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書くことが怖かった話
ずっと文章を他者に見せることに抵抗があった。
書くことは、話すことよりも、自分のコントロールの範疇を超えて無意識があらわれてしまうと思っていた。そうしたら、自分がバレてしまう。自分を知ってしまう。そう思っていた。
けれど、書いてみたら何のことはない。わたしはわたしのことが分からないままだし、ほとんど理解されなかった。だから、だからと言うべきなのかな。最近は、世界にたいして少し安心するようになった。諦めがついたともいう?
私は突き放している。どうにでもなれ、と。私は行う。私は言い訳はしない。行うところが、私なのだ。私は私を知らないから、私は行う。そして、あゝ、そうか、そういう私であったか、と。 私は書く、あゝ、そういう私であったか、と。然し、私は私を発見するために書いているのではない。私は編輯者が喜ぶような面白い小説を書いてやろう、と思うときもある。何でも、いゝや、たゞ、書いてやれ、当ってくだけろ、というときもある。そのとき、そのとき、でたらめ、色々のことを考える。然し、考えることゝ、書くことゝは違う。書くことは、それ自体が生活だ。アンリ・ベイル先生は「読み、書き、愛せり」とあるが、私は「書き、愛せり」読むのも、考えるのも、書くことの周囲だ。うっかりすると、愛せり、というのも、当にならない。私はそんなに愛したろうか、確信的に。私が、ともかく、ひたむきに、やったことは、書いたことだけだろう。
習作の機会もなしに、作家になりたいといった野心などまったくないまま、私は文章を書く行為を通して、一つの再生、言い換えるなら過ぎ去った年月の間の人生を整理して自分自身を客観視し、ふたたび生きていく力をそこから得ようと試みていたのかもしれません。(中略)自分というものをどれくらい遠くまで放り投げ距離をおいて自己分析できるだろうか?当時の私はひたすらこうした気持ちと目標をもって、毎晩のごとく原稿用紙を前にしていました。
★今日の本
・坂口安吾「私は誰?」(『坂口安吾全集五』筑摩書房、一九九八・六、青空文庫にも入ってます)
・李良枝「私にとっての母国と日本」(〈同氏『刻』講談社、二〇一〇・五〉所収)