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ワーママの難題。何かを手に入れるには何かを手放さないといけないの意味。

働きながら子育てをする上で一番苦しいのはトレードオフだと、長いこと、多くの人から聞いている。

例えば、仕事で成果を出そうとすると家族に皺寄せがいく、とか仕事と家庭をうまく回そうとすると自分の体調が崩れる、と言うように。

その一方で「私はなにもあきらめない!」そんな頼もしいキャッチフレーズも聞く。何も犠牲にしないと豪語する強者もいるということだ。

前者と後者の違いはなんだろう?

すごく雑に解釈すると、前者は「欲しいものを手に入れるには何かを手放さないといけない」状態で、後者は「手放してもいいものは手放しつつ、欲しいものは手に入れる」状態なように思う。

俗に言う恵まれた人は、お金や理解ある周りの人の数やバイタリティ、能力、子どもの出来上がり具合、などなどさまざまな面で手放すものが少なくて済んでいたり、余裕があるので手放すという行為に痛みが伴わない人だろうか。

ただ、多くの人はそれでも「時間、お金、体力」などの制約をもろに感じながら、子どもに対して少ない大人の人数で(ときにワンオペで)回しているではないだろうか?と想像している。

もちろん、私は、いつも、毎日を生きるのに必死。

ただ、最近思うことがある。

「何かを得ようとして、出来なかったから諦める」という段階が来た時、私は何かを「失った」とはもう思わないんじゃないか、ということ。

ほんとにただの想像だけど、例えば、すごく仕事が忙しくなってしまって、夫の仕事が立ち行かなくなり子どもが精神不安定になりそうだとする。

そしたら、私はその仕事は降りるし、結果降格になるかもしれない。その時、私は例えば「ポジションやサラリー、しいてはキャリアを失った」と思うだろうか?


それが、そうは思わない気がしている。

なぜ、そのように考えるようになったのだろうか。

仕事への意欲が低くなったり、妥協が出来るようになったのかもしれない。仕事と家庭の両立に疲れて仕事への情熱が削がれてるから?

どれも間違っていないけど、正解でもない気がしている。

今思うのは、何かを失っている時でさえ何かを得ている、逆に、何かを得ている時にも何かを失っていると言うこと。

だから、トレードオフがあれば、自分に新しい恵みが注がれているだけだと思うようになった。ただ、その恵みが何か、気づかない時間が存在するだけで。

例を挙げてみたい。

専門性を極める仕事の仕方をしていたとき成果も上がって評価もついて、自分はハイパフォーマーだと思っていた。けれども、自分のやり方を否定されるとひどく気分が悪くなったり、人の仕事を厳しく扱いがちで、逆に人間としての成熟度の弱さが目立ち、昇進できなかった。
何かを得ているようで失っていた。でも、その手痛い経験があったからこそ、後に仕事の幅を広げポジションアップもすることができた。

それより前、かつて、かなりスピード感を持って昇進したとき私は認めてもらおうと躍起になっていた。昇進でやっと認められたと思った時は躍起になってアクセルを踏んでいた自分を止められなくてその勢いで進もうとしていた。結果、長くその職務を続けられなかった。何かを得ているようで失っていた。でも、その手痛い経験があったからこそ、産育休を経てキャリアを繋ぐ自分に生まれ変われた。

尊敬する上司の退職と子どもの入院や小1の壁が重なり「もう仕事は続けられない」と追い詰められるくらい低空飛行の日々があった。何もかも失ったと思いきや、なんとか生き続けた先にあったのは「この大変な日々をひっくるめて活用して、誰かの役に立ちたい」という思いだった。失ったようで新しい発見をした。だから今がある。

例はあげればキリがない。

ここまで歩んだ道のりは、何かを得たと思った時は何かを失っており、またはその逆で、その経験があって新しい自分に出会えた、そんなことの繰り返しだった。

もし、次に私が何かを失うことがあるときは代わりに何かを得ているときになる、あるいは、新しい自分に生まれ変わるときな気がしている。

もちろん、必ずしも、よい変化ばかりではないのかもしれない。

ただ、歳を重ねてより強く優しく生きる人たちを見ていると、そんな試練すら魅力的な人間に仕込む肥料のように感じるから不思議だ。

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