子どもの成長記録。子どもが自分の世界を生き始めたことに気づいてしまった。そんなこと分かってたことなのに。
おぎゃー!と産まれたての赤ちゃんはお母さんが全て。
何をするにもずっと一緒。
それが荷が重いという考え方もあるけど、逆に私は誇らしかったりもした。
自分のためにこれ以上どう時間を使ったらよいのかわからず、手詰まりだった私が結婚して我が子に会えて、やっと、誰かのために自分の命を使えることに安堵した。
しかし子どもはいつかは親元を離れていく。
親もまた、子どもから離れないといけない。
そのいつかは、知らぬ間に近づいてきてあるとき急に訪れるのだと思っていた。
けれどどうやら違う。
少しずつ、離れていくサインを感じている。
それも頻繁に。
もう自分で起き上がれるのか。
もう自分で歩けるのか。
もう自分で掴んで食べるのか。
登園しても泣かないんだなあ。
自分でできることが増えたなあ。
そんなものから始まって、小学校に入ってからは目を見張るスピードで子どもが変わっていく気がする。自分より物を知ってる子ども、自分より早く新しいことを覚えてしまう子どもを見るにつけ、いよいよその成長スピードに「待って、ゆっくり大きくなって」などとお願いする余地はないと知る。
スピードにあがなってもむだ。
乗っていかないとあっという間に置いて行かれてしまう。
もうこんなにおっきくなったんだなあ。
でもやっぱり、まだ、かわいいなあ。
成長のひとつひとつは素直に喜びながら、子離れの時期が近づいて来る事実を突きつけられる。
と同時に、心もあれば理性と知性の生き物である人間を育てるということの難しさや親の責任にまた重圧を感じる日々だ。
あれもこれも、出来るようにさせなければ。そう思うが親の思惑通りにはいかない。「なんでこんなこともできないの!?」口に出さないようにするだけで必死だ。
勉強はそこそこでも、礼儀や思いやりがあって転んでも立ち上がる強さのある子になってくれればと思っていた。言うは易し。実際は、その難しいことと言ったら。
とは言え、何をするにも、まずは自分を信じることから始まると思っている。だから上の子にも、下の子にも「だいすきだよ」と伝え続けている。根拠はなくても、自分は愛されているから大丈夫と思ってもらいたいという私の願掛けのようなもの。
特に上の子はずんぶん長いこと「だいすきだよ」と言っていることになる。いつも返事は「僕の方が好きだよ」だったのに最近違っていた。
「ママがね、変なこと言う時は好きじゃない」
変なことを言う時?
たまに酷く怒らせてしまうことがあったけどそれかもしれない。
けれど、こちらからしたら何がいけなかったのかわからないので私は知らぬ間に息子が好きじゃないママになってしまったようだ。
こうして「ママ大好き」な世界から脱皮して自分の世界を構築していくんだろうなと思う。僕の好き、僕の嫌いができて、ママはどんなときも好きでいたのに嫌いなときも出てきて。
自分の好きと嫌いがある、それは健全なこと。
けれどさみしさを覚えずにはいられない。
先日、夫が留守につき私が上の子を初めて将棋教室に連れて行った。
息子は席に着くとキリっとした面持ちで駒を並べ始めて、私と目が合うといつもより少しおとなな顔で小さく手を振ってくれた。
先生に軽く挨拶して、立ち去り際にエレベーターからもう一度、顔を覗かせて息子を見たけれど盤面に集中して私の方は全く視界に入っていなかった。
将棋教室は息子にとってママのいない彼の世界なんだなとしみじみ思った。
エレベーターを降りて人混みを抜け家路を急ぐ。小さく手を振ってくれた息子の表情を思い浮かべたら、目頭が熱くなって雨降る街のように視界が濡れる。
その時は下の子をベビーカーで連れていた。
昨年の夏はまだ歩けない下の子を抱っこやベビーカーで連れ回して上の子の幼児教室に通った。あの頃はまだ、私はあの子と同じ世界にいた気がする。見送ると、またすぐこの胸に帰って来る息子を想像できた。
もう違うんだと思い知らされた。
ぴったり重なっていたふたつの輪っかが少しずつ離れて行って、私の輪っかから外れていく息子の輪っか。息子の世界が着実に育っていくのを感じる。
息子は、将棋教室が終わればまた帰って来る。
でも、将棋に勝つ楽しさ、負ける悔しさ、成長する喜びを自分の世界の中に貯めて、どこか遠くに続く自分の道を歩いていくんだとわかる。
きっと彼はもう、自分の力で闘うということを覚えたのだろう。
おめでとう、息子。
どうか目の前に広がる世界があなたを優しく包んでくれますように。