こる機会なんて多分人生で最初で最後だろう。と読書好きなら誰しも思う。ただ、アニメの最新話が私を待っている。早く帰らないと。
そんなことを思っていると、聞こえてきたのは「なんだかあの子とっても心細そうですよ」という女性同僚の声だった。
でもここで、「お嬢ちゃん、こんなところでいったい何をしているんだい?」と見知らぬ男(私)が話しかけたら通報されてしまう。しかも私はアニメが見たい。今週が最終回なのだ。
だがもし、同性のスタッフから「大丈夫?保護者の方は迎えに来ないの」と聞かれたら万事解決だ。
私はアニメを早く観たい一心で、女性同僚に「すみません、あの子とても心細そうなので迎えがちゃんと来るか聞いてもらえませんか? バスはもう来ないので最悪、僕が送っていきます。その時は同乗してもらえると助かります。お礼に今度好きなお菓子を大量に買ってくるので」とお願いした。
早く帰りたいのを隠し、3人という安心感を両者に与え、セクハラにならないお礼をしながら(女性同僚とは仕事外でもよく遊ぶほど仲が良かった)女子高生を車に乗せるよう導くという高等テクニックだ。お礼にご飯、とみな気軽に言うけれど、「お前とは行きたくねぇんだよ」となる可能性もあるのだ。
3分後、女性同僚が戻ってくる。バスを乗り間違えて、怖くなってとりあえず図書館で降りたらしいです。お母さんとも連絡がつかなくて心細く途方に暮れていたそうです。駅まで行きたいけどバスがないみたいです。そしてとにかく美少女です。という。
オーケー。私は送ることにした。15歳の女子高生はおずおずと車に乗ってきた。彼女は確かに美少女だったが、居心地が悪そうだった。
その表情を見て、私は「生まれて初めて本物の美少女と出会った」と思った。かつて読んだ小説に美少女についての記述があったのだ。便宜的にまとめる。
「本物の美少女には傷がある。ただ存在しているだけなのに目立つし、人を傷つけたり、妬まれる恐れもある。相当嫌な思いもしなきゃならないから自ずと用心深くなる。だから自分の美しさをひけらかす品のない人は本物の美少女ではない。また自分の美しさに自覚がない人もバランス感覚がなく本物の美少女とはいえない。本物の美少女とは、自分の美しさに自覚的で、だからこそどこか“ひけめ”を感じて居心地を悪くしている」
つまり、この“居心地の悪さ”こそ彼女が本物の美少女たるゆえんなのだ。
3人を乗せた車は駅に向かう。後部座席のその人は居心地を悪くしていた。やはり、振る舞いが美少女だ。
20分で駅に着く。着きましたよ、と振り向く。その人は、後部座席に置いていた私の大きなブランケットを肩までかぶりぬくぬくしていた。やはり美少女。
女性同僚がラインのIDを紙に書いて渡し、もしお母さんと連絡がつかなかったら家まで送っていくから連絡してね、と言った。その人はとびっきりの笑顔で「ありがとうございました」と私達に言い、駅へと歩き出した。「母と連絡がつきました」という連絡がしばらく後に来たらしい。
ーーすべてを終え家に帰り、アニメをつけようとリモコンに手を伸ばした私はとんでもない間違いに気がついた。
なんと稀有な機会を逃してしまったのだ。
年下すぎる彼女もいずれは大人になる。若いうちに知り合っておいて、大人になるまで待つという、あの伝説の「光源氏計画」ができたのではなかろうか。読書好きなので、その手の設定は文献で何度も読んだ。そんな機会なんて人生で最初で最後だったろう。あの時私の連絡先を渡しておけば……
テレビをつけると、女子高生がバイト先の年上店長に恋をするアニメの最終回が流れた。それはもう号泣した。
「10年後に」〜このエッセイで紹介した本と後日談
ちなみに、本物の美少女論のくだりは小説『麦の海に沈む果実』に出てきます。主人公が美少女の中高生の話です。いつも恩田陸さんの小説を読んで思うのだが、恩田さんの作品は特に冒頭がわくわくする。これは恩田さん好きの友人も全員そう言っていた。いつか恩田陸冒頭小説集を出してもらいたいものだ。
そして今回書いたことは、10年前に本当に起きた出来事だ。できるだけ当時のテンション感と当時の(なんとなくの)社会全体の許容範囲で書いたのだけれど、2024年では絶対に書けない内容だなと思った。美少女がどうとか、光源氏計画とか、田舎とはいえ駅まで送り届けるとか特に。冗談でも駄目なのだろう。
困っている人を節度を持って送り届けるのはともかく、それ以外の変化はとても好ましい変化なのだと個人的には感じている。
みなに幸あれ。