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邪道作家第13巻 遺伝子兵器の謎を追え!! 人類進化との戦い あとがき付

テーマ 非人間讃歌

ジャンル 近未来社会風刺ミステリ(心などという、鬱陶しい謎を解くという意味で)


縦書きファイルは固定記事参照


簡易あらすじ

サイコパスは「進化した人類」そのものだ。

連中のような「愛」だの「何かの為」などという観念は無いが、生憎元々が仲間もおらず敵だけだ──────思うに、奴等は環境に恵まれ過ぎて、持たざる者を理解しない。


私には、なかった。考える暇さえも。


だが、ここまで突き進んだ!! あんな奴等に出来る事が、他ならぬ邪道作家に出来ない訳が無いということだ!!
  

無理だとか、無駄だとか、そんな言葉は聞き飽きた。

邪魔する奴は、個人だろうが世界だろうが、物理的にブチのめす!!  


味方はいない。仲間は皆無。だがそれがどうした──────たかがその程度で、私が、この「邪道作家」がめげるとでも?

やるしかないなら、やるだけだ。 
根拠は無い。希望は無い。未来のアテなんぞ知ったことか!!

その生き様、いや「在り様」を見て、何かを感じるなら払うがいい。無論、私は見向きもしない。


さあ、そろそろ終点だ。  

非人間が、殺人鬼作家が、どこまで辿り着くのか見るがいい!!







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 「完全なる悪」とは人間が生み出したモノからは生まれない。元からそうであるモノ、生まれついての悪のみだ。
 何かにすがる事を「正義」何にもすがる事なく生きる事を「悪」と呼ぶならば、人間は大抵の場合「正義」を選ぶ。楽だからだ。実際、私も持つ側にいれば、なんて意味のない仮定ではあるが、その方が人生楽して充足できただろう。
 私の場合その仮定すらも無意味だが。
 私はあくまでも人間の物真似をしているだけだ・・・・・・ただその魂の在り方が「最悪」であり、その結果善悪ではなく己に従うだけ。とはいえ、悪とは大抵の場合「敗者」であり、正義とは大体の場合「勝利者」である。とどのつまり勝利できないからこそ、そんな場所にいるのだ。
 勝利者に己を恥じる必要はない。
 勝利すれば当たり前のように「正しさ」を肯定できるのは人間社会の古くからの規則だ。むしろ物理法則と言うべきか。敗者の都合を考える勝利者などそれこそ胡散臭い。相手の都合を意にも介さないからこそ争いは起こり、勝利者の手前勝手な都合、自己満足の正義が通る。
 だから私は王道の物語が嫌いだ。
 正義などどこにも存在しない。努力すれば何かが叶い、その正しさ故に身を結ぶ。如何にも詐欺師ですら話さないような内容ではないか。
 それはただの幸運だ。
 実のところ「偶然」に過ぎないのだ。勝利者として恵まれているから正義であるかのような気がするだけで、実際のところ物語の主役という輩はただ暴力を押し通しているだけに過ぎない。大層な信念や勇気、執念があるとして、だから、何だと言うのか・・・・・・そんなモノは悪人の方が持ち合わせているではないか。
 悪こそ咲かない不遇者の山だ。
 勝利する事がわかっていて、勝利するべくして勝利し、勝利そのものに「正義」だの「善悪」だのを持ち込む幼児の話を見て、何が面白いというのだ。そんな噺は聞き飽きた。勝たざる運命、持たざる存在、悪が高々と笑う光景こそが、面白さの極地だろう。
 そうでなくては面白くない。
 その方が、面白い。
 現実から目を逸らさないという点では、案外、悪人は悟りに近い存在なのかもしれない。無論、そんなモノはどうでもいいが。
 悟りなど有ろうが無かろうが同じだ。
 何を知り、何を成し、何を信念としようが、全て同じ事だ。とどのつまり当人の内なる世界の枠内に存在する規範に過ぎないからだ。問題は、善悪でもなく悟りでもなく小綺麗な綺麗事で飾り立てられずとも、それを貫き通せるか否かだろう。・・・・・・勝利から縁遠い以上、それを貫くどころか形にさえ出来ないのが、私の現状ではあるが。
 我ながら、何をしているのやら。
 書いたところで、何がどうなるというのか。
 己を示す事が出来ねば、それは内々の世界にしか存在せず、そんなモノは無いも同義だ。それでは噺になるまい。私は成長したい訳でも誰かに認められたい訳でもない。まして人間の世界で本質など追い求めたところで、そもそも私は人間ではないのだから、そんな感覚は存在しない。
 物語などその最たる例ではないか。物語から学び取り成長出来るならば、人類は全て覚者になっている。つまり、そういう事だ。
 心に残ったという錯覚を覚え、それでいて学び成長したと思い込み、それだけだ。物語に人間性を変える様な性能があるならば、人類史において争い事は数千年前で死滅している。何も変わらないまま人類はここまで来た。それが事実だ。
 やれやれだ。人間ではなく、人間の物真似をして人間の「フリ」をしているだけの化け物が、どうしてこう、本来人間が歩むべき道を率先して歩かねばならないのか。人間的な成長など私がしてどうなるというのだ。人間性を持たない私は、ただ人類社会に折り合いをつけ適度に充足しつつ、金を儲けられればそれでいいというのに。
 人間がそれを行い、私は回らなくてもいい遠回り・・・・・・嬉しくもない「本質」を歩む。いい加減馬鹿らしくなってきた。
 表面だけあればそれでいいではないか。
 成長だの過程だの真実だの、ロクなモノではない。押しつけられた私が言うのだから間違いない・・・・・・薄っぺらい仕事もどきで、それらしい表面だけのハリボテで、ただ幸運に恵まれただけの信念で、金を儲ける連中を飽きてからも見てきた。 それでいいではないか。
 何故、人間でもない私が真逆を歩き、人間共が美味しい部分を啜れるのか。正直、楽で羨ましい・・・・・・私の労力は何なのだと考えざるを得ない。 楽と楽しいは違うと人は言うが、しかし苦痛と苦悩、労力と徒労が楽しいとでもいうつもりだろうか? 馬鹿馬鹿しい。楽しい事など何もない、のではない。「楽しい」という概念そのものが、私には最初から無い。
 言わば、労力だけを押しつけられている形だ。 その癖、連中はこちらに綺麗事の人間性を押しつけるというのだから、笑えない。結局のところ持つ側にいるか否か、それが全てだ。
 勝利する側が全てを得る。
 負けて得られるのは屈辱と死だけだ。
 それが、人間ではわからない。いや、理解する事を放棄する。表面だけの癖に、真実も連中は語り出す。道理を引っ込める力があれば、真実どちかなどどうでもいい。結局のところそれだけが、延々と繰り返されてきた。
 そんな世界に「本質」だと?
 何の力があるというのか。物事の本質など、残り滓のようなモノだ。何の力も価値もない。誰一人として気にはしないし、変えられる立場にいる存在が自由に決める緩い世界だ。そんなモノを追い求めるのは、現実に余力があり、暇を持て余した挙げ句自身の正当性を他者に認めさせたい、豚のように肥え太った「持つ側」に過ぎない。
 その程度、という事だ。
 だから、私は金が欲しい。
 役に立たないゴミよりも、確かな金、確かな力・・・・・・経済が破綻すればそれまでだが、金という概念は無くならないし、回る限りは確かだ。
 嘘八百の綺麗事よりは、信じるに足る。
 元よりこの世界に「正しさ」など存在しない。常日頃から私はそう考えているし、それが事実だろう。善悪などと言うのは「縋る」為のモノだ。何が正しいか何を信じるか何を志すのか・・・・・・こればかりは己自身で決めるしかない。それを怠る輩は多いが、縋った何かが縋れなくなれば、悲惨の一言に尽きる。デジタル社会が進んでからは、それが非情に多くなった。信じるべき何かではなく、信じられる何か、他者の意見でそれを誘導する事が増えたからだろう。何を信じ何を考え、何に挑むべきか、それを自身で考えなくとも良い、という風潮が増えている。
 今回の物語は、それを覆す物語だ。
 信じるべき何か。それをどう判断するのか・・・・・・世間の倫理観に任せるのは簡単だ。しかしそれは己で出した答えではない。正しく感じるのは、それを正しいと刷り込まれているだけだ。世界に明確な善悪など無く、それ故に正しさなど無い世界で、己で信じられる何かを固定しなければならない。信じたい何かではなく、定めた法に乗っ取って進むのだ。
 それが真実か虚実か。
 判断するのは己自身であるべきだ。
 元々世間の倫理観など鼻にもかけない私ではあるが、比較するだけならば参考にはなる。少なくとも、世間の読者共の大半はそれに縋る事で、物事を判断しようと考える。凡俗の読者共に合わせなければならないのは面倒だが、これも仕事だと割り切ろう。売れもしない作家業を仕事と呼べるのかは微妙なところだが、何、己を示しさえすれば、示そうと心がければそれが「仕事」だと、言えなくもない。言えなくても知らないが。
 さて・・・・・・物語を語るとしよう。
 金にならなければ語るだけ無駄な気もするが、語らなければ己を示せないというのだから、全く世界一因果な商売だと嘆息せざるを得ないが、私は「邪道作家」だ。金に換えてみせる。今回の物語もこれまでの物語も、無論これからの物語もだ・・・・・・口にするだけなら簡単だが、実際、どうすれば売れるのかと言えば、物語の売れ行きなど、中身など何の関係も無くそれが売れるから売れるというのだから、我ながら無駄な足掻きかもしれないが、それらを理解しきった上で諦めが悪いのも、また私という作家の宿業なのだった。
 やれやれ、参った。
 せめて金になればいいのだが。
 
 
 
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 物語を書きながら物語について考え、思索しながら物語をどうするか考える。我ながらどうかしているが、引き下がれる程浅い所には、既にいないと考えるべきか。それならそれで深度に見合うお宝があれば嬉しいが、生憎と暗闇しか映らない・・・・・・深すぎるのも考え物だ。
 デジタル社会が発展してからというものの、作品の善し悪しよりもむしろ、デジタル世界で広めやすいかどうかこそが売り上げの基準だ。そこに面白さなど必要ない。むしろ、つまらないゴミで有ればあるほど、広めやすい。
 それらしくあればいい。そもそも現実を上手く生きられない連中こそそういう世界にはまるのだから、当然だろう。そういう連中に聞こえの良い妄想を伝えるだけで構わない。逃避を良しとし、それを肯定する物語だ。薬物中毒者にまともな会話が成り立たないのと同じ・・・・・・騙して奪って、人生を食い物にすれば、金になる。
 それを良しとするのも、また人の世だ。
 問題は、そう、問題はその流れに私が食い込めていない事だろう。他者を食い物にするには優れた「幸運」が必要だ。それなりに技術もいるが、基本的には運だろう。持つ側、啜る側に立つとはそういうことだ。偶然に愛され流れに乗り、要領よく美味しい思いだけ啜れる存在。
 残念な事に、私にそれが出来れば苦労しない。 現実はその程度であり、信念だの誇りだの思想だのは何の力も持たず、そして勝利者とは偶然に愛されるかで決まるものだ。それを理解しているというのに、私には美味しい思いが出来ない。そのためにあらゆる行動を尽くしたところで、悪運以外のあらゆるモノは私の敵だ。
 そんな所まで悪に染まらずとも良いのだが・・・・・・まあ、そもそもそんな立ち位置にいれば、私は作家など志さなかっただろう。作家になる条件など至極明快だ。「世界を嫌いである」「己以外を不信である」「物語に傾倒せよ」そんな動機すら必要ない。売れれば作家だ。であれば、志す必要すらないのだから、完全に無駄な労力だろう。
 この遠回りに何かしら「意味」があったとして・・・・・・それは私の生活には関係ない。読者共が眺める事で楽しむだけだ。
 そんなのは御免だ。
 読者などどうでもいい筆頭ではないか。
 金も払わず物語を読もうとする上、善し悪しよりも流行で買う物語を決める。かと思えば私が、流行や流され安さにつけ込んだ物語を売ろうとしたところで、大手の出版社の物語しか、買おうともしない。
 忌々しい。
 読者が涙すればする程笑えるのが作家であり、作家が涙すればするほど笑うのが読者だ。
 相容れる筈がない。
 倒すべき敵だと言えるだろう。
 それなのに、だ。何者であれ、「辿り着くべき場所」というのは辿り着かない為にある。望んだ筈のどこかは彼方へと消える癖に、別に望んでもいない部分は達成される。俳優を志した筈が、いつのまにか根幹である物語の支配者に成り下がるのだ。結果、面白ければそれでもいいが、金にならず目的にたどり着かなければ、こちらとしては何の為に向かっているのやら、という噺だろう。 人生に意味はいらず、人生に価値など必要ない・・・・・・しかしだ。金はいるだろう、金は。
 やれやれ、参った。一番参るのは、この状況下で私は笑っているということか。我ながらどうかしている。面白ければそれでもいいとは。
 金になってくれなければ困るのだが。
 作家として他者の人生に関与し、あるいは人間性をあざ笑う事で風刺とする輩もいるのだろう。しかし私はそんな事より金が欲しい。
 そもそも、売れなければ誰が読むのだ。
 後になって私の作品を使い、勝手に儲けられるのだけは御免被る。私が労力を払ったのだ。それに見合う金が私が受け取るのが当然だろう。
 道理を殺してでも目的は果たすべきだ。
 摂理は克服してでも金を稼ぐべきだ。
 世界など、敵に回すのは前提でしかない。
 何もかもが私にとって使いつぶす対象だ。問題はそれに見合う能力、というか要領だの能力だのが足りない部分か。しかし、それを自覚せぬままに「正義」だの「論理」だの「文化」だの叫ぶ、そういう凡俗の方が美味しい思いをするのだから・・・・・・やはり幸運に味方された奴が勝利する。
 忌々しい。
 実際、「最悪」とは良く言ったものだ。悪とは敗北する運命にある。世界最弱というより、全てにあらかじめ敗北している事を公言している。
 だからこそ「最悪」だ。
 私は最悪だ。私を越える悪は存在しないかもしれないが・・・・・・同時にそれは、ただ一度の勝利さえ存在しない事の証明だ。
 どうしたものか。
 まさか、己の悪性に困る羽目になるとは。我ながら人生に奇妙な因果を考えざるを得ない。
 最近、ジャックの奴が音楽を聴かせる事で、私をなだめようとするのは、その辺り上手く立ち回れない部分を笑う為だろうか。だとすれば有る意味正解だ。どんな力を持とうが、それを活かし、己の糧に出来なければ、何も出来ないのと変わらない。
 出来る事は体をよじるだけか。
 笑えないし面白くない冗談だ。
 それが事実なのだから、尚更不快な噺だ。元より作家とはそういうものだが・・・・・・それを克服する為に、私は正道ではなく邪道を歩いている。歩みは今のところ何の成果も出していない。そのまま終われば己の全存在を否定するようなものだ。 結局、運不運なのか?
 私の歩みは意味が有っても価値には結びつかなのか。いや、意味など後から付けるもの。私の歩みも、読む存在がいなければ塵と消える。
 私は、何の為に。いや、それは明瞭だ。私は、私の為に動いている。しかし、それが叶わなければ、文字通り無意味な歩みだ。
 勝利とは与えられるものであって、選ばれなければ生涯無縁だとでも言うのか? 
 このままでは、そう結論づけざるを得まい。
 嫌になる噺だ。
 面白くもない。
 我ながら化け物という呼称ですら生温い。勝利を得られない事を知りながら、勝利を得たという事にして満足しようとし、幸福という概念すら、持ち得ない癖に幸福と充足を得たという形で満足しようとする。それでいて諦めるという概念も持ち得ず、それでも尚、指針はそれだけだ。
 私は何か。
 無論「最悪」だ。
 とはいえ、人生が舞台だと言うならば、私にとって役割ほどどうでもいい存在はない。問題は、それに幾らの金が支払われるか、だ。
 役割の割に安すぎる。
 割に、合わない。つじつまを合わせる為に、支払われていない部分を回収する為に、他でもない私個人の充足の為に、私はここにある。
 だからこその「邪道作家」だ。
 そうでなくては、作家などをしている意味がないではないか。
 私が、私として、私らしく生きる為に。仕事とは元来そういうものだ。生きる為ではなく、己が生きようとする為に、ある。
 ままならないにも程があるがな。
 実際、私は真実「幸福を感じ取れる」訳ではないのだ。それこそ薄っぺらい幸福・・・・・・運良く金儲けが上手く回った人間にありがちな、見せかけのモノでいい。あくまでも生き方の固定だ。しかし、あの女は少なくとも、私に「真実の幸福」とやらを押しつけたいらしい。
 依頼人の意向とは言え、御免被る。
 私にそんな感性は無いしな。
 無いモノは受け取れまい。
 有りもしない上、有ったところで感じ取れもしない「幸福」よりも「実利」だ。そんな事を言っているから私は化け物なのだろうが、まあそれはいいだろう。どうでもいい。人間か英雄か怪物かはたまた化け物か。違いは発音の違いだけだ。どれであれ同じだろう。
 問題なのは、人間であれ英雄であれ怪物であれ金は稼ぎやすいという部分だ。被害者ぶっている怪物共など、金を稼ぐには労力すらいらない。
 そのくせ連中はこう言うのだ。
 その「過程」こそが尊いのだと。
 馬鹿馬鹿しい。
 悩み、苦悩し、それでも前へ進み答えを出す。それが何だと言うのだ。その程度、誰にでも出来る事ではないか。辿り着けなければ同じ事。 
 その過程に意味は無い。
 その過程に価値は無い。
 その過程に、輝くモノなど有りはしない。
 有ったところで、私が消すがな。まやかしに付き合うほど私は暇ではない。有る意味、誰よりも忙しい。執着するが故に、私は真面目だ。 
 真面目に生きている、いや仕事をしている存在に対して、不真面目な答えは不愉快なだけだ。作家に何かを望むなら、まずは作品を全人類に売って来い。噺はそれからだ。モノを売る事をしようともせずに、物事の過程を引き合いに出し、綺麗事で済ませようとするのは「卑小」なだけだ。
 悪ですらない。
 そんな連中に付き合わされるのは、御免だ。
 結果よりも大切なモノがあると、結果を目指した事もない輩は言うが、それならば結果に辿り着いた上で、更に先を目指せばいい。私の場合、それは物語を売る事だが・・・・・・その先か。金と充足を得た上で、更に「邪道作家」として求める何か・・・・・・望む心など無いのだが。
 私は誰よりも実利を重んじるが、面白い物語以外に何か求めるモノなどあるのだろうか? 作家である以上、傑作を書き物語を読み充足を得ればそれでいい。元より「人間を辞めている」からこその「作家」だ。作家が人間の真似をする事はともかくとして、人間の様に何かを求める心など、有りはしない。
 求める幸福など、有りはしない。
 何もないからこその、私だ。
 人間の様に生き、人間の様に笑い、人間の様に死ぬ事を目的としてはいるが、まさか人間と同じ幸福論を持つ必要はあるまい。むしろ邪魔になるだろう。人間というのは過ぎた何かを求める事で敗北し、恐怖する。求めるモノが何もなければ、敗北も恐怖もない。無論、私は単に求める感覚がないだけなので、求めない事で平穏を得るつもりは更々ないが、要するにその非人間性を利用すれば要領よく振る舞えるということだ。
 効率よく、求める。
 求めるフリをし、目的とする。
 これほど楽しい遊びはあるまい。
 本来人間が恐怖し、嫌悪するモノこそ「最悪」である私にとっては極上の娯楽となる。その辺りを改善するつもりは一切ない。面白いではないか・・・・・・倫理も道徳も人間性すらも、目先の面白さに比べれば些細な事柄だ。
 綺麗事や倫理観に囚われ、踏み外す馬鹿な人間がいればいるほど、私が退屈する事は未来永劫無いだろう。その点、私には幸福、というか娯楽による楽しみは保証されている。人間が成長し、手手と手を取り合い前へ進む事など、人類の終焉を無限に繰り返そうが、あり得ないからだ。
 だからこそ、面白い。
 見せ物としての価値がある。
 意味は無くとも価値はある。面白ければそれでいい。価値など後付けで付随するものだが、私個人が面白ければ構うまい。無価値だが意志の力で実利や現実の枠を越え、意味そのものが力を持ち何かを変えるなど、物語の中だけだ。
 現実にそんな与太話があってたまるか。
 馬鹿馬鹿しいにも程がある。
 作家とは、物語というありもしない夢や希望を錯覚させる事で金を儲ける職業だ。与太話を信じるのは読者の仕事だろう。心地よい理想を夢見る事で現実から目を逸らす。物語から何かを学び、成長したとでも思い込んだか?
 それで成長できるなら戦争は起きない。この世界のあらゆる理不尽は姿を消すだろう。成長などそもそも無駄な徒労だしな。
 成長したから、だから何だというのか。
 高尚な存在に成れたとでも思ったか?
 下らん。そんなモノは、あってもなくても同じ事だ。成長など有りはしない。有ったところで、それが結果に関与する事もない。
 存在そのものが虚構なのだ。
 現実には、何一つ関与しない。
 したと、そう思い込むだけだ。
 実利と結果が有れば、それこそ同じだ。過程に何が有ろうがそこに辿り着けなければ全てが無駄・・・・・・逆に、辿り着けばそれで問題ない。結果が全てだ。「過程」などという言い訳は、辿り着く気が最初から無いからこそ出る言葉なのだ。
 生まれついての富豪に、精神の成長など必要有るまい。それで落ちぶれるのは当人の自業自得でしかないし、金を持つから怠慢になり、それによって敗北する訳でもない。どうあろうが変わらない存在は確かにある。
 実際、私はどの時代に生まれどんな能力を持ちどんな出会いが存在しようが・・・・・・人間を何とも思いはしないだろう。そういう「存在」だ。
 誰であろうと同じ事だ。
 問題はそこに、実利があるかだろう。
 売れればそれでいい。元より読者共に期待に値する何かなど存在しない。存在しないモノを求めるのは御免だ。有りもしない理想よりも、確かな現実を掴むべきだろう。そして現実には金で買えないモノは無い。売りに出されていればだが。
 そして人間の幸福は安売りされている。
 人間の在り方じゃない、とあの女なら言うのだろうが、しかし私は人間ではない。実際、どの口が「自分は人間だ」というのだ。いや、実際誰よりも私は人間らしいだろう。私ほど人間を大言している奴は、そういない。
 己の利益だけを考える。
 他者の犠牲はすぐに忘れる。
 法や倫理を何とも思ってはいないが、枠内で上手く立ち回りつつ、それらを利用する。他者は利用する為にあり、社会も利用する為にある。利用できなければ利用され、同じように使い捨てられるからだ。
 建前として綺麗事を利用し、善意も悪意も便利に使う。人間性は欺く為に存在し、喜怒哀楽の全ては利用して他者を貶める為にある。
 命は軽く、価値など存在しない。強いて言えば通帳残高で決まるだろう。金や人脈、権力や暴力こそが世界の揺るぎない「正義」だからだ。
 正義とは勝利者であり、勝利者とは権力者であり、権力者とは何ら特別ではなくむしろ、運に味方されているだけの存在だ。偉いか偉くないか、立派か社会不適合か、全てはそれで決まる。そしてこんな事は誰もが、自我が芽生えた時点で理解する事だ。
 世界が理不尽であるなど何を今更。
 理不尽を押しつける側に回れるかどうかではないか。まあ私は回れていないので、あまり大きな事も言えないのだが。
 何とかしたいものだ。
 私がどれほどの傑作を書き上げようとも、それで世界が変わるなどあり得ないしな。呼んで感動して飽きたら終いだ。他者の人生に影響を与えるだと? 馬鹿馬鹿しい。そうであるかのように、思い込むだけだ。そんな力があってたまるか。
 それが出来れば私はとっくに大金持ちだ。
 世界はその程度で、人間はその程度で、運命はその程度だ。だからこそ金だ。現実を買うのに、金ほど適した手段はあるまい。
 目を逸らしたいなら物語を買えばいい。しかし私は売る側だ。逸らす為ではなく楽しむために、私は作家なのだ。稼がずにはいられない。
 それでこそ、面白い。
 生きるに値する価値がある。
 今回の物語はその真偽を確かめる物語だ。無論私は実利だけあればそれでいいが、問題は読者共がどう思っているのかだろう。
 虚実のどちら側を望むのか。
 心地よいのは夢想だろうから、それを選ぶのは有りだろう。綺麗事を現実に押しつけなければ、だが・・・・・・今回はどちらなのか。
 どちらにしても、読者共が無様な人間性もどきを晒し、事実を見据えるのが遅すぎたと後悔しながら、絶望する様ほど笑える姿はない。終わりよければ全て良しとも言うし、ここは読者共の絶望で幕が下りれば良いのだが。
 悲劇ほど笑える結末はないからな。
 
 
 
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 手にしていないからこそ書ける。
 それは幸福であり人間性であり、愛であり勝利であり、理不尽を打破した「先」だろう。
 私はそのどれも知らない、というか、そんなモノを感じ入れる程恵まれていれば、作家など志しはしなかっただろう。だからこそ、書ける。
 ならば、執筆の為に捨てろというのか?
 ただでさえ縁が無いというのに、目指す事そのものを諦めろとでも? 馬鹿馬鹿しい。私が傑作を書くのは「ついで」だ。読者共は馬鹿の一つ覚えのように金だけ支払わせればいい。傑作を書く為に己自身の目的を諦めるのでは、本末転倒も良いところだ。
 知ってしまえば、書けなくなるか? 
 それは無い。断言する。無い。まず私には手に入らないだろう。というのも、感性がないからだ・・・・・・感じ入れない以上、存在しようがしまいが同じだろう。あろうがなかろうが触れなければ、存在しないのと同義だ。
 そもそも、仮定に意味などない。もしもの噺ほど下らないモノは無いのだ。実際にそんなモノは無いのだし、考えるだけ時間の無駄だ。
 それそのものはどうでもいいしな。
 艱難辛苦こそ「傑作」の元だとして、それこそが読者共の心を動かすとして、だから何だ。読者が求めるのは都合の良い英雄譚だろう。誰しもが現実の成長などよりも、安っぽい正義、浅はかな争い、それによる祝福を求めるものだ。その方が都合が良いのだから当然だが。
 苦労した挙げ句報われず、それでいて現実味があり、裏切り騙し、称えられず非難され、それでも戦う噺など、疲れるだけだろう。
 物語に求められるのは現実逃避だしな。
 それを上手くやれれば良かったのだが、私にはそちら方面の才覚がない。どうしたものか。意識して浅はかで面白味のない物語でも書ければ良いのだろうが、正直疲れる。その上売れるかどうかは手腕次第だ。中身は売れ行きに関係しないが、中身が浅ければ売れる訳でもあるまい。浅いければ売りやすい。それを売る輩が多いだけだ。
 モノの真贋など、役には立たない。
「そうでしょうか?」
 私はガラス張りの牢屋の前にいた。当然ながら依頼を受けてここにいる。今回の依頼人・・・・・・サリーローズウェルは大昔、作家の神と言われた存在の子孫、だそうだ。肩書きに興味はないが、その依頼と同時にとあるニュースが流れた事が、今回私を作者取材に駆り立てた。
 デジタルクローンだ。
 実用化そのものは以前から有ったが、偉人のデジタルクローンによる社会貢献など、倫理観や人権だのに囚われる社会ではそうそうなかった。死者の思いなどどうでもいいが、しかしその思想は面白い。
 私は面会室に設置された椅子に座り、ガラスごしに彼女を眺めた。背は低く、髪は灰色、まるでマッチ売りだなと私は思った。みすぼらしい部分などピッタリだ。しかもあちこち傷があり、物理的な痛みになれているようにさえ見える。私からすれば共感できない噺だ。精神に傷や痛みなど有りはしないが、物理的な傷であれば、その痛みは誤魔化せない。
「何故、そう思う」
「それは、そうです。私の先祖が偉大な作家だと言われたのも、その作品が「本物」だったからではないですか?」
「違う。本物かどうか、などという評論は後から出るものだ。その作家もそうだが、成功すれば、それが猿でも「素晴らしい」と誉めるものだ。それは評価や賞賛から来るものではない。ただ単に「そうであるらしい」と周囲に流された結果でしかないものだ」
「貴方は、作家なのですよね」
 どうだろう。売れてない以上そう名乗るべきか正直迷ったが、それ以外に言葉がない。私は素直にそうだと答え、そのまま噺を続けた。
「後生に残る噺を伝え、人々の成長を促す事が、作家の役割ではないのですか?」
「馬鹿を言うな。そんな筈ないだろう。売り上げがあれば誰でも作家だ。そして、物語によって、読者が成長する事など無い」
「そんな筈ありません。私も、この狭い部屋で数多くのお話を読みました。それは私にとって希望そのものです。多くの事を、学びました」
「すぐに忘れる。感動し学んだと叫び、成長した気分になって、次の日には忘れるだろう。物語から多くを学ぶだと? その分多く忘れるだけだ」 悲しそうな顔をする少女に、私は追い打ちを書ける事にした。早々に現実の絶望を教え込むのも作家の仕事の様なものだ。
「物語とは、有りもしない希望だ。嘘八百で現実には無い何かを魅せるだけ、そこに力は宿らず、空虚に消える幻でしかない」
「・・・・・・幻でも、私は」
 有りもしない妄想でもこの少女にとっては心の支え、のつもりらしい。どうでもいいが。読者の希望など潰れた方が、作品のネタになる。
「貴方は、どうなんですか」
「何がだ」
「真実などどうでもいい風に振る舞っていますが・・・・・・誰よりもそれに固執しています。でなければそんなひねくれた物語を書きません」
 大きなお世話だ。寄越せと言うから面倒ながら私の物語を貸してやったが、今のところまだ金を支払ってもいない読者とは、鬱陶しいものだ。
「さて、意味がわからないが」
 面倒なので適当にはぐらかそうとしたが、夢見る少女はしつこいらしい。私の態度など無視して噺を進めるのだった。
「貴方の物語は、そういう虚飾を嫌っています。浅い正義、薄い人間性、そしてそれらを受け入れてしまう読者達。誰よりもそれを嫌悪しているからこそ、貴方は物語でそれを証明したい。けれどそれには力なんてなく、結局そういう人達が勝利する世界を、皮肉を言いながら嘲笑する」
「それが、何だ」
「貴方は本物であろうとしているのではないでしょうか?」
「どうでもいいことだ。信念や思想など、実利に比べれば些末事だしな。私の物語は億年先でも、確かに読めるようにはしている。だがそれは読者共に期待しての事ではないし、私の作品が評価されなければ、というか売れなければ同じだろう」 売れない物語には力など無い。
 どんなモノでも金になるからこそ、後々に残るのだ。それが戦争だの迫害だのといった人間文化の象徴だろう。善し悪しはどうでもいい。
 勝てばそれでいいのだ。
 それが現実であり、事実だ。
「違います」
「違うものか。勝利者が正しさを手に入れる。揺るぎない世界のルールだ。それを誤魔化すというのは、現実から目を背けているだけだ」
「そうではありません。そういった現実と戦う為に、貴方の言う読者達は少しづつ学び、成長しようといているのです」
「ただの願望だ。そうであればいいという理想を体現もせずに口にしているだけだろう」
 実際、情けない言い訳だ。
 そんな事を言うために、私を呼んだのだろうか・・・・・・勘弁して欲しい。
 というか、私は何をしているのだろう。
 決まっている。辞められないから作家を続けているだけだ。そして、そこに意味などなく価値など無い。勝利できない存在にそんなモノがある筈がない。当たり前のことだ。強いて言えば、私は最初から存在そのものが「無駄」なのだ。何せ、勝利できない。そのくせ、要領良く生きる事すら出来ない。運命に負け続け、示し続けた行動は、全て徒労に終わる。
 私には初めから「人生」など存在しない。
 ただ徒労がそこにあるだけだ。
 さて、何故そんな事を続けなければならないのか? 簡単だ。そこに「幸運」がないからだろう・・・・・・とどのつまり運不運だ。
 どうせそうなる。言霊だの、因果応報だの、そういう情けない言い訳など入る余地はない。そんな言い訳など聞く価値すらない。
 策を弄したところで全て無駄に終わった。こんな風に私が作家として筆を動かすのは、出来る事は私にはそれしかないだけだ。
 実際、作家に何をさせているのだ。
 執筆以外に、私に出来る事などない。
 そも、あるべきではないしな。そういう意味では社会の仕組みそのものが、既に正常に機能していない。作家が売り上げを気にしなければならない世界。やることをやらなくても「幸運」によって勝利が保証され、何をしようが「不運」には、敗北してしまう世界。付き合わされる身にもなって欲しいものだが、世界に意志などないし、考える脳味噌があればこんな無様になるまい。
 情けない噺だ。
 こんな世界に挑む時点で間違えていたか。
 我ながら馬鹿な事をしたものだ。意志を持って行動し、社会に示そうとしたところで、それを、当人自身が「馬鹿な事」と認識せざるを得ない、これ以上の喜劇があるだろうか? 我ながら、何を必死に、そして真面目にやっているのやら。
 必要なのは行動ではない。意志ではない。信念など不要だ。何をするかより何を施されるかで、勝利は決まる。この世界に当人の意志の力とやらが欠片も介入する余地がない以上、今の私のように何かを変えようとする事自体が愚かしいのだ。 無駄だからな。
 無駄は省くべきだ。しかし、人間の意志や行動そのものが「無駄」というのは今の私にとって、もはやただの事実だ。・・・・・・・・・・・・そんな世界で希望や幸福、何かしらの成功や勝利、己の人生の道を選び、行動すること。
 それら全てがそも無駄ではないだろうか?
 何の意味があるんだ?
 意味はないし、価値も存在しない。
 案外、これは寄り道なのかもしれない。生きるという行動そのものが無駄だとすればそういう事だろう。それが「事実」だ。人生は一度きり、己の道を選び社会に存在を示し後生に伝える。しかしそれらは結局無意味で無駄な徒労でしか無く、勝利するかは運不運で決まり、幸運に恵まれるか否かだけで勝利者は決まるのだから、正直、どうでもいい事柄の筆頭ではないか。
 人間は無意味の権化、か。確かに。
 実際、人間の歴史を少しでも調べれば分かる話だ。幸運があれば日の目を見るが、幸運なくして勝利や栄光、あるいは後生に何かを伝えるなど、ありはしないではないか。私の物語とて、幸運に恵まれるかどうかで残るかが決まる。そして、私に幸運などないのだから、こうして己の存在を示し行動し生きる事は、無駄そのものだ。何の意味もないし価値がある筈もない。徒労でしかないし私が幸福になれる訳でもない。
 結局の所後生に何かを伝えられた人間など、いないのではないだろうか? 英雄だの偉人だのといった存在の全否定だが、事実だろう。後生に何かを伝え少しでも世界を良くしているので有れば私の様な存在はいない筈だ。
 何一つ変わらないから、運不運で終わる。それを大昔から繰り返し、押しつけ、無駄を繰り返しているだけではないか?
 人類の歴史は無駄の歴史ではないか?
 それが事実だろうに、取り繕い嘘をつく。
 いい迷惑だ。
 いずれにせよ私に出来る事は僅かだ。最低最悪の気分で作家に出来ることは、その気分を物語に変換し語るだけだからな。考えてみればそもそも物語をあっさり売り上げ充足を得られるので有れば、それは作家と言うより編集者だろう。
 要領の悪い私には成れそうにない。
 傑作を書いたからといって売れるかとは別の話だ。半端な気持ちで物事に望む輩にありがちだが「良い何か」を作り上げるのはむしろ簡単だ。それが主観である以上自己満足でしかないし、年月を掛ければ何であれそれなりになる。
 問題はそれが売れるかどうかだ。モノを売るにあたって大切なのは、商品の良さを伝えない事だ・・・・・・真実を歪めありもしない購買欲を抱かせ、中身のないモノを高値で売りつければ、大きな実利を得られる。
 薄っぺらければ薄っぺらいほど、それは成功や勝利に近づくのだ。ならばそれを上手く使おうと考えるのは当然だろう。言葉の力だの物語の素晴らしさだの、そんな妄言を信じる輩がいるならば作者取材を申し込んでみたいものだ。
 馬鹿馬鹿しい。
 あってたまるか、そんなもの。
 幸福を想像することはあっても、未来永劫実感する事のない私にとって、物事の本質など存在しないも同義だ。金による充足という体で、それなりの満足感を感じるフリで楽しみたいだけだというのに、何が駄目だというのか。いや、前提からして人間の幸福とはかけ離れているが、しかし、現実問題私にはそれが目指すべき地点だ。
 寒さは人間にとってはよろしくない「らしい」が、私にとってはただの健康問題だ。
 どうでもいい。
 私自身が感じもしない事柄を、どう思えと言うのだ・・・・・・何も持ち得ないからこその「私」だ。そこに「人間性」を押しつけるのは私の存在を否定するに等しい。何より、王道の物語であれば、それも有りだろうが・・・・・・私は私の物語を、王道などで済ませるつもりはない。
 邪道の方が面白いではないか。
 どうせ死ぬなら笑いながら死ねという噺だ。実利を掴み人間の欲を味わう真似をしながら、人間を嗤い人間で楽しめ。
 そして、その為には金が必要だ。
 そこだけが上手く回らないが・・・・・・やれる事をやるのではなく、何かしらそれ以上の手を探すしかない。正直ネタ切れも良いところだが、それならそれでネタを持っている奴を捜すしかない。具体的に言えば、「運を持つ」協力者だ。
 私はそれを探している。
 人間世界そのものに縁の無い私にとっては至難そのものだが、他に打てる手もないしな。
「貴方は哀しい人ですね」
 少女は言う。しかしそれは間違いだ。
「生憎だが、私に「哀しみ」という概念は無い。哀しみによって強くなる人間もいるらしいが、それは人間にのみ適用できる法則だ」
 自分達がそうだからと言って、押しつけられるのは迷惑だ。弱さもあれば強さもある。それは人間の話であって、私には何の関係性も無い。
「理解は出来るが共感は出来ないし、真似する気にもならない噺だ。人間性から離れているからといって、哀れまれる覚えはないのだがな」
「そんなつもりは・・・・・・」
 すまなさそうにサリーは言う。すまなさそうにしていれば侮辱も殺人も許される。それが人間世界の変わらないルールだ。その癖物事に本質を求めようとするのだから、正直笑えない。それらしく振る舞えば本質など重要視しない。本質を見ずとも、世界は本質の概念を押しつけられる存在が動かすものだからだ。
 つまらないし、作者取材の価値はない。しかし依頼によって向かう先は別だ。倫理も道徳も善行もどうでもいい些末事に過ぎないが、面白い作品のネタがあれば、向かう価値はあるだろう。無論この依頼人の少女など、どうでもいい。気にする程の価値はないので、本業である作家業が上手く行けば、始末屋稼業などいつ廃業しても構わないのだから。
 そも「暴力」とは身につけるのではなく、金で雇うべき代物だ。ただでさえ安売りされているモノを、手間暇を作り身につけるなど馬鹿ではないか・・・・・・便利ではあるが、しかし人間社会にあわせて生きるにおいて、それほど不可欠ではない。 「人間性」と同じくらいには、存在しようがしまいが同じ事だ。
 そんなどうでもいい事よりも、私にとって大切なのは「己の道」を歩く事だ。それに金がかかるのだから、そしてそれを金に換えるのに手段を尽くしているのだから当然だろう。今、己自身が、「己の選択すべき道」を歩いているか。計るのは以外と簡単だ。
 まずは全知全能の己を思い浮かべろ。
 何をするのか。
 女を侍らしたいならその人間の望みはそれだろうし、権力を握りたいならその人間の目指す場所はそこだろう。私は当然、面白い物語を見たい。 最近は不作気味な上、肝心の物語を売る部分が上手く回らないのも、今更だがな。
「幸福になりたいとは、思わないのですか?」
「どういう意味だ?」
 幸福かどうかなど、私にとっては意味のない噺でしかない。私には幸福の概念はないし、幸福だと金で定義できればそれでいい。
 強いて言えば、関係ない人間共に煩わされない環境こそが「幸福」だと言える。
「哀しみを分かち合う事も、また一つの幸福ですよ。貴方は、率先して人間性を遠ざけている様に見えます」
「それが、何だ? さっきも言っただろう。同じ事を言わせるな。貴様の世界には有るのかもしれないが、私の世界にそれは無い」
 世界観とは主観でしかない。当人にとっての目線こそが「世界の風景」だと言える。自分が生温い世界に生きているからといって、それを押しつけようとするのはただの脅迫だ。しかも、自分達では「良い事」をしていると思いこむから、悪よりも質が悪いのだ。
「貴様の考えなどどうでもいい。今回の依頼だけ聞ければそれでいいしな。理由は何であれ始末を依頼する人間が、正しい行いを説こうとするなど笑えない喜劇だ。面白くもない。貴様は私の為に話しているつもりだろうが、実際のところ他でもない自分が綺麗な人間だと言い聞かせたいだけだろう・・・・・・下らない陶酔に私を巻き込むな」
「・・・・・・そうですね。そうかもしれません」
 そんな事を口にしている時点で、人に善意を押しつけて何とも思っていない質の悪さが伺えようものだが、今回はそっとしておこう。
 小娘が人生をどう踏み外そうが、私の経済状況とは何の関係性もない。そもそも、こういう連中に限って思いこみがちなのだが、この世界に絶対的な悪が存在し得ないように、絶対的な善意などあり得ないのだ。私のように元から踏み外しているとしても、悪には成れても善にはなれない。
 完全な善意などというモノがあれば、それはどんな兵器よりもおぞましい存在だろう。何故なら「善意」というのは当人自身の思いこみであり、そういう形がある訳ではない。生物のルールから外れた私は「悪」なのだろうが、ルールに従ったところで完全なる善性を会得する訳ではない。
 だが、この小娘は自分を「正しい道にいる」と思いこんでいる。自身で選ぶ訳でもなく、ただ、倫理観に照らし合わせて「符合するから」という理由でだ。自身の中の尺度で測るのではなく、そうであるからそうだと言うのだ。
 馬鹿馬鹿しい。そして、楽で羨ましい。
 こんな輩が楽をしているというのに、持つ持たないでこうも労力が違うものか。最近は結構な頻度で、真面目に生きるのが馬鹿馬鹿しくなる。
 過程は結果に関与しないしな。
 要は、手段が達成できないかだ。能力の問題を考えなければ、何がしたいかはすぐわかる。その手段を確立できるかは、ただの運だが。
 そして、それが金と呼ばれるモノだ。
 だからこそ、私は金が欲しい。
 金さえあれば、こんな小娘でも、目の前を何一つ見る気もない半端者ですら、美味しい思いが出来るのだからな。
 
 それでも、己の道に生きなければならない。
 
 美味しい思いは正直無い。それを得られる様にする為に、労力を賭けている。だが、他者の都合に合わせたところで、連中が責任を取る事など、有りはしないのだ。正直やってられないが、金さえあればそれでいいのだが、それはそれこれはこれだ。金がある事と己の道を歩く事は矛盾しない・・・・・・それが心打つ物語だと言うなら心など正直打たなくても良いのだが、しかしそれを言っても無駄だろう。
 別に己の道に生きているからといって、金を儲けてはいけないルールなど無いしな。
 何とかしたいものだ。
 本当に。
 割を食うのはもう御免だ。しかし、まるで好物であるかのようにそれを押しつけられるのも、また私という作家なのだが。
 私の本業は「作家」なのだが・・・・・・作家の働きやすい環境を社会は用意しないが、持つ側が都合を押しつける環境だけは、整っている。
 いい加減、嫌になる噺だ。
 あれこれ寄り道を繰り返せばその分成長しているような気分にはなれるが、本来の目的を見失いそうになる。私の目的はあくまでも作品を売り、ささやかなストレスすら許さない平穏なる生活を適度に充足しつつ生きる事だ。口にしていて空しくならなくもないが、しかし事実だ。
 良く知らない人間と会話しながら、始末屋稼業を充実させたところで、何の得もない。損得を越えた行動や信念は有るのだろうが、少なくとも、私にとっては殺人依頼を出す輩の事など、どうでもいいのだ。
 問題は作品のネタになるかどうかだしな。
 やはり「悪」だ。面白い悪ほど作品のネタになる。ひねくれた善人でもいい。面白さとはエゴや無謀さから生まれるものだ。
 この少女にはそれがない。
 とはいえ、依頼先に無いとも限らない。精々、期待するとしよう。期待とは裏切られるものだが・・・・・・勝手に期待する分には金がかからない。期待した分損失を出す可能性もあるが、今回の場合依頼内容そのものが、非常に興味深いのだ。
「長話はいい。始末の対象について、再度聞いておきたい」
「わかりました」
 言って、少女は改めて私に、今回の抹殺対象を口にするのだった。

「死んだ私の曾祖父を、殺して欲しいのです」

 始末対象は数あれど、死人を殺そうとするのは初めてだ。どんな悲鳴をあげながら斬られて死ぬのか、実に興味深い。
 作品のネタの為、というのも勿論あるが、私は押さえきれない好奇心から邪悪な嗤いをこらえきれず、喜んだ。
 これだから人生は面白い。
 私は人間ではないのだろうが、ならば人間は面白いと言い換えよう。私を中々飽きさせない、それなりに使える玩具だからな。

  
   2

 意味は無いし価値も無い。
 私は普段から口にしているが、実際のところ、意味も価値も、私には必要ない。欲しいのは実利だけだ。とはいえ、賭けた労力が無駄に終わるとそれくらいの不満は溜まろうというものだ。
 存在そのものが、人間は無駄で無意味であり、無価値だと言うのならば、人間社会における人間の基準で人間にとってどう価値があるのか? 少なくとも最初から人間を外れている私にとって、これほどどうでもいい事柄はないだろう。そうでなくてもそんな些末事気にしていられるか。
 私は暇ではないのだ。
 作品のネタ探しもそうだが、作品を売る為に、あれこれ労力を賭けたり、無駄だとしりつつも、無駄に策を弄したり。正直、疲れるが。
 何にせよ金だ。モノの真贋などそうでなくとも気にする輩などいないのに、作者たる私が気にしていられる筈がない。読む分には良いが、書く分には御免だ。疲れるしな。何より、売れればそれでいいのだ。作品に対してどう思うか、それは私個人の自己満足で集結できる。
 作家など元よりそういう存在だが。
 金とは無意味で無価値な存在だ。何せ元が石だのコインだの札束だの、およそ価値のなさそうな言ってしまえば原価はゴミ同然で作られる事が、非常に多い。最近ではデジタルマネーも流通し、金という概念は存在が不確かだ。
 だからこそ金だ。
 金という概念は、大昔から人間を支配してきた・・・・・・これから先もそうだろう。人類が金という概念を克服できるほど悟りを開くとは思えない。私個人が悟りを開く必要はないのだが、悟りを書く必要性は出るかもしれないということで、悟りだの人間の欠点だの人間の向かわなければならない道だのには、私は詳しい。そしてその私だからこそ断言できる。どんな時代であれ、金さえ掴んでしまえば利用される側ではなく、利用する側に回れるのだと。
 利用するされるなど当人の思いこみの中でしかないが、現実にそれで楽が出来て旨い食べ物が食べられれば万々歳だ。何の不満も有りはしない。 よく、世界に退屈したり満たされるが故に現実感を喪失したり、あるいは目線の違いに悩んだりする連中も多いが、それこそ馬鹿馬鹿しい。全て同じ事だ。私からすれば台所の材料で悩んでいるのと、何一つ変わらない。全て同じだ。
 手応えの無い人生だと? 元より生きている実感などただの錯覚だ。所詮世界に意味などなく、価値など無い。問題はそれをどう有効活用して、楽しむかではないか。たかだがその程度の事も、やろうともせずに満たされた中で苦悩する馬鹿共は非常に多い。そんな連中が金を掴んでいるのかと思うと、どうにも情けないと考える。
 他にやることはないのか?
 まあ、ないのだろうが・・・・・・思えば、私に刀を渡した女など、その筆頭だろう。だから失敗ばかり繰り返し学習しないのだろうが、その愚かしさ馬鹿馬鹿しさを押しつけられても困る。始末に困るという意味でだが。
 意味など要らぬ。
 価値など要らぬ。
 人間など要らぬ。
 全てが不必要だ。だからこそどう自己満足で充足できるかにかかっている。かかっているのだが・・・・・・それには金が必要だ。
 少なくとも、豊かに生きたいので有れば。モノがなくとも豊かに生きられるなどと人は言うが、実際問題氷点下の中で凍った魚を食べながらでも同じ事が言えるのか? どうせなら豪勢な料理を並べながら面白い娯楽を読み、自己満足で充足しながら美味しい思いをしたいだろう。
 当たり前の事だ。
 その当たり前こそが、実現するにあたってここまで手間がかかろうとは。策を弄し手間をかけ、人を使い作品を宣伝する。浅はかな成功者など、数多くいるだろうに。私もそこに要領よく混ざりたいものだ。
 成功に内実など関係ない。物事に内実を求めるならゲームでもすればいい。現実に過程をどうこう論じるのは浅はかな読者だけだ。
 何より、道を歩いていても、その道の先が勝利に向かうかはわからないのだ。ただでさえ確信はあっても確証の無い旅に、あるかないかわからないモノを目指して歩を進める。これほど疲れる事はそうはあるまい。
 私は「努力」という言葉に嫌悪を覚える。まるでやりさえすれば誰でも勝利できると、下らない嘘に無駄な時間を過ごす。時間の無駄だ。実際に勝利者になる条件とはそも、能力の多寡ではない・・・・・・能力を磨き才能に溢れた存在が、良いように使われ人生を無駄にするなど、よくある噺だ。 要領の良さというか、単純に利用する側に立てているかどうか、だ。それこそが勝利者足り得るかを決める。そこに至るに必要なのは幸運だ。少なくとも私は、個人の意志や力で、真の意味で、そういった摂理を克服した噺など存在しない。  生まれ持っての能力だの、才能だの幸運だの、正義だの愛だの「正しい側」にいるから勝利できるだのと遠回りな言い訳だけだ。最近の物語は軒並みそうだろう。必要なのは立ち位置だけだ。その人間性だけで摂理を克服する? 馬鹿馬鹿しい・・・・・・そんな噺があってたまるか。
 そこまで回りくどい方法を採るくらいなら、摂理を金で書き換えた方が楽だろう。正直、出来る出来ない以前に、それをする利点が無い。
 残酷なまでに理不尽で素晴らしく無関心な世界に一石を投じたいとでも言うのだろうか。少なくとも私は御免だ。冗談じゃない。
 金さえあればそれでいい。
 崇高そうな信念など肥やしにしろ。
 過程は必要ない。浅はかでも結果と実利だ。
 薄い人間性で、浅い思想で、能力に恵まれたはいいが、能力を持て余した人間こそが、世界を導いてきた。早い話「余裕のある」人間だ。せっぱ詰まった人間が、その信念で世界を変える為に、持たざる側が摂理を覆す。それは物語の中でのみ起こり得る噺であって、現実にはそうではない。 史実の偉人を見ろ。
 歴史を学べ。
 少しは考えろ。
 読者に「考えろ」など無理難題も良いところだが。明日には読んだ物語を忘れ、教訓を得たような気分になり、それでいて何も成長しない。
 だからこその読者だしな。
 世に溢れる溺愛の物語達。そういったモノが好まれるのは、現実の世界でそんな事はあり得ないと、皆が諦めているからだ。いや、現実を知っていると言うべきか。どんな教訓も等しく無意味で何の価値も有りもしない。五年も生きれば子供でもそれくらい実感する。
 私には幼少期の記憶など無い。覚えるに値する程良い事など何も無かったしな。無駄な事を繰り返し無駄だと知りつつ労力を重ね、無駄で無意味な時間を繰り返したものだ。子供心ながら世界は期待するに値しない、とそれだけは理解していたと思う。それくらいは理解して当然の気もするが・・・・・・恵まれていれば思索する必要も無い。
 少しでも私に「才能」だの「幸運」だの人脈だの金だのがあれば、作家など志しはしなかっただろう。何もかもが無駄で何もかもが徒労で、何もかもが無意味な世界。だからこそ才能も幸運も、そういったあれこれの介入しない道を選んだつもりだったが、しかし書く事が出来ても売れなければそれも徒労だ。
 結局、それも運命論だろうか。何を志そうが、とどのつまりそこに悩む。つまり金だ。作品の出来などよりも余程重要だろう。
 とどのつまり自己満足。
 世界は誰とも繋がっていない。世界中と通事あえるという思いこみこそ世界の真実だ。同型の生物であれ、思想が異なる以上、別の生物だ。お互いが仲間同士だと思いこみ、社会という柵の中で互いを監視しながらお互いの都合を信じ、通す為なら平気で殺す。 
 これで良く「平和」だのといった戯れ言を吐けるものだ。人間の図々しさにはある種の感動すら覚える。無論私にそんな感性は無いが、見世物としては実に面白い。汚い部分は見ようともせず、綺麗な部分は有りもしないのに夢想し、存在しない思いやる気持ちで殺しも搾取も当たり前。それでいて自分達は「善なる存在」だと思いこむ。
 正直、人間なんぞに付き合う身にもなって欲しいが、金さえあればそれも解決だ。汚い紙やコインだったり、存在しないデジタル数字でしかないものだが、人間社会で金より力を持つモノは存在しない。人間社会は金で出来ているからだ。
 そこに人間性など有りはしない。笑える事に、彼らは何よりも「人間性」を重視するくせに、その社会構造は金こそが至上だ。身も蓋もない。
 だからこそ、金なのだ。
 作品が傑作か否か、それは私個人の満足で構わない。そもそもそれが認められたからといって、何だというのか。面白くもない物語が売れ、すぐに忘れられるこの世界で、「真贋」など些末事に過ぎないだろう。仮に人間の意志とやらに本当の価値とやらがあったとして、だから何だというのか・・・・・・私は人間ではないし、そんなモノ嬉しくもない。だったら売り上げをあげろという噺だ。 実に、下らない。 
 所謂その「人間の世界」などどこにも存在しないのだ。何故なら連中の思い描く「人間」など、どこにもいない。有りもしないモノの世界など、ある筈があるまい。下らない妄想をするより、経済を回せ。世界に愛も友情も勝利も無いが、モノにだけは満ちているからな。
 そんなモノが欲しいなら本でも読んでいろ。
 私はそんな物語、読みたくもないが。
 
 何一つ成長しない人間こそ勝利者になる。
 
 精神は子供のままで、思いつきで行動し、それでいて成功を収め金を儲けられる。アイデアが斬新かといえばそんな訳もなく、ただひたすらに、「幸運に愛された」としか言いようのない輩だ。そんな奴に限って成功を収め勝利する。
 柵を弄した結果「不運」によって行き詰まる私からすれば、羨ましい噺だ。現実に勝利者というのは「己の言い訳を通せる側」だろう。実際に何を成すか、何を思うか、それは関係ない。そこに幸運があるかないか。それだけだ。
 編集者にもそういう奴は多い。
 実際、作品の添削や代行出版だけで数百万を要求する馬鹿もいる。デジタル社会において出版費用がそれほどかかる筈もなく、ただそういう相場だったからその金額を貰いたいらしい。情けなさ過ぎて追求する気にもならない。それでいて売り上げは保証せず、ただ「出すだけ」でそれほどの金が貰えるというのだから、正直書く事が更に、馬鹿馬鹿しくなる噺だ。
 あやかりたい所だが、それこそ幸運なくしてできないだろう。実際、そんな噺に依頼を持ち込む人間がいるとは驚きだ。作品データを右から左へ移動させるだけで金が貰えるのだから私もやってみたいものだが、権威や威光、それらしさで読者共を騙し、金を巻き上げる事が出来ていれば、そもそも私は作品の売り上げで悩んでいない。
 何をするにも「持つ側」か。
 やれやれだ。本当に参る噺だ。
 
 繰り返すが、私は正真正銘の「化け物」だ。
 
 最初から心だのといった概念そのものを一切持たず、それを良しとし人類社会に適応して生きる・・・・・・この場合金を稼げていないので「適用しようとはする」と言えるのかもしれないが、とにかくだ。文字通り「生まれついての存在悪」だと、そう客観的に評する事に問題はない。問題があるとすればそれが金になるかどうかだ。
 物語で言えば心を持ちながらも人間と能力の隔絶の激しい「怪物」は大抵、その代わり社会的成功、単純な勝利をあっさり手に出来るものだが、化け物にはそういう利点があまりない。強いて言えば嘆きや哀しみもないので絶望して全てを投げたしたくても無駄に前向きになる所か。正直、目的を果たせていないのに恒久的に諦めるという概念を知らない、というのはどうかと思うが、しかしその程度で絶望したり諦められれば、私は最初から人間をやっているだろう。
 とはいえ、人間性が無いからといって、別に面倒臭くない訳でもないのだが・・・・・・どうしたものか。そしてそういう事柄を些末事だと割り切ってすぐに忘れてしまうのも、また私だ。まあどうでもいい。どうでも良くないのは金の残高であり、経済社会における有用性だ。
 現代社会では首切り処刑人など雇ってくれないだろうしな。大昔は私のような化け物でも大っぴらに活動できたらしいが、窮屈な時代になった。 命が平等だと言うなら蟻も人間も似たようなものだろうに。そんな思考回路こそ人間から離れているのだろうが、しかし同族だけを贔屓するという感性は分からないでもない。身内さえ良ければ他者が幾ら死のうとも、普通は気にしない。普通という感性は、自身が普通だと思いこんでいる側の思想だ。つまり、自己保身の精神としてはこの上なく有用だと言える。
 それも「持つ側」にあってこそだが。
 持たざる側では何の力にもならない。
 こんな事を延々と考えながらも、結局は筆を動かすというのだから、有る意味天職なのだろうか・・・・・・嬉しくもないが。
 正直言って「傑作」を楽しむだけなら書く必要などない。古典で良ければ幾らでもあるだろう。己の道を選んで歩いたところで、正直なんの実利も得られていないしな。自己満足の充足で有ればわざわざ書く必要もあるまい。
 信念など読めばいい。思想など真似ればいい。誇りなど有るように振る舞うだけで十分だ。実際に事を成す事で、果たして何が得られるのやら。 少なくとも私は得ていない。
 やれやれだ。
 化け物と特性として、私は「捨てる」事に対してなんの躊躇もない。目的が達成できさえすれば命も世界も実に軽い。痛みが好きな訳ではないがしかし、必要で有れば、何であれ捨てるだろう。 昨日まで大切に扱うべきだと検討していたモノを、ゴミ同然に。そして、それに何の罪悪感も、全く感じはしない。その癖大した成果が出ていないのだから、これは徒労を通り越して、自前で荷物を抱え込んでいる様な気もするが・・・・・・気のせいであってほしいものだ。
 何より最悪なのが(私が言うのも何だが)傑作のネタとは気分最悪でこそ溢れるのだ。私は傑作か否かなど自己満足の範疇で構わないのだが、しかし筆が止まらない止められない。嬉しくもないので更に機嫌が悪くなる事請け合いだ。
 明日辺り世界があっさり滅亡したりすれば楽なのだが、それを言っても始まるまい。
 
 私はこの世の「最悪」だ。

 どれほど素晴らしい「主人公」でも私を改心させる事はできない。無いモノは変えられない。個性で私を凌駕する輩もいない。いたとしても私は越えるだろう。越えるまでやる。善も悪も私の前では等しく同じだ。悪としてはこの上ない。しかし問題は、悪である事はそれほど金にならない、という部分だ。
 どうせならもっと要領よく立ち振る舞える存在だったら良かったのだが。能力故に迫害される、怪物達の立ち位置など、私には至上だ。流れに流され他者を迫害し、それを「正義」だと思いこんでいる連中など、見ていて実に面白いではないか・・・・・・私を迫害しようとする輩がいればいるほど私は笑うだろう。どころか、普通に人間社会に食い込み、法や権力を手にするだけではなく、組織を作り上げ時勢そのものを操作し、社会を根底から改変するのも面白そうだ。
 それでいて成否はあまり気にしないだろう。
 最終的に実利が有ればそれでいい。
 そういう意味では与えてはならないモノを、摂理だの世界だのは私に与えなかったという事だろうか。それはいいが、人間であるかどうかはどうでも良いが、それならそれで、それに見合う能力があれば嬉しいのだが。
 化け物というのは、大層な風に見えて何の実利もないのだろうか。
 いや、いや、いや。大丈夫だ問題ない。私なら実利はある。そう、人間性に悩まされないという事は、大抵の人間が抱える苦悩もない。
 作家としての労力は多いので、それも帳消しな気がするが・・・・・・儲かればそれも問題ない。
 怪物も人間も気楽で羨ましい。他者からの迫害だの他者との関係だの社会における必要性だのでわざわざ悩める。放っておけば生物も文明も滅ぶのだから、合わせるだけで十分だ。それらはこちら側の都合を何一つ保証しないし、それらしい事を口にしてはいるが、それだけだ。過ぎれば消えるだけでしかない。
 偉そうに押しつけられる「常識」などただの空想ではないか。存在しないモノに付き合って現実を生きていないのではないだろうか。
 真面目に金を儲けようと画策する私からすればそんな空想家共が儲けていると言うのだから、いい加減うんざりする噺だ。
 やはり「幸運」か。
 連中を見れば見る程そう思う。運命が味方しているとしか思えない勝利者なのだ。大体、現代社会で信念を掲げて金儲けをする輩など、何人いるというのか。それらしい上っ面だけの癖に、社会的成功を皆治めている。これが幸運でなくて何だというのか・・・・・・それらしいメソッドを語り成功の法則があるかのように振る舞う奴もいる。馬鹿馬鹿しい。成功するか否かに法則などあるか。
 それなら誰も苦労しない。いや、まあ連中は苦労も苦悩もした事がないのだろうが。
 運不運。
 どうしようもない。どうにかする事ができないからこそそう呼ぶのだ。強いて言えば「幸運」を既に持っている「協力者」を手にする事だが、そんな奴がその辺にいれば苦労しない。探すしかないのだろうが、いるのだろうか?
 信念を持つ輩でなければならない。
 当然だろう。薄っぺらい仕事をされても困る。というか、そうでなければ「仕事」と呼ぶのもおこがましい結果になるだろう。小手先だけの奴に支払う金など無い。そういう輩に限って、仕事もせずに金だけは要求し返さない。
 嫌になる噺だ。
 「信念ある人間」などただの空想だ。私は存在しない奴を捜し当てねばならないのか。それが出来れば苦労しないのだが・・・・・・苦労かどうかは知らないが、手間がかからなかった試しはないし、手間をかけたところで成功した試しもない。
 どうにかするしかないのだろうが・・・・・・不可逆以前というか、そういう事ばかりだ。いまだかつて「達成可能な困難」が有った試しがない。それだけではただの壁だと思うが、試練ではなく災害が降ってくるのに対して、こちらに出来る事などありはしない。
 降ってくるモノをぶつけられながらも前に進むしかないのだが、果たして金になるのだろうか。 毎度の様に徒労ばかりだしな。少なくともやる気はまるで出ないが、私個人の意志など関係有るまい。個人の意志でどうこうなるなら、私の人生はもっと薄っぺらくても良いので楽な道を進めるだろう。困難で成長するのは物語の主人公にでも任せればいい。
 ああいうのは現実にやるべきではない。疲れるだけだ。物作りに必要なモノは「熱意」などでは断じてない。そういう事をする輩に限って、綺麗事を並べはするが、宿泊代も支払えないという、実に情けない結末を生むのだ。
 金だ、金。
 そも金儲けの為にするのだ。情熱だの誠意だのそんなモノを求めるならゲームでもすればいい。成長したいならRPGでもやれ。自身より圧倒的に劣る存在を痛ぶることで経験値を積み、それを良しと嗤いながら楽しめる娯楽。まさに人間にこそ相応しい最高の娯楽だろう。
 私もそうありたいものだ。
 その方が楽だしな。
 世代を越えて何かを伝える事は素晴らしいかもしれない。だが生憎それは人間の話だ。一代限りの変種である私に関して言えば、伝えるべき何かなど存在しないし、伝えるにはそもそも売り上げが必要だろう。売れない物語が伝わる事など有りはしない。
 我ながら何をやっているのやら。
 実際ただの徒労だろう。金にすらなっていないというのに、そこに何かしら価値のあるモノなどある筈がない。ないからこそ徒労なのだ。これから先人間が何世代続くのか知らないが、そこに私の作品はここままでは残らないだろうし、私個人が関わる事も、また無いだろう。正真正銘人間の未来と私の未来は、何の関係性もない。
 やれやれ、これでは人間社会に馴染めない怪物共をあまり笑えない。連中ですら物語として後生に綴られている。敗北感や悔しさ、憤りは私には存在しないが、しかしだからと言って辿り着かないでも良い訳ではないのだ。何としてでも辿り着かなければならない。しかし現実は望まないモノこそ手に入り、望むモノこそ遠ざかる。大昔からある摂理だが、しかしどうせなら金が欲しい。  
 終わりよければ全て良し。

 物語に関してはそう言われる事が多い。実際、私の物語にそんな「落ち」があるとは思えないし思うつもりもないが。何より、読む人間がいるのかすら怪しい私の物語の結末などどうでもいい。私の物語は確かに私の物語だが、それだけだ。小綺麗に死にたい訳ではない。何だろうが己の目的を果たし、生き延びる。
 物語の良さなどどうでもいい。私が読む分はともかくとして、書く分には売れさえすればそれだけで十分だ。まあそれさえ出来ていないのだからと噺を繰り返す事になるが。そも「善し悪し」など計れるものではない。当人自身がそう思いこむだけだ。黄金比率の美しさが人類全体が無条件で感動するものではないように、世界に基準となる美しさ素晴らしさなどあり得ないのだ。その個々人の認識が違うのだから当たり前だ。
 もしそれが本当なら、世界に本は一種類だけでいいだろう。最高傑作だけ読めばいい。色とりどりの個性を楽しむからこその「物語」だ。
 私自身、自身の在り方に「確信」はある。当たり前だ。己で選んだのだからそれを信じ切るのはただの前提でしかない。だが、そこに根拠がある訳ではない。根拠はないが確信を持って歩く。己の道を歩くとはそういう事だ。
 この物語が「勝利」に向かうのか。
 確信を持って進んだところで、根拠などある筈がない。強いて言えば私の書き上げた傑作なのだから売れて当然。見る目のない凡俗の読者共が、無能すぎて善し悪しを計れないだけだと思ってはいるが、それとは別の噺だ。だからといって成功するかどうかは別だ。物事において「過程」というのは「結果」に何の関与もしないからだ。
 物事の「過程」に何があるかは関係ない。
 ただそれが「結果」として出せるかどうかだ。 極論、読者共、というか顧客から憎悪されていても「成功」や「勝利」は関係ない。サービスとも言えない子供の遊びであろうが「幸運」の後押しさえ有ればあっさり金になるものだ。
 実際、そういう輩を嫌という程見てきた。
 世界に満ちているのは血ではない。金でもない・・・・・・戦争でも差別でも、まして人間性など最初から存在しないも同然だ。
 あるのはただの「運不運」だけだ。
 それ以外に要因などない。
 だからこそそれを覆す方策をあれこれ試しはしたが、それも無駄に終わった。正直言ってこれ以上やれる事は「有能な協力者」を探すこと位だろう。そんな調子の良い輩が、あろうことか私の進む旅路にいるのか? という気はするが。
 だが事実だ。他にやれそうな事は、ない。
 散々筆を動かしたかと思えばこれだ。正直言ってやってられないが、しかし今更止まる事も出来はしない。選択し進みすぎた。引き返せる様な、浅い道のりでも無かった。戻るつもりなど更々無いが、進むなら進むで金が欲しいものだ。
 人間の道には六道の輪廻があると言うが、私はその中にはない邪道を歩く。ならそれはそれ、金になる道を歩かなければ損ではないか。
 損得ではないなどと軽々しく言う輩は多いが、損得に決まっているだろう。人間か怪物か化け物かそんな些末事はどうでもいい。問題はそれで、如何様な実利をつかめるかだ。それでこそ仕事のしがいがあるというものだ。
 どうにも「化け物」というのは欠点ばかりで面倒事が増える。「人間」ならば協力者だのを頼る事で何とかなるのかもしれないが・・・・・・私の場合他の手段を考えなければならない。その為にあれこれ策を弄してきたが、いい加減それもネタ切れ気味だ。作家が言うにしては笑えない。
 しかし、どうしろというのか。
 今回の「依頼」もそうだが、こなしたところで私の目的にたどり着けるとは思えない。所詮は己の意志と関係ない所で進められる労働だ。仕事でも何でもない以上、そこにやる気を出しても何の実利もありはしない。無駄そのものだ。
 だが、そこで始まりに戻る。作品の売り上げをあげるにしても、どうすればいいのか。どうしたところで「売れる物語」というのは幸運ありきだ・・・・・・中身など関係ない。表紙だけを見て金を支払い、中身も読まず捨てられる。売れる物語としての最上の形はそれだ。
 しかしそれは「幸運」の後押しによるものだ。安易な成功を幸運と呼べるかどうか? 当然、それこそを幸運と呼ぶだろう。大した労苦も無く、成功と勝利を浅はかなままで手に入れる。それのどこが悪いのかは興味ない。実際にそれらが成功や勝利の形であることが肝要だ。
 ただ運が良いだけだ。
 世界の勝利者を見れば子供でも理解する。頑張れば報われるなどというのは現実に生きる事を最初からしていない敗北者の言葉だ。そして、貧者の親はそう嘯くだろう。最大の現実逃避だ。それで良いと思いこんでいるし、結果子供が何の勝利も掴めずとも、努力すれば、真面目に生きれば、あるいはそれは道徳的かどうかかもしれない。
 情けない言い訳を押しつけるな。
 鬱陶しい馬鹿共が。
 勝利というのは他者を踏みにじればこそ手に出来るものだ。いっそ殺人を奨励しろ。他者は積極的に殺さなければならない。他者をどれだけ食い物にし搾取できるかどうか? 人間社会で実際に問われるのはそれだ。綺麗事をほざく前に、まずは何人か何百人か何千人かを殺してこい。
 多ければ多い程良い。
 それが多ければ多い程、社会的成功を収め、勝利者になり、大勢に対して己の都合を通せる。百で有れば組織を、万を越えれば都市を、国を支配しそれだけ多くを奪える。善意を信じる事で現実逃避がしたいならさせればいい。そういう奴ほど絞れば収穫が大きいからな。
 他者の人生を踏みにじるほど豊かになれる。
 作家などその最たる例ではないか。ありもしない希望を魅せる事で金をむしり取り、綺麗事で現実逃避をさせ、下らない妄想を信じる読者共の成長と人生と志を腐らせることで金にする。少なくとも近代に入ってからずっとそうだ。案外、作家というのは近代社会になってから発酵食品の農家みたいな性質を持つのかもしれない。
 読者が腐れば腐る程儲かる。
 実際、書店を少し回れば分かる噺だ。読む事で生きる事の指針になる物語よりも、読む事で人生の難題から目を逸らし、綺麗事を信じる事で向かうべき道へ進む労力よりも、ありもしない理想論に感じ入り、挑む事を忘れさせる。
 そしてそれこそが売れる。
 そういうものだ。
 私自身、売れればそれでいいので当然試した。しかし書いていて気分が乗らないのはともかく、書いたところでそれを売る人脈がなければただの無駄足だ。浅はかな物語の作成はともかく、それを売りつける能力は流石に専門外だ。現状打破が困難な以上、私一人でもやらねばならないかもしれないが、それが出来れば苦労は無い。
 思えば、何でも私は一人で挑んだ。それ自体はむしろ爽快でさえあったが、実利を手にする、となると、確かに協力者は必要か?
 いれば、の噺ではあるが。無いなら無いで代案を探すしかない。幾ら探そうが良い代案など有った試しがないが・・・・・・やるしかない。
 やるしかないというだけで、他に何かしら楽で実利の掴めそうな方策が有れば、そちらに切り替えたいものだ。物事の過程を自慢する程、私は暇ではないのだ。成果さえ有れば構うまい。成果がまるで着いてこないが、しかしだからこそ、このまま終わる訳にも行かない。
 つまり堂々巡りだ。
 協力者はともかく、もう少しマシな選択肢は探さねばならないだろう。なければ作り上げるしかあるまい。元より私はそうしてきた。
 
 

「死者の抹殺か。生きる以上他者を殺すのは必然だが、流石に死者を再度殺すなどという数奇な経験は、私くらいなものだろうな」
 しかし、作品のネタには良さそうだ。死人が何を考えるかなど会うまでもなく分かりそうなものだが、死者を殺すという経験は作品の糧になる。「厳密には「本人」と呼べるかわかりませんが、遺伝子情報を解析し、当人の人生に限りなく近いシミュレーションさせた電脳生命体です」
「記憶を吸い取りコピーしたのではないのか」
 その方が楽だと思うのだが。
「いいえ、如何せん昔の方でしたから、脳を保存したりはされてませんでした。最近の方で有れば保存された脳からデータを引き継ぎ、現世へ復活される方も多いみたいです。最近では脳死状態すら遺伝子注射で回復できますしね」
 昔の人間が聞けば「気味の悪い時代になった」と嘯くかもしれない。だが私はこう思う。科学の恩恵は至極どうでもいい連中に当てられすぎる。本来なら死ぬ人間を蘇生する事自体はどうでもいいのだ。それよりも、蘇生したところで使い道の無い無能者を長らえさせたところで、それが何になるという事だ。
 大体、生き延びてやるべき事柄があるならまだしも、連中に目指すべき何かなどない。だらだら長生きしているだけだ。達成すべき目的もないというのに、蘇生して保存して、だから何だ。燃えるゴミを貯蓄しているだけに過ぎない。
 現実から目を逸らし続ける。
 忌々しい限りだ。そういう連中に限って、金だけは持っている。そんな連中でさえ手に出来る金を運不運で手に出来ないなど、鬱陶しい。
 死ぬなら死ね。
 生きるなら生きろ。
 どちらにしても同じだ。選んだ道に対して行動も起こさず、それでいて頭から餅が降ってくる輩などどうでもいい。数が減った方が社会における金の使い道が増えようというものだ。実際、使いもしないのに無駄に金をため込む輩は多い。私のように先行き不明瞭ならともかく、何もかも持っている奴が何を無駄な事をしているのやら。
 そういう輩は存在そのものが無駄だ。無駄を嫌う私が望むモノを、無駄そのものである連中が手にするというのは皮肉なのか何なのか。社会に対してではない。己を世界に、いやいっそもっと大きな存在に示すのだ。「摂理」とはいずれ克服し顎で使う為に有る。生きれば死ぬ。能力で覆される。持つか持たざるか、運命が決める。ならば、それごと「支配」すればいい。些末な運命の勝敗など小さい噺だ。勝利も敗北も私の実利に変換できれば良いのだからな。
 その為にも金だ。
 既に構想は出来ている。作家の世界ごと買い取ればいい。忘れっぽい私の事だから途中で忘れるかもしれないが、思い出したら買うとしよう。
 世界の変革などどうでもいいしな。
 私にとってはただの「暇つぶし」だ。
 私個人の狭い世界さえ守られれば構うまい。ついでに世界とやらも金で買うとしよう。何をするにも金がかかるが、金さえあれば物事に限界など有りはしない。そして、私は限界の無い無限の悪だ・・・・・・だからこそ私に金が回らないのか?
 それならそれで何とかするしかないが。
 今のところ、代案は無いがな。
 何度も繰り返しになるが、私は「幸福」そのものには何の興味も無い。それこそどうでもいい。人間は「幸福」を求める。それは「己の都合を全て通した結果」だと言える。私とは違い、個々人による欲望があるからだ。私にはそれがない。仲良くなりたい輩などいないし、名誉も名声も人間が人間に望むものだ。欲しいモノはない。平穏な充足も「自己満足」出来れば良いだけであって、それそのものは別にどうでもいいのだ。
 実際、食事に関してすら何も感じないし何も思わない私に、そんな事柄がある訳がない。人間にはそういう環境は精神が異常をきたすらしいが、栄養補給さえ出来れば一生栄養剤でもある種構いはしないのだ。
 食事を楽しむ、という「人間の物真似」を娯楽として楽しむ事にこそ意義があるだけだ。何にせよ人間でない私にとって、人間の都合ほど、どうでもいいモノは無い。巻き込まれて徒労をこれ以上かけるのは御免だ。ある種私の行動は自己防衛から来ているのかもしれない。
 何も感じない私にとって感じ取る概念は、存在しない概念だ。道徳や倫理は人間が人間社会において人間の為に作り上げたモノ。私は私でそれを作り上げただけだと言える。それは「人間の物真似」でありそれを娯楽とする事であり、幸福そのものを共感せずとも「幸福である」という体で、それを自己の充足とする事なのだ。 
 怪物の属性を持つ輩は己の生まれだの育ちだのを卑下するだけで良いらしいが、私はそうも行かない。そんな連中と違い大真面目で生きている。生きていると言えるのは知らないが、少なくとも歩いてはいるのだ。
 化け物である。ならばそれは良い。
 別にどうでもいい。発音が変わるだけだ。
 問題は、そう。それが金になるかどうかだ。しかしどうも「化け物」というのは一銭の得にも、なりはしないらしい。こんな事なら非凡な善人に生まれれば楽だったかと思ったが、それはもう私では無いだろう。生まれも育ちも関係なく、私の場合は存在そのものがそうなのだ。せめて幸運に恵まれていれば「持つ側」としてそれなりに豊かさを享受しつつ楽しく暮らせたのだが。
 やれやれ、参った。
 試行錯誤を繰り返し、結果未だに金を稼げてもいない。私が言うのも何だが、もう少し化け物に利点があっても良いと思うのだが。精神的な強さとかそんな有りもしない残り滓ではなく、もっと金になりそうな技能が欲しかった。結果を重視する化け物が、物事の過程において重要視される部分に頑丈さがあるなど、正直笑えない。
 諦める概念がないから、だから、何だと言うのか・・・・・・遠回りを繰り返し空回りしているだけではないか。そもそも、私は人間的な成長などどうでもいいのだ。そんな些末事よりも金だ金。成長したいなら神仏を買えばいい。
 安売りしてそうだしな。神も仏も溢れている。正直、あんなにいるのだろうか? どうせ仕事もしないのだろうに。
 楽で羨ましい。
 祈られるだけで金になるとは。それこそただの引きこもりではないのか?
 神も仏もそういうものだが。
 肩書きが神仏であれ、同じだ。働きもしない奴に祈る何かなどない。無論私は試せる事はとりあえず試したが、備えた酒の金額分の幸運すら降りてはこなかった。まるで詐欺にあった気分だ。金を貰うだけで実利が無くてもいいとはな。
 羨ましい噺だ。
 神仏にしろ怪物にしろ人間にしろ「死ぬ覚悟」といった「その場しのぎ」だけで生きている連中だ。そんな連中に敗北する訳にもいかないだろう・・・・・・死ぬだけなら簡単だ。そこに覚悟など最初からいらない。問題は「生きる覚悟」だ。生き抜いた上で目的を果たす。己が果たすべき事柄を、通し抜く。花火の様に一瞬出来たからいいなど、最初から果たす気がないだけだ。勝利した上で、目的を果たす。それがもっとも難しいのだから。 長々と続く遠回り。
 延々と先の見えない道だ。
 実際に歩いてきた私からすれば正直歩きたくもなかったが、しかし連中は近道で楽をした上で、それこそが成長だの勝利だのと、持つ側の余裕を身に纏いながら口にする。うんざりだ。私は実利さえあればそれでいいが、この世の残り滓共と、一緒にされても困るしな。
 何としてでも、そこにたどり着く。
 まあそれも口にするだけなら誰にでも出来るので、やはり「結果」が欲しいものだ。言葉の説得力とかそんな妄想じみたモノはいらない。楽して浅い信念と言葉でも勝利者は勝利者だ。少なくともこのままではそれすらに勝てない。
 それは、御免だ。
 これ以上徒労をかけてたまるか。実際に時間と労力と手間をかけるのは、私だからな。
 全く、いい加減実利が欲しいのだが。
 読者共の心に響く物語、とやらがその遠回りこそにあるとして、私には何の関係もない。何度も言うが、作家の幸福は読者の不幸だ。読者共の心が響いたところで、嬉しくも何ともない。大体が読者はそれほど金を支払う訳ではないのだ。バーガーの出来で消費者がどうなろうと、添加物山盛りで食べさせるのと同じだろう。
 わざわざ手製で作るようなものだ。それでいて読者、というかサービスを受ける側は、それこそ無限に改善を要求する。キリがない。
 売れればそれでいい。
 そもそも、読者共の心に響くのかどうかすら、私からすれば不明瞭だしな。遠回りしたからそうなるとも限らない。現実には労力が無駄に終わるどころか、それが悪影響を及ぼすことも珍しくないのだ。無論、私は傑作の出来だと自負しているが・・・・・・読者共がどう判断するかなど気にしていては、そもそも物語など書いていられまい。
 作品に人間が救われる事などあり得ない。救いとは「与えている」という自己満足の上で、他者に己の都合を押しつけ満足する行為だ。そもそもこの世界に存在しない概念、己の保身の為に生み出された言葉だと断言できる。人間は人間を救わないし、救いを求める時点で生きる事を手抜きしているも同然だ。ならば作品に何を求めるか?
 救わない。
 それも意図的に心を保護する論理武装を剥がし抉り消滅させる。救いとはある種、現実逃避を行えるように手助けする行為だ。物語とはその逆であり、現実から目を逸らしている部分を無理矢理にでも見せつける。心を抉り、傷つけ、殺しきる・・・・・・物語に求めるべきはそれだ。たかが読者の万や億。殺せなければ傑作と呼べまい。
 今までの倫理観や価値観を殺しきるという意味合いでは、宗教がわかりやすいだろう。安易な救いがあるとしれば、それにすがることで勝利に対する具体的な方策ではなく、教えられた道を歩くことで天国に行けるのだと、思考放棄しても根拠無く未来を信じられるからだ。本来、信仰とは文化だ。それそのものに力などない。あってはならないとも言える。それを信じることで積み重ねてきた思想を汲み取り、そこから学び取り未来へと繋げる行為だ。実際に神がいるのかは知らないしどうでもいいが、仮にいたとしても、それに頼るのは己の力で歩くより、楽な方を選んだだけだ。 信仰は言い訳にしやすいからな。そうでなくともそれらしい倫理観は多い。「正しく聞こえる」事柄ほど、何をしても「正しいから」という自己保身の為に己を騙して自身の都合をまるで、他者の為であるかのように振る舞えるし、それを他者の為だと思いこめる。
 実に、便利だ。
 今まで散々、己の道どころかその思想すらも誰かの借り物で生きてきた連中だ。そんな連中に、真実を選び取る価値はない。元より、選ぶ事そのものが出来ないだろう。借り物の権威、誰かに聞いた思想。他者の思想や理念を己に消化させるのではなく、ただ「それが正しいと言われた」からそうする世界。
 言わば心地の良い夢を見ている連中をたたき起こす作業だと言える。それが「作家業」なのかもしれない。叩き起こすだけでは金にならないが、だからこそ金に換えられる仕組み作りに、私は労力を割いてきた。結果、無駄足もいいところだったが・・・・・・やるしかないだろう。
 出来るかはわからない。いやむしろ何の確証も無いのだが、やるしかない。根拠も勝算も無いのはいつものことだ。肝要なのはその場合、根拠も勝算も作り上げなければならないという事だ。ただ向かうだけでは獣と同じだ。試行錯誤しながら形にするしかない。
 安直な近道が出来るほど、私は何もかも持っている人間ではない。無いモノは無い。それは人間性も同じだ。自身が怪物だからと言い訳しながら生きる怪物共が羨ましい。それでいて恵まれている癖に、他者には無い能力をも持ち合わせる癖に成し遂げる事は私にすら及ばない。
 何せ本の一冊も書けないのだ。
 書かせた所で、物語に出来るほどの経験があるとも思えないが。しかし何事にも例外があるというのなら、私の様な輩もいるのだろうか?
 決して社会に気取られず、法と権力を味方に付けつつも民衆の支持を掴み取り、それでいて本人は表に出ず己に有利な社会構造を作り上げ、能力の秘密を誰にも知られない様に慎重に行動し、自身と敵対するだけで社会に追いつめられるよう振る舞いながら、性格は悪く金は山よりも持っているが、長い時間をかけ組織力を構築する根気を持ち合わせる宇宙一性格の悪い、怪物。
 面白そうではある。
 まあ大抵の怪物は己の素性を隠す事すら下手であり、しかも己の怪物性を知られれば迫害され、それに耐えきれず泣き出したりする空気抵抗以下の精神だ。何者であれ同じ事だが、利用できるモノは全て利用すべきだ。あまりにも多くを持っている怪物には、そのあたりを考える余地が今までなかったのだろう。平たく言えば金持ちの小僧に金の使い方を教えるようなものだ。
 私が怪物のような面白い、いや優れた能力で美味しい思いが出来ない以上、逆を探すしか無いだろう。どうせなら悪役は最高に性質が悪い方が、見ていて面白くはある。能力だけでは駄目だ。それでは計算が速いだけの人間と同じで、パソコンを引っ張ってきた方が早い。
 能力差そのものは、その程度だ。実際、私も優れた能力を求めている訳ではない。優れた能力の有無と、物事の成否はあまり関係がないからだ。 実際、天才だと言われる奴ほど、金の使い道すら知らない。能力が高ければ高いほど、それに伴う労力も減るので、赤子以下の精神になる。
 精神が成長すればいい訳でもないが。人生の序盤で戦い終えた年寄りのような思想で、何が楽しいというのだ。未熟であれば延ばすのも楽だ。何より成長させたところで貯金残高とは何の関係も無いのだから、安心して後回しに出来る。
 成長や進歩などそんなものだ。
 とはいえ、物語の悪役に関して言えばそうもいかないだろう。現実に目を向けさせるのであれば・・・・・・そういう連中と真逆でなければならない。 成長や進歩に何の力もない以上、そこに力を入れたところで、という気もするが、他に力を入れられる部分が無いので、それしかあるまい。
 あらゆる世界の行いは等しく「悪」だ。思想も倫理も道徳も、国も宗教も生物であるかさえ、関係なく全て同じだ。
 何故ならあらゆる行いは今ある何かを駆逐する事で行われるからだ。餌を食べるのは勿論、領土を増やすのも根本的には動物が他生物の生きる場所を奪い、己の陣地とする事と変わらない。自分ではない何かを殺す。そこから目を逸らして道徳や倫理を唱える奴が多いが、しかしそれこそ人間の都合に合わせているだけだ。生命を奪う事が悪だと言うなら、植物すら殺せない。「良い事」であると、そう信じ込みたいだけだ。
 本来世界に「善悪」など存在しない。行いがそこにあるだけだ。しかし誰かに肯定されなければ誰かに「それは正しい」と肯定されなければ、少なくとも己で己の道を定めもせずに生きていると豪語する連中には、それが出来ない。己の内なる基準すら人任せにしている輩に、取捨選択をする権利もない。
 心の保身の為の行為だ。善、正義、倫理観、道徳、そういったあれこれは他者の為に存在する、と定義できれば心地良い。何せ「正しい」のだと信じ込めれば、悩みは何もない。正しいか正しくないかよりも、正しくなくとも進むのが生物本来の在り方だと思えなくもないが、しかし現実問題そういう連中こそ力を持っているのだから、モノの真贋などそれこそどうでもいいし、考えるだけの価値すらなくなる。
 そんなものだ。
 その程度でしかない。
 私にはどうでもいい。作品の売り上げさえ、あがればだが・・・・・・この世に絶対的な悪があるとすれば、それは私のような生まれついての存在悪、そして仕事に金が支払われない状況だろう。実際金を払わない連中に限って、正しさや倫理観を持ち出し自身の正当性を持ち込むものだ。
 自己保身の言い訳なら、金を支払ってから余所ですればいいだろうに。迷惑な。
 
 善、という名前の悪が、そこにあるだけだ。

 正しさとはそういうものだ。そんな都合の良いモノがある訳ないだろう。そうであってくれればそうあるだけで「善人でいられる」という逃避行動こそ「善」や「正義」と呼ばれる概念だ。そんな事も知らないで金を稼げるというのだから、今までどんな人生を送ってきたのやら。何をすればそこまで考えずとも生きていられるのか、純粋に疑問ではある。何かしら恵まれた存在に、期待などかけるべきではないという教訓だろうか。
 この世全ては最初から悪なのだ。生きるという事が既に悪であり、生き延びる為の行動こそ悪だと言える。問題はそこですがり、逃避し、悪である事と向き合おうとしない恵まれた馬鹿共が増えすぎた。
 何も考えずとも、いっそ何もしなくとも、持つ側にいれば勝利できる。そして世界は勝利者が回す存在だ。何も果たさないでいた結果が、情けない事に現代にツケ払いされているのであれば、心を抉ってでも目を覚まさしてやっても構うまい。何、人間というのは他者の為の行動は美徳とする生き物だ。で、あれば多少人類の心を抉り殺し、精神を破壊した位でとやかく言われる覚えもない・・・・・・文句があるなら法的証拠を提出しろ。 
 形のある証拠など、私なら残さないがね。
 元より捏造すれば済む噺だが。
 他者を殺し他者を食う事で生物は生き長らえる・・・・・・殺した分生き延びる責任を全うすればいいだけだ。生き延びて、役割を果たす。言葉にすればこれほど簡単な事を、見ようともせずあれこれ逃避する暇はあるのだから、実際羨ましい。
 そんな楽は許されるのに、こちらは作品の売り上げすらままならないとは。世界に贔屓されている連中とは度し難いものだ。幾ら程支払えば、私もあちら側の楽な道のりに混ざれるのだろうか。そんな楽な生き方が出来るなら、多少は金を支払っても良い。
 支払う金が儲からないからこそ、こうしている訳だが・・・・・・言ってみただけだ。
 いずれにせよ熊は目玉を抉るか首でも切り落とせば殺せるが、大海は殺せない。仕組みに逆らっても勝ち目はないのだ。ならば仕組みそのものをゼロから作り上げるしかない。逆に言えば、作り上げてしまいさえすれば、こちらのものだ。
 世界が理不尽なら理不尽を支配すればいい。理不尽を構築する要素をこちらで改竄し、作り上げ運用する。とりあえずはそれだ。
 その為にも、作品を売り上げなければならない・・・・・・とはいえ現状私に出来るのは物語を形にする位だ。売り上げや宣伝に関して言えば、私の手に余っている以上、私に現状で出来る事は無い。作品のネタを探し、物語のストックを増やす他に出来ることはなさそうだ。作品の為にも、今回の依頼に面白い悪党がいればいいが。どうせならその辺の人間でも否応無く、能力差を越えてひたすらに恐怖を刻み込むような奴がいい。
 剥き出しの「人間」それが善悪を越えて行動に移れば、それなりの見応えがある。欲しいのはそれだ。今まで信じてきた「人間」の枠内から外れた存在を見ると、人間は「恐怖」する。外側に生きている存在は、得体が知れなく見えるからだ。 あるいは、生物として容認できない在り方か。 何にせよ私の仕事は作家業だ。始末屋家業がどうなろうと、私の世界には何の関係もない。無論金は必要だが、しかし労働に価値や意義などあるはずがあるまい。金を稼ぐ為にしているだけで、作品さえ売れれば明日にでも廃業してやる。
 労働とはそういう存在であり、仕事とはそういうものだからだ。まあ、作者取材の意味合いも込めて、サムライ家業は続けても良いかもしれない・・・・・・とはいえ、あくまでも主眼は「作品の売り上げ」だ。見据えるべき部分を間違えるほど、私は暇ではない。
 ふん・・・・・・作品とは、いや何かしら物語を作り上げようとすれば、最初は荒々しくなる。いずれ洗練され技術や経験が向上すれば、かつての荒々しさは薄れ上品な仕上がりになる。言ってしまえばかつての荒々しさ、勢い、それに伴う当人が持つ剥き出しの資質は、表面が整えば整うほど、売れはするが薄れるものだ。
 どんな物書き、芸術家であれ、その最初期こそが全盛期と言えなくはない。無論重ねれば重ねるほどかつてにはなかった能力も芽生えるし、それで傑作が作れなくなる訳ではない。むしろ、死を意識することで傑作を書く輩もいる。
 だが、やはり「剥き出しの人間性」というのはその人間の処女作に現れるものだ。そして、それを維持し続けたければ、私のように売れもしないのにやり続ける敗北者位だろう。良い悪いではなくそういうものなのだ・・・・・・だからといって勝利を遠ざけられて喜ぶ奴などいないが。いや、私とは違い「作品の出来」だけを求める輩ならば、私のように金や平穏ではなく、己の命よりも傑作の出来映えを気にするのだろう。私の場合、作品の売り上げを気にするだけだ。
 死して尚、同じだろう。あの世があるのか知らないが、そこで新しく売りに出さなければならない。それは私自身が固定した在り方だ。
 だが、それは自己満足の充足で良い。
 私は物語を綴り適度に満足できればそれでいいのだ。本来、私とは真逆の連中が求めるような環境を、私に用意してどうするというのか。悲劇の劇作家にでも押しつければいいものを、何故私に用意されているのか。嬉しくもない。
 金と平穏があればそれでいい。
 作品の出来など、そもそもが作家当人の独りよがりであるべきだ。読者の機嫌を取り始めたら、作家の寿命が尽きていると言って良い。まあ作家足らんとするかなどどうでもいいが。人間失格だからこその「作家」だ。むしろまっとうな道に戻っていると言えるだろう。後からまっとうな道に進もうとするような奴に、作家としての能力があるのかは疑問だが。
 当たり前だが、上手く行かないものだ。人間は失敗や苦労を糧として成長するらしいが、だから喜べとでもいうのか? いや、そもそもだ。成長の有る無しは結果こそが計るモノだ。結果が出ていない以上、内面的な成長だの精神的な進化だのは後付けの理由に過ぎない。当人の内にあるただの自己満足の充足だ。
 私は自己満足で済ませる事を良しとするが、それは実利を得られてこそだ。余裕があるから楽しめる。まして、成長などという曖昧なモノに感じ入る何かなど、私にあるはずがない。作品の売り上げをあげた上で、コーヒーでも飲みながら自己満足の充足を得られればそれでいいのだ。
 因果な星の下に生まれついたと思わざるを得ない噺だ。今更だが、しかし何故安易で安直で浅い成功や勝利による適当な人生を送れないのか。どう考えても向こうの方が楽ではないか。人間的な成長など、気にするのは神だけだ。上から目線で物事を押しつける輩だけの思想だ。
 浅い成功者は幾らでも見てきた。正直どのあたりから噺を聞けばいいのか分からないくらい、何の策略も労力もなく、赤子の思いつき以下の思想で勝利し、成功し、連中は金を掴む。理由など、幸運以外の何でもない。言い訳を許さない程完璧に「運不運」だけで成功し勝利する。
 その幸運を奪えないものか。
 物理的に奪えればそれが最上だが、運とは当人の意志と関係ないからこその運だ。支配できれば誰も苦労しない。困難な運命を殺しきるか、支配しなければ何ともならない。いや、殺すだけでは駄目だろう。仕組みそのものを支配し、味方につけ勝利する。それが最上だ。
 運不運に法則も何も無い以上、どうしようもないがな。真面目に生きていれば幸運が味方する、などと良く聞くが、そんな訳がないだろう。なら世界に溢れる勝利者は、生きてすらいない。ただ漫然と勝利を貪るだけだ。今更だが、世界に溢れる綺麗事は、運命に対しての諦めの言葉だと断言できる。
 だから綺麗事は嫌いなのだ。
 私の雇い主の女。あれはその極地だろう。実際のところ、あの女自身は運命に勝利するどころか運命に挑む事さえあるまい。人間とは違う目線を持ってはいるが、それだけだ。見えるが故に出せる答えなど、無駄な話だ。どんな能力を持とうが実際にやらねば己なりの答えさえ出せない。
 私はとうの昔に出している。問題はそれが金に結びつかない部分だ。どうやら私だからこそ言えるのだが、当人がどんな道を歩き、それをやり遂げようとも、それが金になるかは運次第だ。当人自身の労力とは別に、補える能力を持つ協力者が必要らしい。
 どこから探せばいいのか、まるで心当たりすらないが・・・・・・私が作品を売るよりは、難易度が低い筈、だ。いや、むしろこちらの方が難易度は高いのだろうか? 空想上に近い存在を探し出さなければならないのだしな。編集者である必要は無いが、誇りや信念を持ち、己の道を見据えながら前に進み、かつ実力を持ち合わせ、最も肝要なのはそう、「他者と繋がる能力」を持つことだ。
 他者を切り捨てるだけなら私にでも出来るが、老若男女を問わず、あらゆる存在の支持を得られる人間で、しかも我欲では動かない存在。口にしていて馬鹿馬鹿しくなるが、しかしそれそのものでなくとも、それなりの実利は出せる筈だ。
 とりあえずその電脳化した先達者とやらに、助言の一つでも貰えれば楽なのだが、物事が予定通り進んだ試しのない私が考えても無駄だろう。
 やれやれだ。
 私は金には困っていないが、しかし「ささやかなストレスすら許さない平穏なる生活」を「適度に充足しながら豊かに過ごす」には作家業で金を儲け生計を立てるという手段を確立させねばならないのだ。それを達成してようやく、私は私個人の為に生活を動かせる。何かに振り回されず、己の為に進めるのだ。
 その為に私以外の手が必要になるというのは、皮肉なのか何なのか。とりあえずは目先の労働をこなさなければならないが、あくまでも目的はそこにあるという事実を忘れてはならない。成功させたいのは労働ではなく仕事なのだからな。
 私の目的が達成されれば、人間社会に完全に溶け込み、人間が見たくもない世の事実を、最も心を抉るやり方で無理矢理にでも伝え、それを生き甲斐とし人類社会に浸透させつつも、己が死してもそれを永続的に広められる仕組みを作り上げ、無論金も持っている上、己の存在を悪だと感知さえされないように振る舞える。まさに最悪だが、私の生活とは関係ないので、どうでもいい。
 すぐ隣に人間を本当の意味で何も思わないし感じない奴がいたところで、そもそも人間は人間を仲間内でも何とも思わないのだ。
 人間の相互関係は思いやるフリ、気遣うフリ、それらを良しとするフリ、善意や正しさを知識として理解しても、それだけだ。実感しながら行う人間など聞いた事もない。何しろ、皆が良しといっているだけで、そんな概念は現実に何の役にも立たない事を、皆が皆知っている。
 正しくあろうとする輩も多いが、それだけだ。正しくあろうとすることはただの自己満足で、それによって何かがどうにかなる事などない。言ってしまえば現実と折り合いをつけられない輩が行う逃避行動だ。人間という時点で正しさなどどこにもあるまい。生きているだけで酸素を消費し、食物を得るだけでなく無意味に自然を滅ぼし、争い続け荒廃した大地を量産しながら、反省したフリをしつつ繰り返す生物だ。人間は人間社会においてのみ役立つ存在であり、人間以外の全ては、人間など早く滅んでくれと願っているに違いない・・・・・・むしろ、人間に良い部分などあるのか?  文化をせこせこ作り上げる位だろう。そして文化そのものに価値はあれど、人間そのものなど、どうでもいいではないか。強いて言えば文化を作り上げられる存在は貴重だが、文化に依存する人間は何一つ回していないのではないか? どんな存在でも貴重な歯車だと人は言うが、現代社会で替わりの効かない歯車など、一体幾つあるのだ。何人死んでも替えは効く。それは役割だけではない。その思想も、その信条も、その意志も、その行動も、その在り方も、その情愛も、その誇りも全て、替わりの効く代用品でしかない。
 幾らでも替えは効く。
 唯一の存在だから替えが効かないだと? そんな訳が無いだろう。唯一無二に不必要なだけだ。他に使い道が無いくらいに、不要な存在だ。
 そんな連中ですら金を手にしている。いやこの場合「成功や勝利」と言うべきか。金に不自由するのは金の使い方を弁えないからで、他でもないこの私が金に困る事など有りはしない。十分な報酬を貰っているというのもあるが、そうではなく物語を金に変える、という部分が回らないだけだ・・・・・・そこが回らなければ作家として問題だと言えるだろう。他の方策で金を手にしたところで、それだけでは意味がない。それは手段であって、私の目的とは何の関係もないからだ。
 物語を作り売りあげ、それを生き甲斐とし、充足を思い描きながら、慎んだ暮らしをする。自己満足だと断じつつも、それに満足できる。
 だからこその私だ。
「祖父は、「偉大なる人」と呼ばれています」 「名前では、ないようだが」
「誰も祖父個人を知る訳ではありませんから。皆が見るのは祖父の残していった作品であり業績であり、祖父個人の事など誰も知りません」
「そんなものか」
 まあそれはそうだろう。仮にだが、私の作品群が後生まで残ったところで、それは作品が長生きするだけであって、私個人の生活とは関係ない。 作品は恒久的に生きるかもしれないが、作家自身はさっさり死ぬ。死なずともやはり、作品に対する名声や評価は作品だけのモノだ。実利だけは頂くが、それも私が生きている内。そういう意味では死んだ後に売れた作家共は不憫でならない。何のために労力を費やしたのやら。
「はい、だからこそ、です。祖父自身を知らない人々が、祖父を復活させようとし、復活させる祖父自身を見ようともしない。これほどの「恐怖」は残された家族にとってありません。祖父を弄ぶような行いを許せないのです」  
 許せない、か。許せない事がある奴の人生は、それはそれは大変な労力を伴う。全てを許すなどそもそも聖人でも何でもなく、生きる事と向き合えていないだけの気もするが・・・・・・何にせよ、私は聖人でも正義の味方でもない。作家だ。許せない何かに対して苦悩する様は、見ていて爽快だし作品のネタになる以上、観察くらいしかやる事はないのだが。
「その気持ちは良く分かる」
 そんな筈があるまい。そも私には気持ちという概念そのものがない。なら何故同意するのかと言えば、他者に同意される事で己の判断は間違えていないのだと、少なくとも破綻していない限り、「己に同意すれば味方、しなければ敵」という、安直で誠実さの欠片もない在り方こそ、人間共にとっての正義だからだ。
 合わせるだけなら造作もない。
 適当に誤魔化しながら生きている人間は、適当に誤魔化しながらの対応でも満足するものだ。
「・・・・・・そうでしょうか、とてもそうは見えませんが」
 私の何が分かる、といったところか。わかるわからないよりも、実際にその行いが金に成ればいい私とは、相性が悪いのだろうか? そうかもしれない。少なくともこの少女は現実など見てはいないからだ。
 実際にその祖父とやらがデジタルクローンとして復活したとして、あるいはその魂すら本物だとしても、少女に何かを言う権利はない。死は当人自身の責任であって、それに付随する行いも、他者が干渉する権利など無い。死者の誇りを汚して良いものか、だと? 馬鹿馬鹿しい。死んだ当人でもない奴が何を言うのか。身勝手な感情移入に大儀らしきモノを持たせようとするから、押しつけがましい善意となる。
「確かに、しかし想像は可能だ。そこに共感するかは別だとしても、他者の信条を読み解くのは、私の仕事だからな」
 哀れみと同情を向けない事に、軽蔑の眼差しを向けようとする少女に、肩を竦める。己の道徳観を至上とする輩は手に負えない。
 子供を産む寸前の野生生物の方がマシだな。
 ヒステリーをどちらも持っているが、しかし、ルールを外れて押しつけはしない。
 我ながら何を真面目に「作家」をやっているのかと思うが、始末屋家業にせよ作家業以外で金を稼いではいるが、私自身の意志で行う訳ではない・・・・・・仕事という意識でやっているのは作家業だけだ。だからこそ作家業が金にならず、こうして労働に身をやつしながら作家としてどう金を稼ぐかを考えている様は、酷く滑稽な気もする。
 最近はそれが酷い。
 己で選んだ道でも、こうも実利が伴わなければ歩いているのか不確かな気分になるのだ。本当に進んでいるのか? 少なくとも作家業以外で結構な金を得る事は多いが、しかし作家業で金を得た試しがない。
 それでもやるしかないが。
 息を吸う事はやめられまい。
 とはいえ、それも限度がある。しかし私のあらゆる労力は霧と消え、無いモノを掴むかのようなやり直しを繰り返す。
 その癖、生きていれば「人間の価値」などというモノを容認しろと押しつけられる。実際に何かへ挑めば分かる噺だ。そんな便利な概念は、挑みすらしない輩が誤魔化す為に生み出したモノでしかないのだ。価値を問いただす前に成果を示せ。 それが出来なければ死ね。
 実際、私もこのままではそうなる。作家として金を稼げなければ、生きる事が出来ない。生きていない以上死ぬ事すらない。それでは駄目だ。どんな綺麗事を押しつけられようが、そこに実利を伴わせなければ。
 労力を賭ければ報われて当然、という楽な運命を私は背負っていない。それなら苦労しない。そうだったらどれだけ楽だったか。
 とりあえず努力すれば成果が付いてくる。
 こんな楽な道があるだろうか? 能力を持つ輩ほどそう思いがちだ。それしか知らないからだろう。それこそが唯一の成功への道だと思いこみ、あろうことか本を出してそれを宣伝したりする。そしてこう思うのだ。「彼らが成功できないのは努力が足りないからだ」と。実に羨ましい。私もそんな楽な人生を送りたかった。
 やれることを右から左へするだけで、金も成功も勝利すら手に入る世界。まるでゲームだ。実際彼らは現実を生きる必要すらない。ゲームですら困難はあるのだから、ある種現実を認識さえする必要性がないのだと言える。
 目の前の少女は才能に溢れている顔はしていないが、恐らくそうだろう。能力にモノを言わせるのではなく、ただやれる事しかせずとも、周囲や社会に責任を吠えるだけで、実際に何もせず人生を過ごして来た輩だ。
 見れば見る程、わからなくなる。そんな連中でさえ金を掴めるのであれば、やはり当人自身の意志や行いなど関係ない。運不運以外の何だというのか・・・・・・いい加減疲れた。少し、いや長く休み続けたい。だというのに休む暇も無く、苦しみながら物語を綴る。責任や役割を押しつけるだけで世界は何もしない。世界に示そうとしたところで得られるかは運不運だ。
 理屈も理論も無い。そんなモノをこねくり回しただけで実利を得られるのであれば、文系は絶対に成功出来まい。人間は人間の意志こそが運命を打開するのだと思いたがるが、まさかそんな訳があるまい。実際には子供より物事を捉える能力が欠けていても「幸運」さえあれば成功する。何を積み重ねようが幸運なくして勝利はない。
 とどのつまり、真の勝利者とは運に愛されただけの存在ではなかろうか。成功や栄誉はどうでもいいが、しかし名前を変えるだけで実際には勝敗があるだけだ。別に金に恵まれる必要はない。どういう形であれそこに「幸運」があれば、否応なく成功し勝利する。己自身の意志だけで運命をねじ曲げるなど、物語の外では有り得まい。
 あの女は神に愛されているだのとほざいていたが・・・・・・成長や信念は、あくまでも神の都合で押しつけるモノだ。もし私の運命がそれならば、実験動物以上の意味合いは無い。大体が成長しているのか? 目に見えず秤は当人にしか無い以上、それこそただの妄想だ。
 冗談じゃない。私はシェイクスピアやアンデルセンに並び称されたい訳ではないのだ。中年と並んで何が楽しいというのか。偉大な先達だと?
知るか馬鹿馬鹿しい。そんな事より今世の金だ。今、ここで札束を掴む事に比べれば、栄誉や信念の何と空虚な事か。信念は不滅だと? なら焼いて形にして持ってこい。そもそもその二人だって個人としてはロクな人生を歩んでいない。作家としての成功と引き替えに、ただでさえ短い生涯を無駄にするのか?
 花火のように散ればいい。適当にもてはやされ流行に乗り売り上げをあげ、それでいて数年後には忘れ去られるとしても、使い込まなければ金は消滅しない。恋人もいないまともな人生に関するデータも残らないよりは、私は当然それを選ぶ。 どれだけ偉大になろうと、後生に残る何かなど有りはしない。作品が残るだけだ。作品から読者共が何かを学び取り、それによって何かが変わるなどあってたまるか。たかだか読書を数回行っただけで、成長する筈がない。それで成長できるなら人生など不要だ。その理屈で行くと、私の労力はやはり無駄そのものではないか。
 その二人は偉大になったかもしれないが、それだけだ。後の人間達がその偉大さにたかりたかっただけで、ただのそれだけでしかない。あの世での待遇が少しは良いかもしれないが、私はコーヒーと食べ物と面白そうな物語があればそれでいいのだ。あの世で女を抱けるとも思えないし、天国があったとして得られるのは欲望ではない。それらしい平穏があるだけだろう。神とはありきたりな発想しかできない凡俗の呼び名だ。
 人間と神に違いがあるとすれば、仕事をして働くか、働かずに金を貰うかだろう。働かないから神なのだ。そんな連中に期待すべき何かなど無い・・・・・・あの世などというモノがあるとすれば、それは間違いなく能力や肩書きに酔ってそう名乗る連中だろうしな。何かを管理する事は、己がそれらよりも高尚だと錯覚させる。
 そんなモノがあればの噺だが。
 どちらでもいい。偉そうな奴が倫理や価値観を押しつける部分では変わるまい。問題はそこに金があるかだ。物質的に不自由しなければ、些末事に巻き込まれずに済む。何より、自己満足の充足には金という結果がなくてはな。
 神を崇める人間の思考回路は理解できる。縋りたいからだ。何かに縋れば楽だしな。信仰を指針とし生きる人間が何人いるのだろう。少なくとも片手で数えられるのは確かだ。その連中ですら、何かを他者に伝えられる訳ではない。もしそうならもう少し、人類はマシになっているだろう。
 他者に「素晴らしい何か」を伝える事など出来はしない。意志は途絶え信念は埋没し、伝統は腐り落ちるが人類の歴史だ。そう思いこめれば、自分達が少しはマシだと思えるからだろう。思いこむことで守られる素晴らしさなど、存在しないより性質は悪い。
 そして、物語はその最たる例だ。
 ありもしない希望、存在しない人間性、嘘八百の運命こそが物語だ。現実に照らし合わせれば、大抵の物語は死人の山で終わるだろう。何もかもが幸福な結末など、存在しない。何もかもが無駄に終わり全ての人間が災禍にまみれ、行動の結果最悪の結末を招く事こそ、現実味がある。世界は残酷で理不尽で、徒労だと知るのが、生きるという事だからだ。
 無駄で無価値。何より無意味だ。いや、意味は何であれ付随するが、ならば価値のない意味とでも言えばいいのか。いや、成果を出さない意味合いなどただの妄想だ。意味があると思いこむだけで、意味という概念こそ存在しない。
 人間の素晴らしさなど全て妄想だ。
 だからこそ、金だ。幸いなのか私は人間性に惑わされるつもりはない。金という手段を得られればそれで何にでも出来る。金という概念はただの妄想だが、現実に人間を支配できる妄想だ。ならばそれを利用しない手はあるまい。
 あるいは、金を手にしても運命が悪ければ、いずれにせよ敗北するのだろうが・・・・・・既に悪いのだから今更気にする気はない。
 それこそ無駄だ。
 よく「最悪」だとか「恐怖そのもの」だと評される私だが、実際のところ私個人はそこまで責任は持てない。案外、私などその辺によくいる小悪党かもしれないではないか。違ったところで何も支払う気はないが、しかし身勝手な期待? で私に迷惑がかかるのは困る。
 どう思われようとどうでもいいが、些細なストレスの元も見逃すつもりはない。
 実際、私のような存在は探せば幾らでもいるかもしれないではないか。すぐ隣の人間を見ろ。案外私のように、人間を文字通り何とも思わない、どころか社会に折り合いをつけ、いつのまにか紛れ込んでいるかもしれない。その善意や表情は、私と同じで案外練習を繰り返したのかもしれない・・・・・・そう考えると楽しくなる。
 笑みがこぼれてしまう。
 信じ合っているようでいて、実の所は私と同じように、他者を何とも思わない世界。いや、考えてみればそんなのは当たり前か。それを自覚する気がないだけで、現実を見ているか見ないでも生きられるかの違いでしかないのか。だとすれば、やはりお笑い草だ。真面目に「生きる」という事を見据える私よりも、何も考えず何もせず、何も変える必要性すらない幸運に愛されただけの連中こそが、美味しい思いをするのだから。
 連中を見る度に私は考える。運不運だと。それ以外に有りそうもない。結局のところ私の今までの労力など関係なく、ただ幸運に愛されるか、それだけだ。それも、今更だが。
 我ながら無駄な事に労力を賭けたものだ。
 実利は幸運にこそあるならば、私は何をしようが無駄そのものだ。他に何か方策があるかと思いあれこれ試したが、やはり無駄に終わった。
 その一方で、そういう連中は美味しい汁を啜り続ける。よくある噺だ。問題は作品で金を掴めていないという部分だろう。それだけが肝要だ。
 その癖、作家に限らずあらゆる創作物は機嫌と気分と懐具合が最悪の時こそ捗る。当人の意志などお構いなしだ。売れなければ何の価値にもならないただの徒労だが、しかし厳然たる古代からの基本法則として、何かを作るとはそういうものだ・・・・・・私は別に良いモノを作りたい訳ではない。売れるモノを作りたいのだ。そして、売れるモノに中身など無い方がいい。その方が売れる。
 順風満帆な人生で、失敗を知らず暇つぶしに書いた物語こそ、売れるのだ。すぐに飽きられるがその売り上げは凄まじい。そうであったらと幾度考えた事か。実際、事の真贋など、だから何だと言うのか・・・・・・そんなのは偽装すればいい。
 贋作の絵が多く売れるように、買い手は中身などわかる筈もない。分からないからこそ大金を出すのだ。真贋など当人の自己満足に過ぎない。
 実利さえあればそれでいい。
 他に何かいるのか? 少なくとも、私には必要ないだろう。考えるまでも無い。考えたところでやはり無駄だが。共感しない私にとっては、別の世界での出来事に等しい。何が有ろうと同じ事なのだ。仮にだが、物語よろしく救い手のヒロインが現れ、私の精神性を改善しようとしたとしよう・・・・・・余計なお世話だ。押しつけがましい善意だろう。悪そうだから否定し、己にとって都合の良さそうな真実を押しつけられるのは御免だ。応対するだけでも面倒なのに、無駄な徒労をこれ以上増やしたくない。
 疲れは感情ではないしな。
 正直、化け物である事に何の利点も見あたらないというのが、素直な感想だ。人間性に惑わされる事が無く有る意味悩まないと言われるが、しかし、それは当人がそう望んでいるだけだ。望まなければ人間でも同じ事が出来る。望むかどうかは知らないが、出来る筈だ。
 それを人間と呼ぶのかは微妙だがな。
 何にせよ、利点ではあるまい。
 強いて言えば破滅に向かわない部分か。名声だの栄誉だの、形の無いモノに誘惑されない。無駄な徒労だと知っているからだ。周囲に合わせる事でしか人生を進まず、幸せそうだからと他者と交わり、結果途中で飽きて止めてしまうような愚は犯さない。だがそれは私が考えているからだ。別に化け物でなくとも考えた上で行動に移せば、そんな結末は呼ばないだろう。
 やはり、利点が見あたらない。今更だが、難儀なものだ。ひたすらに損をした気分だ。どうせなら有能なだけの怪物や、流されるだけで何も考えずにすむ人間だったら楽なのだが。世界の殆どは対して生きる事を考えもしないのに、よりによって何故私が籤を引いたのか。
 幸運など最初から望むべくもない。
 嫌になる噺だ。手間のかかる。怪物で有れば悲嘆にくれるだけでいいし、人間であればそも何も考えずに済むのだが。私はただ金を稼いで自己満足の充足で満足し、人間文化を適当に楽しみ、幸福など無いが幸福だという体で豊かさに身を包みつつ、人間の物真似をしたいだけなのだが。
 私以外には容易く出来るそれが、何故こうも手間暇がかかるのか。やはり化け物は外れ籤だ。どうせなら才能にかまけ、大した努力もせずに成り上がり、それでいて浅い考えで家庭を築いては壊し続け、社会的勝利という形の無いモノで己を大きいと勘違いしつつ、やりたい放題やった挙げ句後生に何一つ残さない楽な人生が良かった。死ぬ寸前に自身の人生は一体何だったのかと悩むかもしれないが、別にいいではないか。死ぬ寸前にあれこれ考えるだけで人生の大半を楽して過ごせるならば、そちらの方が実利は大きいと思うが。
 築き上げたから何だというのか。
 そんなのは食べるパンの味とは関係ない。それこそ虚構だ。築き上げたという錯覚だ。短い一生では考える価値すらない。後生に何かを伝えられるだと? その教えはいずれは風化し、劣化し、解釈を良い様に捉えられ悪用されるだろう。そんなものだ。一時の満足でしかない。
 同じ一時の満足ならば、それを金に変えるべきではないか。何かを残し、何かを伝え、何かを変えたところで、だから何だと言うのか。私の生活とは一ミリも関係性は無い。満足したいだけなら温泉にでも行け。
 私がいなくなった後などどうでもいいしな。強いて言えば、死後の売り上げを私以外が手にし、輪廻転生して私がそこにいったとしても、また一から私はやり直さなければならない所か。後々の連中が食い物にするだけだ。私以外の輩が楽をする為の道具になるとは、やるせない噺だが。
 巡り巡って私の為になる事は絶対に無い。断言する、無い。もしそうならば今までの労力が、まるで助けにも毒にもならない事があるか。
 持つ側の言い訳だ。
 知ったことか。
 生憎この身は炭素の固まりで出来ている訳ではないのだ。己を磨く事に興味はない。そんなのは趣味でやればいい。生きる事は己を更なる高みへと向かい成長する事、というのは間違いだ。生きる事は、ただ生きる事だ。そこにあれこれ付加価値を付けようとするべきではない。
 余裕があるからそう思えるだけだ。考えてみればあらゆる「人間性」は「余裕」があるからこそ使えるモノだ。愛も信念も友情も倫理も道徳も誇りも信条も全て、生きる事に対して余裕卯があるからこそ、持つものだろう。
 だから他者に押しつけられる。
 自身には余裕があるのだから、当然だ。信じて行動した程度で報われる存在には、何をどうしたところで失敗や敗北のみが降りかかる、というただの現実を認識さえ出来ないのだろう。信じれば辿り着く。努力すれば報われる。協力すれば正しい道を歩めるのだ。何と楽な人生だろう。私としても何とかあやかりたいものだ。
 それが出来れば苦労しない。
 ある種、苦労という概念も、策を弄するという考えも、無いのだ。理解する筈がない。努力した程度で成功に辿り着く連中に、苦労などという言葉は似合わないだろう。苦労というのは持たざる存在が求めるからこそ発生する現象だ。決して辿り着けない事を自覚した上で、辿り着こうとする行動の結末だ。勝利に向かう過程で発生するものではない。敗北を決めつけられ最初から権利を持たないからこそ、苦労するのだ。
 努力して辿り着く。順当になるべきことが成るだけではないか。それが何だというのだ。
 物語としても、面白くない。そんな物語を読もうとするのは、現実逃避の現れだ。自身もそうあれるのではないかと思いたいだけでしかない。そんな訳がないだろう・・・・・・無理なモノは無理だ。何をしようが勝利者とは最初から決まっている。 だからこそ挑んだが、しかしそれも無駄に終わり続けた。何かを成し遂げようとする行いほど、無駄に愚かしい行動はないということか。実際、何かを変えているつもりで、勝利し変革するのは必ず持っているからだ。何も持たずに何かを変えられる筈があるまい。持たざる時点で、次は持つ存在に生まれますようにと諦めるしか無い。
 ただのそれだけの現実を変えようとしたものの・・・・・・やはり無理なモノは無理か。信念が運命を変える嘘臭い物語は多く見たが、そもそも信念とやらを持つ人間など、現実には存在しない。持ったところで成果には関係ない。そも信念などというのはそんな綺麗なモノではあるまい。持たざるからこそ持ち得るのだから、敗北者として固定されている存在の負け惜しみだ。
 色々あったが無駄だった。
 物語の締めがこれとはな。
 とはいえ、現実はそんなものだ。いっそ持つ側にいる輩を騙した方が、金になるかもしれない。そういう輩を騙して奪い、殺して実利とするのが現実的だ。それも考えておくか。この調子で無駄な労力を掛け続けるよりは良いだろう。何、人間が何人死のうが、私の生活には関係有るまい。もしそれで地獄に堕ちるなどと抜かす輩がいるなら見てみたいものだ。いずれにせよそれは力で物事を押しつけられているだけで、死んだ後に何も関わらなかった輩が偉そうに判決を下すのは、会社で重役にいる連中が、保身の為に首を切り続ける事と変わるまい。その場合、殺した所でやはり無駄だったと思うだけだろう。
 労働や仕事に力を費やすよりも、他者を騙して殺して奪う方が、やはり現実的だ。問題は私にはそれを効率的に行うノウハウが無いことだろう。 あれば喜んでしたのだが。
 このまま辿り着けず、諦める事も出来ず、ただ苦しみ続けるので有れば、そも地獄と大差ない。持たざる者とはそういうものだ。現実問題金や力を持つ人間は何人殺しても正義だが、持たざる者は生きるだけで重罪だ。そんなものだ。弱ければ殺される方が悪いし、持たなければ成功する権利は最初から無い。生まれついての悪とは、そういう意味合いにでも取れる。敗北する側にいるのだから、粉うことなき悪だろう。
 持たざる事は悪なのだ。
 持つことこそ正義だ。
 持てば何人殺しても許しすら必要ない。神と悪魔の戦いで神が勝利するのは、そういう事だ。力がある側が得るのは当然だ。悪魔が勝利すれば、本来悪徳とされてきた全ては正義だと呼ばれていただろう。
 隣人を愛せよ。それは勝利した側の都合が通った結果だ。そんなものだ。行為そのものに善悪など有りはしない。問題はそれを押しつける事だ。 押しつける側に回りたい。
 どう考えても楽ではないか。
 しかしそれは運不運でのみ決定される。やはり持つ側の人間を捜し出し、殺してでも奪うべきか・・・・・・そういう連中に限って幸運で生き延びる。私がどれだけ策を弄したところで、連中の幸運に敗北するだけか。
 やはり無駄だ。
 この思考すらも無駄そのものだ。
 最初から決まっているのだからな。
 その点で言えば電脳生命体も同じだ。電脳世界でも当然金はある。更なる豊かさを求めればだが・・・・・・向かうべき地点があるのだ。しかし、電脳世界では物理的に「飢える」という概念が無い。飢えや乾きこそが何かを求める原動力だとして、それが無くとも目指す意志は芽生えるのか。
 興味深くはある。それが私個人の豊かさに繋がるとは到底思えないが、しかし参考程度にはなるかもしれない。あくまでもその程度だろうが。
 物事の過程における価値は、あくまでもそれが目的に辿り着く糧となるかだ。寄り道するだけでは遊んでいるのと変わるまい。元より、持たざる存在の生き死になど遊びみたいなものだが、勝利する為にやっている以上、そこを誤魔化されても迷惑なだけだ。
 余力や余裕がある存在には、誤魔化す事さえ許される。現実と向き合う必要性がないという点では、連中は電脳世界の精神体と変わらない。現実に生きる必要性が無い、という点において、満たされている連中の在り方は同じだからだ。
 そんな連中の不幸こそ作家の実利となる。
 読者の苦しみこそ至上だ。親子の不信は見ていて笑いが止まらない。恋人同士の裏切りは最高の見世物だ。親友との食い違いは争う様が見ていて飽きそうにない。普段綺麗事で覆い隠す部分こそ露わにすれば本性が出るものだ。登場人物はすべからく苦しみ最悪の結末を迎えろ。死ぬ程度では生温い。どうせなら最悪の道を進ませるべきだ。 他者の苦しみほど、古くからある娯楽はない。 それが人間の本質だからだろう。人が過去から学び伝える事が出来るとすれば、他者を傷つけ、食い物にし、苦しめれば苦しめるほど勝利者として上に立ち、成功できるという事実だ。何故、そこから目を逸らすのか・・・・・・理由は単純で、自分達の根底にある存在が「善」であると、そう信じ込みたいからだ。
 妄想に付き合わされる身からすれば、たまったものではないが。
 とはいえ、事実が何であるかなど、成果には何の関係性も無い以上、どうでもいい事だ。今回の作者取材にしろ、行動を起こすことそのものが、無駄だと言える。こんな風に作家として行動したところで、売り上げは運不運で決まる。
 中身など誰が読むというのか。
 目を通すだけで読んではいまい。
 いっそ宝籤でも買った方がまだマシだ。何せ、天文学的とは言え可能性がある。可能性が無い何かを変えようとするなど、馬鹿な噺だ。
 実際運不運に振り回されている時点で、結果としては同じだと言える。協力者を捜すというのもアイデアとしてはともかく、現実的ではない。真面目に仕事として編集者をしている奴などいない・・・・・・ただでさえ現代では「仕事」と意識して何かをする人間などとうに絶滅しているのだ。少なくとも私は過去を遡ったところで真面目に物語を売ろうとする奴など聞いた事もない。
 そんな人間はいないからだ。
 実際、売れるモノをプロデュースするという点において、作品の宣伝はアイドルを育てるのと、大して変わらない。そして、肝心な所だが売り上げが見込めるモノを宣伝した方が楽だ。誰だって楽をしたい。信念だの思想だのは、勝利した後、余裕を持って挑む趣味だ。私のように歩きたくもない道を嫌々歩いている奴でも無い限り、そんなあやふやな妄想の為に仕事をする奴などいない。 似たようなモノだ。実際、過去の売れ筋をそのまま歌わせた方が楽だろう。本当の意味で誰かに伝えるべきテーマを持った奴など、必要ない。
 誰も気にはしない。売れればそれでいい。
 そもそも信念があったとして、それを伝えたから何だと言うのか。明日には忘れる。最初から存在しないも同義だ。何の価値もない。
 金、金、金だ。少なくとも品性は買えるらしいからな。中身がどうであるかなど、気にする人間はいないだろう。人間関係とはとどのつまり、利害関係に他ならない。正しいから素晴らしいのではない。金があるから素晴らしく出来るのだ。
 殺人も奴隷も支配も全て、金で肯定できる。そうされてきた。これからもそうだし、未来永劫そうなるのだ。金が滅ぶ事などあり得ない。金は、人間の本質であり、金が滅ぶ時は人間が滅ぶ時だ・・・・・・人間がいる限り、金はある。
 成長して克服するなど、無い。
 人類が絶対に克服することのない悪。それこそが金だと言える。それを利用するのは基本だ。聖者であれ銀のコインであっさり殺す。むしろ金を否定して己に道徳を押しつけるのは問題だろう。それは生きる事に向き合っていないだけだ。 
 他者を殺すだけで金が拾えるなら幾らでも殺すのだが・・・・・・現実にはそうも行かない。ゲームと違って人間を殺せば騒ぐ奴がいる。始末屋として行動してはいるが、目撃者は証拠にならないのでともかく、証拠を隠滅できない場合に殺したりはしない。
 逆に言えば出来る環境を整えろという事だ。企業で奴隷の様にこき使い殺すのも良い。一度合法だと断ずれば、何をしても構わないのだ。
 何人殺そうが犠牲にしようが、合法だ。
 現実には合法で有れば良い。死後裁かれるだのと抜かす割には、そういう輩が裁かれる姿など、見たこともあるまい。そんなものだ。
 だから人間が私の悪意を克服する事も、またあり得ない。それは良いが、それだけのモノを形にしているというのに、金にならないとは。
 やはり貧乏くじだ。
 化け物なんてやるものじゃない。
 金にならないしな。
 適当に人間をやるのが一番楽だ。何せ流されるだけで人生を終えられる。羨ましい。怪物も同じだろう。悲嘆にくれていれば免罪符が貰える。
 楽と楽しいは別だと言うが、やはり実際にやればそんなのは嘘だと分かる。大体、楽しみとは金で買うモノであって、苦労して得るモノではない・・・・・・強いて言えば他者を苦しめる事で得られる娯楽だ。金の力で人が苦しむ姿を見ながら、美味しい汁を啜るのは楽しいだろう?
 誰だって楽しい。当たり前だ。生きている以上他者の苦しみに喜びを感じなければならない。それが生きるという行為の一部だからだ。
 そこまで分かっていながらどうして私には楽が出来ないのか・・・・・・分かっているからこそ、か。そんな輩が金を手にすれば、やる事がなくなるということか? だとしても、支払いを渋られる覚えはないのだが。
 やれやれだ。
 現実というのは動かせる側の世界だ。己の意志で生きられるのは持つ側にいる場合のみ。それが現実だが誰もがそれを認めたくない。事実として生まれもっての差こそ、勝敗を決するからだ。可能性に生きられるのは選ばれた場合のみ。選ばれなければ不可能性によって生きる道筋が決まる。私もそうだが、他に自由に選択を選べるので有れば他を選ぶだろう。虚構を描く作家にとっては、馴染み深い。何故なら物語とは現実における不可能性を忘れる為のものだ。
 努力し、協力し、仲間と勝利する。
 そうであれば都合が良かったのにと、現実から目を背ける為に存在するのが「物語」だろう。現実で有れば「勇者」がいたとして、弱ければ世界は救えないし、強ければ魔王が正しかったとしても、世界は暴力で救える 
 目を背けるだけでなく、物語には希望がある。当然だ・・・・・・現実には存在しない「希望」という概念を再現し、それを味う。現実には何一つ存在さえしない「美しい何か」を鑑賞することが物語の良さだしな。
 その変えようのない「事実」最初から決まっている運命を変える為にあれこれ行動したが・・・・・・やはり無駄だったか。尚更無駄な労力だとあろうことか私自身の手で証明してしまうとは、我ながら皮肉なのか何なのか。
 今までの労力は、空から幸運が降ってくるのを待っているだけと「結果」何も変わらない。成果が出せないとはそういうことだ。最早私に出来る事がない以上、今回の依頼にしても、適当にこなすのが無難かもしれない。
 物事の真実は「到達出来る存在」にとってのみ有用ということか。仮に人間性の極地の様な幸福があるとして、わかりやすい大団円があるとして・・・・・・そこに辿り着く事のない存在にとっては、最初から存在しないも同義だ。真実とは得られるからこそ価値がある。ある意味金みたいなものか・・・・・・あれこれ想像した所で、実際に使える金がなければただの妄想だ。
 いい加減、うんざりする噺だ。
 だというのに、世界に生きれば綺麗事を押しつけられる。持つ側は楽で羨ましい。現実を変えようとする存在が現実を見すらしない奴に、あろうことか最初から敗北が決めつけられているとはな・・・・・・それもよくある噺だが。
 まあ「金」とは虚構そのものだ。綺麗事の真実よりも、虚構でも実利と力が欲しい。元より、私の向かう先に「真実」などあるのだろうか。それを感じ取る事は私には出来ない。何より、私はある種の「虚構」だ。人間ではない。人間性も存在しない。ただ人間の物真似を良しとし、幸福という概念さえ無くとも笑う最悪の化け物。
 綺麗事の真実が入る余地などないではないか。 まあどうでもいい。それより問題は金だ。真実があるならあるで利用すればいい。感じ入る事がなくとも折り合いをつけ、幸福だという事にし、それを良しとして充足は得られるだろう。それに以前あの女にも話した事だが、もし真実を得られそれに真の意味で「幸福」を感じるようで有ればそれはもう「私」ではあるまい。別の誰かだ。
 私という概念が消え去って得られる綺麗事の幸福など、冗談ではない。それらしい幸福を得る事が「正しい」道でそれを選ばず虚構で充足を得る事が「悪」だとすれば、それは私という最悪の存在を否定しているだけだ。他者の都合をこれ以上押しつけられるのは迷惑なだけだ。
 信じるモノなど何もない。それが私だ。金はあくまでも手段に過ぎない。私という存在には幸福など有りはしない。それを肯定できるからこその私なのだ。何かを信じるとは何かに縋ることだ。信じるだけ信じて手を打たないのは遊びだろう。 そもそもそんな心など無い。
 ・・・・・・そこなのか? 「心」の有る無しが成否を分けるのだろうか? だとすればどうしようもない。心が入ればこの「私」は消え去るだろう。 敗北する形だから敗北するのか?
 まさに存在悪だ。何せ、存在そのものが敗北するように出来ていて、それを変える事は当人を消し去る事であり、その理屈で行けば永遠にどこにも辿り着けない。そして諦める事もできずさまよい続けるのだ。
 やはり貧乏くじだ。
 どうしようもない。
 今まで通り亡霊のように作品を書き続ける以外道筋がなさそうだ。開拓しようにもどこを広げても同じ道が広がっている。少なくとも、私個人で出来ることはここまでらしい。結局「協力者」の存在が必要になるのだろうか。存在しない輩を捜さなければならないとは・・・・・・面倒な噺だ。
 全くもって度し難い。
 良く私の特長として「精神的な頑丈さ」みたいな事を引き合いに出される。完全な暗闇の中に、人間を放り込めば三日で発狂するだろう。しかし私にとって世界の光などあってもなくても同じだ・・・・・・常に完全以上の闇を在り方にすら纏い、世界に指す光は役に立たないと切り捨てる私にとって、物理的な光など、有る無しが同義だ。
 どちらでも同じだ。
 現実問題物語を書くのは難しそうだが、頭の中で執筆できる以上結果同じだろう。まあ私には、頭の中で構成し記憶するような能力はないが。
 考えながら書く私にとっては、構成はついでに過ぎない。考え続けて来たからだろう、思考速度だけはアンドロイドより早くとまでは行かなくとも、常人のそれなら置き去りに出来る。思考回路がリアルタイムで動かせるだけで、知能が向上する訳ではない。だからこそ「書くべき事」を形にするのが早いだけだ。
 極論、暗闇の中でさえ、やる事は同じになる。 しかし、だから何だと言うのか・・・・・・精神的な頑丈さ、というモノがあるとして、何の役に立つというのだ。暗闇の中に存在し続ける経験など、まず無いだろう。それに、勝利者となり金を掴む連中に、そんなモノがある所を見た試しがない。 必要ないからだ。 
 敗北が人を強くする? 馬鹿馬鹿しい。逆に言えば敗北し続けている証こそ、無駄な頑丈さの現れではないか。打たれ強いと言えば聞こえは良いが、その実体は守りの下手なボクサーそのものだ・・・・・・美談ではあるが、それだけだ。見る分には良いらしいが、それは己を痛めつける行為だ。打たれる時点で未熟なのだ。
 己の保身も出来ないだけだ。
 それでは意味がない。価値も当然無い。少なくとも、当人にとっては。
 成長しないからこそ成功があり、進歩しないからこそ実利があり、幸運にかまけているだけだからこそ勝利者足り得るのだ。むしろ、逆だ。勝利し幸福になりたいので有れば、成長も進歩も捨てて幸運に縋り己の力では何もするべきではない。 肝心のその「幸運を味方に付ける」能力に関して言えば、何の手がかりもないのだが、しかし、それが疑いようのない「事実」だ。
 結局は始まりに戻る。
 やれやれだ。
 そもそも私の精神は頑丈なのか? いや精神なんてモノがあるのだろうか。ささやかなストレスすら許さないほど繊細な思考回路であるのは確かだろう。案外、あっさり折れたりするかもしれないではないか。折れたら折れたで再利用しそうな気もするが、そうではなく、頑丈でなくとも楽が出来ればそれで構うまい。私は少しばかり殺人や人間の苦悩、あらゆる悪徳を見ると楽しくて笑いが止まらないだけの、一般市民と言えなくもない・・・・・・いや、知らないが。別に興味もない。他者が決める価値観であって、私の生活には何の関係もない。
 それこそどうでもいい。
 苦悩や悪徳は作品のネタになるから、無意識の内に惹かれるだけだろう。それに、苦しければ苦しい程、苦悩すればする程、史上最悪の気分である程傑作は書けるが、執筆速度は遅いに越した事はないのだ。夜中に手が震えだし、執筆意欲に動かされながら死者復活さながらに動き出す様が、幸福に繋がっているとは思えない。それが真実なら虚構でいいので、楽な暮らしがしたい。
「ところで、貴様はどうしてここに拘束されている? あの女に言われて来たはいいが、しかし、肝心な部分を知らされていない」
「それは、ですね・・・・・・」 
 今回の依頼人、サリーは少し黙ってから、事情を説明した。偉大なる祖父の遺伝子情報サンプルとして半ば無理矢理拘束されている事、デジタル化した祖父に対する説得、及び交渉のカードであることを彼女は話し出した。考えてみれば当たり前だ・・・・・・偉大なる先人がいたとして、その思想すらも模倣した偽物を作るという事は、当人自身の意志も再現するということだ。人工知能ですら制限を用意し手綱を握るのだから、当然だろう。 しかし、そこではない。
 肩書きや設定などどうでもいいのだ。そんなのは後付けでどうにでもなる。実はこうだったと、後から設定を書き足せばいい。
 必要なのは、そう。
「それで、貴様を拘束している連中は、祖父を使って何をしたがっている? 私としても作品のネタの一つ二つは持ち帰りたい」
「彼らの話ですか?」
「そうだ」
 何であれ悪を成そうとする連中の思想は参考になるし、正義の味方であれば、魅力は見た目にしかないが・・・・・・悪はその在り方で魅了する。
 だからこそ面白いのだ。
「ええと、私もあまり詳しい噺は聞いていませんが、確か「特異体の条件」を解明したいと、そう仰っていました」
「特異体?」
 何となくだが、想像は付く。人類史において、歴史を変えうるのは天才だけではない。異端というか異質というか、とにかく誰もやらない様な事を成し、それを運良く形として伝えられた連中の事だ。厳密に言えば「才能だけではない」と言うべきだろう。そういった異端すらも、才能ありきで成功に近づく。運に後押しされ才能で事を成す輩は多いが、しかしそこに新しい発想を取り込み行動を大きく移し、それを全体に波及できれば、それは波の様な営みになる。
 私には縁のない噺だが、そういう連中はどこにでもいるものだ。言ってしまえば天才の中から生まれる上位個体と言ったところか。
 変わり者なだけでは勝利者にはなれまい。
 運の後押しあってこそだ。
「ええ、人類史におけるターミナルポイントを作り出す条件を知りたい、とか」
「・・・・・・面白そうだ」
 あらすじは雑だが、作品のネタにはなりそうではある。とりあえず、金次第ではあるが・・・・・・受けてみるのも面白そうだ。
「あの、受けて頂けるのでしょうか?」 
「金次第だ。とりあえず、私はまだあの女から貰った船舶代だけなのでな」
「お金は、出します・・・・・・前金で五万ドル。依頼達成で二十万ドル用意しました」
 私を雇うには少ない気もするが、まあいいだろう。私にとって始末屋家業は仕事ではなくただの労働だ。途中で放棄したところで、依頼は減るが私個人には何の関係性もない。とはいえ、契約は契約だ。悪魔は契約を几帳面に守ると聞く。それは契約を守る事が大切なのではなく、ルールに則った上で他者を欺かなければ面白くないからだ。 その方が面白いではないか。
 悪の美学と言えるだろう。
「よろしい。その依頼、受けよう」
 金を受け取り、ドアを開けて外にでる寸前、彼女は私にこう告げた。「どうか、その非人道的な行いに絶望しないでください」と。どんな連中か知らないが、一つだけ言えるのは楽しみで眠れない位には、その組織の残忍性に期待しているという部分だろう。
 非人道的。なんて、良い、響きだ!
 もっと残忍さを、もっと苦しみを、もっと絶望を見ていたい。無論私は自分が痛いのは嫌だが、しかし他者の痛みほど参考になるものはない。面白くて面白くてたまらない。人間が人間を虐げるなどありきたりだ。どうせなら「人間性」という名前の悪性に、もっと刺激的な悪徳を付与してくれれば、読者共が満足する物語を語れるだろう。 いつの世も、他者の不幸こそ至上の娯楽となる絶対の法則は、変わらないのだから。

   4

 火星地下、「もうひとつの惑星」と呼ばれるこの世界には、幾つかのルールがある。
 「荷物は手放せ」
 「進むな退け」
 「生きていれば殺せ」
 荷物を手にしたままだと腕ごと荷物を取られてしまい、進めば進むほど地獄へと近づき、生きていれば何かしら害悪を行われるので、そう言われてきたらしい。つまり、その辺の平和な世界と、基本は何一つ変わらないという事だ。言っては何だがつまらない。そんなのは当たり前ではないか・・・・・・形が違うだけで、エゴの為に他者を殺し、奪うなど、別に珍しくもない。
 サムライである私にとって、暴力沙汰は望む所だが、無駄に争う必要もないだろう。とはいえ除法網をかわす為に気を使った。密航して火星に進入し、現地人に金を払いルートを炙り出し、ようやく、といった具合だ。金を支払えば大抵の情報や協力者が得られる一方で、まさか前金以上に、金を使う訳にも行かない。
 面倒な噺だ。
 進めば進むほど地獄に近づくというから期待してみたが、進めば進むほど支配携帯がわかりやすくなるだけだった。どうやら廃棄されずに逃げ延び、己を改造した「違法アンドロイド」のグループや、手術で能力を増し、人身売買でシェアを延ばす「ミュータント」のグループがあるらしい。 ボスの顔を拝んでみたいものだ。
 しかし、あまり期待は出来なさそうだ。何かしら新しい悪意があればまだしも、人身売買などという「ありきたり」ではな。とはいえ手術をすることで種族をゼロから新しく作り上げるという発想はそこそこだ。違法アンドロイドは法律を破っただけで別に珍しい存在ではないが、人造人間の様に人間を模倣する事が目的ではなく、最初から人間とは別の人間の形をした存在として確立されたアンドロイドであれば、本来人間には出せない答えも、出せるかもしれない。
 しかし、何だろう。アンドロイドが人間に大して行える選択肢か。アンドロイドの反逆はありきたりだし、心を求めるなど面白くもない。優れた存在だと自負するのも聞き飽きている。エゴの為に全てを犠牲に出来るアンドロイド。求めるのはそういう人材だ。
 探せばいるかもしれない。それを知れただけでも今回の依頼は成功だと言える。もう帰ろうかと思ったが、一応依頼は続けるとしよう。
 とうとう死んだ人間の抹殺まで依頼されるようになったか。我ながら何をしているのだ。作品の売り上げ以外など、どうでもいいのだが。
 売り上げが上がれば、やる事がなくなる訳でもないのだ。それはそれとして、作品のネタは探さなければならないし、古今東西あらゆる物語を、さらに読み解かねば。私は物語ほど高い買い物を他にした試しがない。紙の癖に高い。それでいて中身は伴っているのだから、買う側に立てば妙な話だ。
 物語物語、物語だ。とはいえ書く事に関して言えば、ささやかな自己充足で構わない。売れればそれでいい。面白い物語が世に出やすい仕組み作りの為にも、金は必要だ。読む分には誰が語ろうが構わないが、しかしそれを形にするにも、金は必要になるのだ。
 傑作とは当人のエゴの結晶だと言える。エゴが他者に受け入れるか、よりもエゴが金になり、社会に示せるかが重要だ。善し悪しではなく優先するかどうかだ。そして、一番大事なところだが、私は私個人で満足できればそれでいい。
 だからこその金だ。
 信念、思想、誇り、生き甲斐、これらは金で買えないかも知れないが、私は既に形にしている。物語を生き甲斐とし、平穏な充足こそを信念と捉え、自己満足の世界を思想とし、世界の醜い部分を眺め嘲笑することを誇りとしている。
 金で買えないということは、当人の在り方次第でどうにでもなるということだ。現実から目を逸らさなければ、誰にでも出来る。あらゆる能力血がゼロの値から一切動かないこの「私」だからこそ容易なのだ。
 生きている実感がないだと? ならば死ね。死者としての視点だからこそ、理解出来る事もある・・・・・・私から言わせれば、生きる事と向き合おうとしていないだけだが、満たされている奴ほど、そういう思考に囚われる。
 暇な奴らだ。そんなに生きている実感が欲しいなら、物語の一冊でも書けばいいだろうに。書くべき事柄があり示すべき己があり、それによって形にすべきテーマがあれば、物語など誰にでも形に出来る。技術など必要ない。物語を読み物語を知り、物語で示すので有れば、嫌でも形になるだろう。
 そんなものだ。
 技術がある方がそれらしく魅せる能力も磨かれるので、確かに面白く魅せる事は可能だが、しかしそれは一度きりだ。あるに越した事はないが、何度も読み返す奴はそんな事を気にすまい。伝達しやすくなるに過ぎないのだ。
 何よりも、私が伝えるべきは「正しさ」では断じてない。「友情」「努力」「勝利」そんな虚構を書いたところで、何になるというのか。
 言葉で悪を刻み込む。それさえ出来れば私個人は、作品の評価などどうでも良いのだ。評論とは見る目によって変わるモノ。元より形のない概念でしかない。「最悪」を魂にまで刻み込み、それを広められれば成功だ。売り上げさえ付随すれば作家としての拘りなどそれくらいしかない。
 それが「邪道作家」というものだ。
 売り上げも大してあがらず、結果辺境の地にてやりたくもない労働をこなしている身分では、あまり様にならないが。せめて何をするか選ぶ立場にいたいものだ。私の目的と関係ない回り道程、うんざりする労働はない。電脳生命体を殺したから私の生活に勝利と充足が得られる訳ではないのだから。それで得られるのは日銭だけだ。
 それでは駄目だ。 
 回り道をしている。それは獣道で、舗装はされていない。それを歩む事で得られる何かもあるかもしれないが、回るだけ回った挙げ句、得るべき実利からかけ離れてはただの無駄足だ。言ってしまえば金だけでは足りないのだ。自分の意志とは関係ない組織に属し、あるいは誰かの都合の為に行動し金を貰う。それは「生きる」とは言えない行為だ。「こなす」というのが相応しい。
 己の道くらい、己で歩かなければ。
 組織に属して得られるのは、組織で得られる金だけだ。組織を第一に考え、己の目的は第二第三になる。組織を作り上げるならともかく、組織に賛同する何かがあるならばともかく、所謂組織という存在は誰か個人のエゴで発生するものだ。そして個人の実利の為にも動かせる以上、理念は風化し得られる人間が得る為の餌場となる。
 そんなのは御免だ。
 倫理や道徳、社会的正義に合わせたところで、それは合わせるだけだ。何一つ保証はされないしするつもりもないだろう。それを口にする連中こそ倫理や道徳を何とも思っていないのだから当然だと言える。人間社会では口にした事を誇りとするよりも、口にするだけで他者に押しつける側であれば、美味しい汁が啜れるのだ。
 元より道徳も倫理も、豊かさから生まれるモノだ。そこに真実など有りはしない。豊かであるからこそ、生物の法則に反する「善性」という概念を信じる事で、自分達が優れた存在だと自画自賛する為にある、ある種の信仰だ。
 存在しない概念、虚構なのだ。
 存在しないからこそ幾らでも装飾出来る。物語と同じだ。まるで「人間性」だの「正義」だのといった、都合の良い解釈、自身もそうだと思いこみをする為の嘘だ。美しい物語を見れば、まるで自身もそうであるかのように思い込める。現実がどうであろうと真実がどこにあろうと、自画自賛しながら「善人である」という根拠無き確信と共に死ぬのだ。結果そういう連中こそ「天国」とやらに向かうので有れば、笑える噺だ。死んだ後ですら、誰も事実を見据えていないのだから。
 まあそんなものだ。
 世界のルールは作れる側が作る。力が有るからこそ正しいのだ。善と悪は同じだ。作り手の解釈に沿って作られる。動かす側の都合に良い何かが正義であり、都合が悪くなる何かこそが悪なのだ・・・・・・それを決めうる本当の強さは「暴力」であり「金」であり「権力」であり「人脈」であり、あるいはそれこそを「幸運」と呼ぶのだ。
 最初から持つか持たないか。それだけだ。どんな思想を持とうが人間的であろうが無かろうが、同じだ。その「幸運」とやらに愛されるかどうか・・・・・・事の善悪、あるいは成否を決めるのは、ただのそれだけでしかない。
 人間の意志で何かを変えられるだと? 馬鹿馬鹿しい。意志で何かが変われば苦労しない。そんな戯言を口にしている暇があるなら、商売の一つでも思いついた方が現実的だ。その為に商品でも作るべきだろう。それだけでは結局、何の成果も示せないのは知っての通りだが、意志だの誇りだの信念だの、現実逃避しながら正しい道を歩いているから報われるべきだ、と思考放棄して能力の高さや恵まれた環境に埋没する連中よりは、まだマシだろう。
 マシなだけでは噺にならないが・・・・・・それも今更だ。何にせよ己で決めろということだ。善悪や進むべき道を他者や組織に預けるのが、大昔からの流行だが、それは恵まれた人間が、さらに手を抜いて生きているだけだ。そんな楽が出来る身分なら良いが、そんな身分なら苦労しない。
 苦労した程度で成功すれば世話もない。
 現実問題金を稼ぐには「幸運」の後押しはどうしても必要になるだろう。金とは物理法則に従って動いている訳ではない。むしろ、逆だ。世界に不条理があるのかは知らないが、あるとして、形に変えればそれが金となる。言うなれば世界に対する力の差だ。何をせずとも恵まれている存在には集まるし、持たざる存在なら苦労する。
 それだけのものだ。
 フェアな言い分にした方が良いかと思ったが、しかし世界に不条理でない部分などあるのか?  それこそ見てみたい気もするが。少なくとも人間が存在する限り、それはない。能力に差があるからこそ生物であり、生まれや育ち、環境や金銭など、数え上げればキリがない。差別があり格差があるからこそ、集団なのだ。それこそ完全な同一個体を揃えたところで、後に差が出てしまう。 世界平和を望むなら生物を根絶させるしかないだろう。誰も彼もが手を取り合い、仲良くし、それでいて争わない世界。まさに死の世界だ。生きる事は殺す事であり、そういった不条理の中で戦う事だ。争いが嫌いだというのは、単にその現実と向き合い、戦う事から目をそらし、心地の良さそうな幻想に逃げているだけだ。
 無論必要とあれば私は幾らでも逃げるが、しかしそうも行くまい。生きる為には金が必要だ。そして充足させる為には売り上げが必要だ。他に方策があればそれでも良かったが・・・・・・消去法だとはいえ、もう少し楽な道はなかったのか。
 物語を読めばわかるように、勝敗は最初から決められている。負ける役だからこそ負けるのだ。まるで策を弄したり信念があったり、あるいは、正しい道を歩いているからこそ勝利するかのように思えるが「違う」のは明白だ。それは最初から・・・・・・いや、生まれる前から知っていた。
 知っていただけで、挑めば変えられる筈だと、そう考えていた。現実を見据えるならば、最初から無駄足そのものであるこの「道」を、どう終わらせるか、あるいはどう「こなす」かを考えなければならないようだ。
 全て無駄ならそういう事になる。
 まあ適当にこなそうにも、それが出来れば苦労しない訳で、それもまた無駄な労力だが。考えたり行動した程度でどうにかなる訳でもないのだから、ひたすらに諦めながら耐えるしかない。当人の意志は関係なく、最初からそうであれば、どう足掻いたところでそうなるのだ。
 実際、私はあれこれ労力を使い手を回し、策を弄して手を尽くし「結果」全てやろうがやるまいが同じだった。それが事実だ。
 何をどうしたところで、同じだ。
 流される以外に出来る事はない。何もかもが、そうなるべくしてなるならば、私があれこれするよりも、幸運が降ってくるのを待っている連中の方がまだ現実的だ。何をどうしてもどうにもならないならば、全て最初からやるべきではない。
 無論、待っていたところで幸運が降りてこなければそれまでだが、しかし手を尽くした所で結果は同じなのだから、無駄な労力は省けるだろう。 とどのつまり、その程度だった。
 私の今までも私のこれからも、その程度なのだ・・・・・・選んだ道を歩くなど馬鹿馬鹿しい考えだったということか。どこを歩くかも何を成し得るかも全て決まっているならば、そうなる。少なくとも私にはもう打てる手段などない。ある筈がないだろう。「協力者」にしたって「幸運」ありきだ・・・・・・そんな程度のモノの為に、労力を費やすなど、御免被る。
 無駄を眺めてそれを良しとするのは神の視点だ・・・・・・眺める側に余裕を持っているからこそ、善だのをもてはやし、喜べる。
 過程を求めるのは物語の常だが、現実にはそんな訳がない。過程などなくとも人間は幸福に成れるものだ。満たされるかどうかで幸せになれるかは決定し、持つ側にいるかで「幸福の権利」その有る無しもまた決定される。幸福には権利がある・・・・・・当然だろう。持つ側にいる、という太古からの絶対的なルールだ。それを覆すのは物語の中だけだ。現実を見ろ、それが何になる。
 まあ無駄な足掻きだ。
 持たざる私の意志など、どこに反映される訳でもないのだ。何をしようがどうしようが、持たざる時点で無駄なのだ。それについてあれこれ考えたところで、最初から持っている何かで己の意志を押し通せなければ、存在しないも同義だ。
 幸運に愛されるからこそ「善」と呼ぶ。
 そんなものだ。悪とは、幸運に愛されなかった輩の事を言うのだ。幸運に愛され持っていれば、殺人を犯そうが権力で弾圧しようが、どれだけの悪逆を働こうが、等しく正義であり、善だ。何もかもが「正しい」だろう。何せ、それを押しつけられる立場にいるのだから。
 羨ましい限りだ。
 知能が単細胞生物以下でも、持っていれば何もかもがどうにでもなる。人間の社会はそう出来ているし、人間の世界はそれこそを良しとしてきた・・・・・・それらの現実から目を逸らし、心地の良い妄想に浸る為のツールこそ「物語」だ。現実には起承転結などない。持っているか持っていないかそれにより全ては最初から決まっている。
 理不尽を誤魔化す為の麻薬だ。
 現実には理不尽を打破など出来はしない。絶対に出来ないと誰もが知っている。だからこそ物語を読むのだ。まるで、それが己の世界の真実であるかのように麻酔を打てる。痛みを誤魔化し、最初から最後まで全てが無駄だという事実を見ないようにする。だからこそ、都合の良い物語こそが売れるのだろう。
 持っていて、満たされていて、最初から最後まで、勝利が確約されている物語。
 人類がそんなモノを求めている時点で、最初から私の物語は無駄だったと言える。私の全存在はそれらを否定するからだ。調子の良い妄想を求める輩に、誰もが無理だと分かっている理不尽を何とかする方法を考えろと言われて、麻薬中毒に陥りたい人間が耳を貸す訳がない。
 何ともまあ、無駄な遠回りだった。これからもそんな道を歩くのかと思うと、考える事すら面倒になる。その癖、楽な道のりを歩いた奴に限って死に際に「そういう人生を送りたかった」などとしたり顔で言うのだ。今までの人生に意味が欲しかった、などと・・・・・・実際にやってから言え。
 ロクなモノじゃない。
 どうせ後悔出来る程の脳細胞も持っていないのだから構わないだろうに。持つ側が持っていないとは何とも奇妙だが、事実だ。そして、その方が楽だろう。あれこれ考えて結論を出し、無駄だと知りつつも歩いたから、だから何だ。そんなのは物語の役者にでもやらせればいい。
 徒労なだけだ。
 金にもならないしな。
 とはいえあまりもたついてもいられない。元々治安の悪い惑星という事もあるが、テクノロジーの発達は人類に豊かさ以外も当然、もたらしている。有り体に言えばこのあたりは「海賊」の縄張りなのだ。
 海賊。
 何とも古くさい響きだ。
 海を渡ろうが宇宙を渡ろうが、やっている事は同じだがな。荷物を奪い。人質交換をし、有り金を頂く。何のことはない。「テクノロジー」という言わば「外堀」こそ立派になれど、やっている事は何一つ変わらないままだ。呼び方が変わり、肩書きが変わり、それらしく見えるだけだ。
 実際の所は何も変わっていない。
 人類は大昔から同じままだ。
 生き詰まった人類を押し上げるのは、どうするべきなのだろう? 少なくとも戦争だので数を減らさなければなるまい。淘汰して優秀な人間を、いや、もっと根底から変えるべきか。淘汰されて残りが優れるのは当たり前だ。物質的には持っていれば何とでもなるが、しかし「精神の成長」は何の役にも立たず、またしたから何がどうなる訳でもない。人類全てが均等に成長する事があり得ない以上、精神の成長などただの徒労だ。
 持つ側に限ってその徒労を追い求めるのだからどうかしている。どれだけ余裕があるのだ。何事であれ追い求める時点で遠ざかっている。追い求める行為は、即ち憧れから発生するからだ。本質を見ている訳ではないので、辿り着きはしない。 そういう意味では、勝利すればするほど、成功すればするほど、到達すればするほど、追い求めるべき何かからは遠ざかる。とはいえ精神の成長など、仮にあったとして、何の力がある訳でもないのだ・・・・・・所詮そんなモノは当人の自己満足でしかない。「与えられた何かだけではなく、己の力で成し遂げたのだ」と認めて欲しいだけだ。馬鹿馬鹿しい。何を持つかなどどうでもいい。問題はそれが金になるかどうかだ。誰かに認められたい、自身はやり遂げたのだと思いたい、子供の甘えではあるまいし、下らない。認め「られる」のではなく認め「させる」事が肝要なのだ。善悪という下らない倫理観を越えて、何者であれ認めざるを得ない「絶対的な成果」を出す。
 無論、その成果を上手く伝達する手法が必要なのだが・・・・・・そしてそれこそが、余裕と暇を持て余して「精神の成長」こそ至上と言いながら、何一つ成長せずだらけた生活を送る「持つ側」にいる連中が持つ技能なのだ。やるせない噺だ。そもそも「精神の成長」など、持たざる存在では追い求める事がまず難しい。目先のパンを得てからの噺だからだ。
 追い求める事そのものは間違えていないが、如何せん現実的ではない。人類が精神的に成長するなど有り得ないではないか。それでも人類全体を成長させようと言うならば、人間を辞めさせるしかないかもしれない。
 いずれにせよ、私は実利が欲しい。金、金、金だ・・・・・・金で人間が買える以上、人間社会で買えないモノなど有りはしないのだから。
 いっそ官能小説でも書くのもありかもしれない・・・・・・読者は馬鹿だから美男美女がいればとりあえず売れるに違いない。そうでなければ、ああも中身がない割にはイラストの豪華な物語ばかり、売れるものか。
 どこぞのニンジャじゃないが、一応検討しておくとしよう。その場合今までの作品は全て無駄になるのではないかとも思うが、ならそのついでに売ればいい。検討の余地はある。「売れる為だ売れる為だ売れる為だ」と自問自答しなければ筆が進みそうにもないが、それはいつものことだろう・・・・・・売る為に書いているのだからな。
 私自身の信念、矜持、経験はどうでもいい。本来は物語とはそれを描き伝えるモノだが、最早、物語にそんな役割を求める読者などいない。
 いない奴に売る何かなど無い。
 とはいえ・・・・・・結局のところこういった労力も無駄足だ。何故なら私は「敗北の運命」を覆す為に行動しているが、運命とは「変えたところで、どうにもならない」モノだからだ。小さな運命を変えたところで、大枠は変わらない。勝利の運命を背負っている連中は、何をしようが絶対に勝利するように、敗北する運命がある限り、何をどうしたところで敗北してしまう。「運命を変える」という行動すらも、運命の内側で決められた行動に過ぎないからだ。
 己の力で勝利しているようで、そういった連中も運命に踊らされ、与えられた勝利を享受しているのかと思うと、笑えるが。
 いや、笑えないか。 
 そんな連中に敗北するのは御免だ。とはいえ、私個人でどうにかなる問題でもない。協力者が、やはり必要だろう。しかし、いるのか?
 強力な運命を持ち、私に協力出来る奴が。
 そんな奴がいれば苦労しないのだが・・・・・・今まで通り無駄な労力を尽くすよりはマシだろう。何一つアテは無いが、やるしかあるまい。
 やれやれ、参った。
 結局、私に出来る事は、本当に僅かだ。傑作を書き上げたところで、売れなければ意味がない。 価値を示せない行動など、しないも同じだ。
 優れた輩ほど精神が脆いという噺もあるが、しかし現実問題そういった輩が破れる事はまずない・・・・・・脆いというより、精神が幼いままなのだろうが、それでも平時にはそういう輩が勝利する。非常時には何の役にも立たないが、非常時と言える事態が、この見せかけの平和な社会で、何か役に立つことがあるのか? 
 見せかけの平和とはそも、暴力によって押しつけられた支配形態だ。勝利者が勝利者の為に作り上げられた世界。その世界に非常時が起こったとしても、仕組みを守る為に非常事態そのものを、無視して流してしまうのだ。それによってどんな災厄が降りかかろうが、持つ側は一人として傷つきもしない。そういうものだ。
 言ってしまえば、勝利者の世界で持たざる者が勝利するには、勝利者の側にいる輩を味方に付けなければ、勝てない。
 どうしたものか。
 出来なくはないが、勝利者を使うには金がかかるからな・・・・・・何より、生半可なただ持つだけの輩では駄目だ。「悪」であれば扱いやすいが、そうも行かないだろう。持つ者とは大抵、余力を持って生きている。故に「善」であろうとする事が彼らにとってのステイタスなのだ。
 誇りや矜持だけは高いが、しかしその一方で何の成果も出せず、金だけは要求する奴もいる。持つ側にいる輩とは使えない奴の方が多いのだ。
 選別しようにも連中は外面だけは小綺麗に飾りたてられている。どれも似たようなものだ。本当にいるのか? そんな奴が。
 それこそ連中じゃあるまいし、偶然出会って、意気投合し仲間になる。などと、そんな幸運で導かれる事もない。せめてとっかかりがあればいいのだが。デジタル社会は「人と人が結びつきやすい世界」であるかのように虚飾されがちだが、実際にはどうでもいい輩とどうでもいい縁を結び、どうでもいい交流を深める為のものだ。
 ならばいっそ、アナログなやり方で探すしかないのだろうか。手間はかかるが・・・・・・それも今更だろう。具体的な方策は追々考えるか。
 まさか、一人一人訪ね歩く訳にもいかない。かといってこのまま「アテのない旅」を続けるのもうんざりだ。成果が目に見えない旅など続けるものではない。歩くだけなら誰にでも出来る。問題は成果に結びつく旅路を見つけられるかどうか、なのだ。
 縁か。望む縁を引き寄せるなど、それこそ運命を書き換えるより難しそうなものだが。一時的にであれば運命を変えるのは簡単だ。しかし、先に続く形で何かを変え続けられる程の強い縁を引き寄せる。それこそ「持つ側」の特権ではないか。 幸運の後押しがなければ、どう考えても不可能だと言わざるを得ないが。幸運そのものが全てを左右している以上、幸運に既に愛されている存在こそが鍵であるのは事実だが、しかし、幸運に愛されているだけの輩では味方に引き込めないし、引き込む価値がない。幸運に愛されていて、かつ幸運を嫌悪する存在。いや、そういう輩を味方に引き入れるのは簡単だが、しかし幸運を嫌悪しているだけの暇な輩では戦力にならないか。
 幸運以上の「何か」がなければ。
 それは人間力と言えるモノであり、人類社会において異様な存在だ。持たざる存在が人間力に溢れていたところでただの無力な輩だが、しかし、その上で幸運などの後押しで支えられた輩は、それなりの力を持つものだ。難題だが、やるしかない。やり方すら手探りのままだが、他に名案はないのだ。
 無い方がマシ、と言える方策ではあるが、やってみるしかないだろう。幸運に愛された上で、何かを志す馬鹿など吐き気がするが、利用するだけ利用してやるとしよう。なに、人間関係とは雑巾絞りのようなものだ。絞れるだけ絞り、使えなくなれば捨てればいい。邪魔で有れば燃やすまでだ・・・・・・実際のところ、心の底から信頼と信用をおける奴を仲間に引き入れられれば一番なのだろうが、そんな都合の良い展開があるとは思わない。 次善の策は用意せねば。最悪である私が次善、などと笑えない噺だが。現実に運命を変えたところで修正されてしまう以上、手が幾らあろうが、同じだとは思うが。物語において運命を克服しうるのは、現実には何の力も無い反面、現実世界の法則に何一つ縛られないからだろう。我々の世界とは何一つ関係ないからこそ、人間が運命を克服し乗り越えたり、己より強い存在に勝利する。
 だが、それらは逃げだ。
 現実には己より強い存在には決して勝てず、運命は乗り越えたところで同じ結末を辿り、なにをどう足掻こうが敗北するべくして敗北する。それと向き合った上で答えを出すならともかく、現実には有り得ないご都合主義で恵まれ与えられ勝利を約束されている物語ばかりだ。今更言うまでもないが、物語は読者の現実逃避に都合が良い。読者自身も物語から何かを学ぶよりも、物語の世界にどう思いを馳せて自己満足する道を選ぶからこそ、そういった物語が売れるのだ。
 つまり、逃げても、生きる事と何ら向き合わずとも「持つ側」にいればその義務を果たす必要すらないのが、この世界なのだ。だからこそ本質など何の力も持たない。向き合うまでもなく彼らは勝利しているからだ。向き合い克服し勝利するのではない。最初から決まっているだけだ。
 どうしようが同じ事だ。
 むしろ、生きる事と向き合う、ということは、向き合わざるを得ない程追いつめられていると、そういうことだ。向き合ったところで勝利するかはあらかじめ決められている。既に敗北しているからこそ向き合うのだ。実際には向き合わずとも心地よい言葉に耳を傾け、何一つ見る事もなく、耳をふさいで引きこもっていたとしても、それでも持っていれば勝利する。そこに否応はない。りんごは落ちる。人間は死ぬ。物理法則だ。
 生きる事を真剣に考えている奴など、いるのだろうか? そも真面目に考えずとも、いや考える必要すら無いほど恵まれているのだから、連中にとってそれは呼吸と何ら変わらない。上っ面を整えさえすれば、持っているだけで成果は上がる。真剣であるかどうかと事の成果は関係有るまい。 必死に頑張って馬鹿みたい、と笑いながらそれらしい言葉を並べ、持ち前の有能さで成果を残しながら、蜜に溺れるような奴を果たして「生きている」と呼ぶのかは知らないが・・・・・・そんな連中に敗北を決定されているのが「生きる」事ならば死んだ方が幾らか有意義だろう。まあ、私が生きているのかと言えば、まだだ。目的にたどり着き豊かさに身を包みながら、色々と充足しコーヒーを一服頂きながら金銭的に余裕を持って今後の事を考える。それで初めて生きていると言える。少なくとも、私にとっては。
 過程における充足だと?
 成果も出ない事柄に延々と年月を費やしてから言え。そんなモノはない。大体が書きすぎて、細かい内容など覚えていられないしな。
 そういった回り道こそ「作家としての基礎」なのだろうか? 少なくとも、小手先の技術が面白い物語を作り上げるとは思えない。名を馳せた芸術家というのは基本的にも応用的にもどこか壊れてしまっている奴ばかりだが、そういう腐れ経験があるからこそ逸脱した何かを描く。しかしだ。私は別に逸脱したい訳でも、作家として素晴らしい人物になりたい、訳ではない。
 売れればそれでいい。
 読者共が麻薬中毒の様に金を払って私の物語を買い、それによって悪に魅入り人間性を壊し廃人となれば、私としては満足だ。それを生き甲斐として固定し、歩き続けたのが私なのだ。そもそも逸脱者では豊かさを掴めないではないか。実際に逸脱しているかはともかくとして、その事実を隠蔽しつつもそれなりの豊かさで充足を得る物真似をしつつ、人間の様に振る舞いそれに満足する。大切なのはそこだ。実際に私が人間である必要など無い。人間社会に溶け込み、それなりの豊かさを持って充足する人間の物真似をしながら、満足は得られずとも満足した気分になり、幸福は得られずとも幸福であるかのように楽しむ。
 これ以上素晴らしい生活があるだろうか。
 恐らく結構な度合いであるのだろうが、しかし化け物である私にはこれが至上だ。いいではないか、自己満足の充足。行いとはそれなのだ。何をしようがどう行動し未来を変えようが、当人の内にある狭い世界での変革でしかない。世界とは、言わば当人だけに存在する視点だ。ならばそれを住みやすくするのは当然だろう。
 金も女も名誉も地位も、成功も勝利も平穏も戦争も悲劇も喜劇も世界に存在するあらゆる感覚は私にとって存在しないものだ。それは、怪物であれ人間であれ「心」がある存在にのみ許される。許しなど別に必要ないが、しかし現実問題ペンギンは空を飛ぶまい。
 同じ事だ。飛べなくとも飛ぶ感覚を想像できれば「結果」同じだ。
 過程が同じ、という意味合いでは、一つ、気になる事がある。己自身に対する「確信」というのは、成果が出ずとも「やり遂げた」ならば後から付いてくるモノだ。しかし、最近は己自身を騙して「確信」だけを得ようとする動きがある。
 私自身、己自身の感情、どころか生理反応まで完璧に支配できる。これは技術云々であって、やろうとするかはともかく、練習すれば誰でも出来るからだ。心があればそれこそそんな在り方を否定するのだろうが、私にそんな感傷はないしな。 だが、確信だけを得た人間が、勝利や成功を得るので有れば、ますます「本質」など意味を成さなくなる。しかも、それを大抵の人種は望んでいるのだ。目的に向かう労力は賭けたくない、それでいて成功し勝利したい。
 その程度の連中こそが勝利してきた。
 宇宙に法則があるとして、事の本質は大して重要ではないらしい。問題はそれをどう利用できるかだが・・・・・・「人間になる練習」を繰り返してきた化け物が、人類の矛盾について考えるとは。私からすれば人類などとうに手遅れの生物だが、少なくともそんな連中の社会が力を持つ以上、それに合わせなければならないのも事実だ。
 やれやれだ。参ったぞ、どうしたものか。私個人ではどうにもならない以上、やはり実利を得て勝利した後の為にも、協力者は必要になる。
 デジタル世界はあらゆるモノをとサービスを広める可能性を持っている。可能性を持っているだけでその可能性が使われた試しが無いが、そこを整理しようと思うのだ。あくまでも私にとっては余力と言うか、余裕がある時にする娯楽の様なものではあるが。作家に限らず「何かを成し遂げ、それを仕事にする」というのは至難だ。どの分野でも同じだろう。何故ならそれを広め、売り捌き金にするという部分において、何かを成し遂げた存在というのはまったくの無力だからだ。
 その垣根を消し去りたい。
 無論、義侠心などではない。半分は暇つぶしだ・・・・・・金を稼げてしまえば、後は使うしかないからな。そして、どうせなら世界をかき乱す使い道の方が面白いではないか。百の中から一つでも、私の食指に釣り合う娯楽があれば儲けだろう。
 恐らく、大部分の金は無駄に終わるが・・・・・・それによって得られるモノは大きい。歴史を加速させるのではなく、人間の意志を加速させる。外堀が幾ら動こうが無駄なのだ。ならば根底に有る意識を変えればいい。それらは争いの後の革命、あるいは書物による信仰などで徐々に進んできた。 それを一瞬で出来るのだ。
 正直、人間の意志が一瞬で成長したとして、良い事ばかりではないだろう。それは構わない。私は人類の為に連中を成長させたい訳ではない。作品のネタになりそうな人間が、一ミリでも増えればそれで成功だ。人間の意志を世界に反映させるのはあくまでも金だしな。そして実行する決断力と行動に移す覚悟がなければ何にもならない。
 意志を成長させたところで、反映するのは稀だろう。ただそれらに本来賭ける労力を、ゼロに近い形で提供するだけだ。
 強い意志と言えば聞こえは良いが、意志に見合う行動が要求され、それに見合う試練もある。途中で磨耗して死なない方が珍しいだろう。何人死のうが構わないが、それらを選別する手間はこちらにはかからない。変化を望まない奴の方がおおいかもしれないが、ならば望む全ての連中に与えてやればいい。
 与える。
 この私が「与える」とは。しかし私が与えるのは「強制的な選別」だ。卵の善し悪しと同じ、人類の意志を選別し、争う基礎を作り上げる。
 刃をかわすか防ぐか耐えるか。出来なければ死ぬだけだろう。私の見立てでは、己の意志で選ぶのではなく流されて何となくで選択し、結果後から後悔する奴が大半だろう。何、曲がりなりにも己の意志で選択させるのだ。選択した結果、連中がどう後悔しようが私に責任はあるまい。訴えられたところで裁判で勝つ自信、いや確信がある。 宗教では神相手に裁判を起こす事も珍しくない・・・・・・そして、肝心なところだが、口先と心理を暴く能力に関して言えば、神だろうが摂理だろうが、私に勝てる奴はいない。いるとすれば、私より性格の悪い作家か、勝つべきではない輩ぐらいだろう。
 昔は性格の悪い作家も多くいたらしいが、近代では聞いた試しも無い。どこぞの劇作家など悲劇を喜劇に見立てたり、あるいは人間社会の醜さをわかりやすく皮肉を効かせて語り聞かせる童話作家など、単に性格が悪い奴が多いだけだったのかもしれないが。
 綺麗事が愛されるにつれ、表面だけは小綺麗な漂白剤のような人種がカビの様に増えただけだろうがな。
 「人間性」とは即ち「悪」だ。そうでなければ誰も神など信じまい。だからこそ信仰や善行によって己の悪性を取り除こうとするが、哀しいかな悪性を完全に廃した奴を人間とは呼ぶまい。信仰も善行もあくまでもその行為自体は「善」ではないのだ。信仰や善行によって学び取り学習し先へと進めるのが本来の在り方だろう。信仰する行為そのものを信仰する、などと、笑えない。一体、いままでの人生で何をしてきたのか。
 何もしてこなかったのだろう。
 そしてそれでも持っているというだけで、勝利してきたのだ。それが問題だ。思うのだが、人類って奴は教科書に綺麗事を求めすぎる。綺麗事はただの妄想であって、妄想を教えるべきではないのだ。いっそフロリダの殺人鬼の話でも、道徳の教科書に採用すればいい。毎日健康を気にしながら理想的な社会人として折り合いをつけ、始末対象は念入りに調べてから有罪で有れば始末する。 まさに理想の社会人ではないか。
 何にせよ「仕事」をルールに則って完璧以上にする様は見ていて好感が持てる。何であれ、やるべき形でやり遂げたら、誇りに思うべきだ。道徳や倫理観、綺麗事の上に成り立つただの妄想より現実問題我々がどう生きていくべきなのか? そこから目を逸らし、綺麗だからと良しとするのはただの思考放棄だ。綺麗だから、だから何だ。生きるという事は汚い事の繰り返しだ。現実から目を背けたいならば、ゲームでも、いや物語でも読んでいろ。
 ありもしない綺麗事。
 それが「物語」だ。
 少なくとも、現代社会では・・・・・・事の真贋を、栄誉より求めた時代で有れば、信じるに足る思想こそ至上としたのだろう。それは「先へ繋げる」意志があったからだ。満たされた人間に、そんな意志があろう筈もない。そして、世界を動かすのはそういう人種だけになってしまった。
 無論、私の実利を得てから、だが・・・・・・そういったクズ共を一掃するのもいいかもしれない。金の力でデジタル世界に詳しい人間を雇えれば、大抵の事はすぐに出来る。問題はそれができる人材が本物なのか偽物なのか、デジタル越しではわからないところだが。
 長所と短所は表裏一体か。
 やれやれだ。
 素晴らしい作品だと感動する奴らがいる一方で制作陣は給与未払いに頭を抱えていたりするものだ。いっそ年棒制度にするのもありだろう。売れ筋の連中を雇う、のではない。それが誰にでも可能な「場所」を提供するのだ。
 場所代で稼げばいい。
 実力はある、経験もある、思想もあるというのに、売る能力を持ち合わせていない奴は多い。何かを成し遂げる以上他が疎かになるのは当たり前だし、一点に尖った能力とは応用性が低い。故にそれを提供する場所さえあればいい。
 無論、私にそんなノウハウはない。ノウハウがある奴はそんな場所を作るという発想が無い。別にそんな場所がなくとも売れるからだ。適材適所というなら、それを用意しなければならない。そういった取り組みは大昔からあるが、利益の獲得に躍起になり、その本質はどうしても薄れる。
 金さえあれば、それも可能だ。
 無論、ノウハウのある奴を雇わなければならないがな・・・・・・私の場合、個人で満足する為の利益があればいいのだ。私が売れた後にそんな場所が出来たところで私の生活には何の関係もないが、趣味と作品の宣伝くらいにはなるだろう。 
 面白そうだしな・・・・・・成功しようが失敗しようが私には同じ事だ。どんな物語にも終わりがあるならば、私の売り上げ不足にもいい加減終わりが来る筈だ。先を見越して充足する為の方策を練るのは当然だろう。
 無論、現実の不運には、終わりなど無いかもしれないがね。
「そうでもないさ」
 そこは、薄暗い地下にあるショット・バーらしきところだった。机も椅子も今では珍しい木製で出来ているあたり、店主の拘りが感じられる。昼間はカフェとして運営しているらしく、今回待ち合わせ場所として、私が依頼した情報屋が指定してきたのだ。
「君は成長よりも実利を望み、内側の成長を嫌悪し切り捨てるが、己が成長できていないと思っているのに、見せかけだけの権威や肩書きに縛られる生き方は、地獄だよ。嫌でも己の無力さを思い知らされる一方で、張りぼてのような素晴らしさで飾りたて、その「恥」を隠すこともできずに、成長できないと確信しつつも進むんだ」
 根暗な男だった。優男と言ってもいい。およそ男らしくない部分をかき集め、卑屈さと小手先を掛け合わせると出来ましたといった顔だ。年齢より老けて見えるタイプだろう。私は無論、若々しさに溢れているが。
 男は対面に座り、書類を幾つか差し出した。私が依頼したのはこの男が、例のデジタルクローンに関係する機関に勤め上げていたからだ。数々の才能を見いだし、それを複製し、あるいはそれをさらに見いだした研究者は何を思うのか。
「私はね、才能がなかったんだ」
 男の一人語りほどどうでもいい事はないが、作品のネタになるかもしれない。一応聞くとしよう・・・・・・リアリティは楽に作品の種になる。
「追い越すどころか、背中に触れる事もできなかった。君の追っているデジタルクローンになる、いやなれる人物は、皆そうだ。成長し、出来ない筈の事をやってのけ、成長し続ける事で先へと繋げる事すらやり遂げた。私はどうだ。過去の偉人達の凄さにたかるだけで、私自身では何一つ成し遂げていない」
 私はコーヒーを一服飲んでから、当然の様に答えた。
「それが、どうした? 何かを成し遂げるかどうかなど、どうでもいいだろう。問題はそれが金になるかだ。貴様個人のその葛藤は、ただの卑屈に過ぎん。何かを成し遂げられないから、ではない・・・・・・己で己を認める度量がないだけだ」
「度量、か。しかし、私は現に、何も成し得ていない。デジタルクローン産業は確かに、多くの利益を出してきている。しかし、そこに「私」はいるのか? 答えは「いてもいなくてもいい」だ。君のように己でしか作り上げられない何かなど、私には何一つない」
「いい事じゃないか。無駄な労力をかけなくて済むだろうに。大体が「己でしか成し得ない」何かなど、その当人自身の自己満足の欺瞞に過ぎん。それをあたかも素晴らしいモノであるかのように飾りたて、それを売り捌き、金に換える作業の事を「商売」と呼ぶのだからな」
「そうでもないさ・・・・・・私からすれば、君の方が余程「持つ側」だと思うよ。君のように信念を、思想を、そして己に対する「確信」を根拠も無く持ち得る人間はかなり稀だ。私のような非凡には持ちたくても、持てない。どれだけ豊かになろうとも同じ事さ。物質的な豊かさなど、一瞬で飽きるものだ。だからこそ人間は宗教や魔術、伝統や書物を愛する。この世界に最初からあるものなど己を満たしてはくれないのだと、知っているからだ」
「まさか」
 私は人間に関するあらゆる娯楽、愉悦、快楽、全ての欲望に関して何も感じない。心が無い以上真似は出来ても、それを掴む腕がそも存在しないからだ。友情があるかのように振る舞い愛情があるかのように振る舞い人間性があるかのように振る舞いつつも、それらが一瞬で蒸発して死んだところで、何も感じはしない。
 だが、物質的なモノで満たされないだと? 
 馬鹿も休み休み言え。いや、私からすれば最初から言うなと思わざるを得ないが。水を飲めば、喉は潤う。食物を食べれば腹が満たされる。
 精神的な何かが満たされない、などというのはただの思い込みだ。無い物ねだりというか、高尚さみたいな何かに騙されているというか。
「なら、貴様は何が人間を満たすと言うのだ」 「信念だ」
 面白くもない答えが返ってきた。よりにもよって「信念」だと? 言っては何だが、信念などという言葉はただの妄想だ。あるかのように見せかけるだけで、現実に存在する訳ではない。存在が最初から虚構なのだ。
「聞くが、信念無き人生に、何が彩られる? どれだけ金を稼ごうがどれだけ愛されようがどれだけ欲するモノを手に入れようが、信念が無ければ道は定まらず、歩き続けたところで向かうべき道筋も分からない。人生に遭難するだなんて、笑い話にもならないだろう」
 そうだろうか。割と笑い話の気もするが・・・・・・向かうべき道を見失ったところで、暖かいスープと美味しいご飯、あとは熱々のコーヒーでもあれば十分だろう。向かうべき道筋、というのが、既に当人が「そうだ」と思いこんでいるだけだ。向かうべき道筋などないしやらなければならない信念など有りはしない。むしろ、信念に準ずる人間などというのは、向かう先を信念というわかりやすい基準、倫理観に沿ったレールを歩くのが、楽で仕方ないから選んでしまった、というのが世の真実だろう。
「それは、君が確固たる己を持ちすぎているからそう思えるのさ。人間はどれだけ成功しようが、向かう先のわからない人生には不安しか覚えない・・・・・・人生は一度きりだ。自分という存在が、進むべき道を選択すら出来ないまま、終えてしまうかもしれないという「恐怖」は何にも勝る」
 だからこそ君は「最悪」なのだろうがね、皮肉混じりにそんな事を言いながら、彼はそう吐き捨てる。そう、まさに吐いて捨てた。私から言わせれば、そういった「道徳的正しさ」を盲信しているだけにしか思えないが。
 何であれ行き着いてしまえば、そういう思想を持つことそのものは珍しくもない。しかし、先んじて成果を手に入れ、それに対して充足感を得られないからというのは、ただ我が儘なだけにしか聞こえない。もし、そんな綺麗事を良しとするならば、成果を手に入れる前に吐けという噺だ。
「恐怖か。恐怖ね。恐怖とは支配する為にあるものだ。恐怖を支配し、先に進め、その上で実利を掴むだけだろう。誰にでも出来る事だ」
「だが、その一方で誰もが恐怖する事柄だ。失敗したらどうするか。いや、そもそも成功するのか・・・・・・私の場合、このままたどり着けなければ、私の今までは全て無意味ではないのか、たどり着けないまま終わるのか、とね」
「終わりだと? 下らん。死したところで同じ事だ。あの世で続ければいい。消滅してしまえばそれまでだろうが、ならば消滅しても続ける方策を練ればいい。まあ、実際に実利を掴めていない、この私が貴様の様な先に実利を掴んだ人間に対して講釈を垂れるのは、非常に奇妙だがな」
「君は・・・・・・凄いな」
「違うな・・・・・・間違っているぞ。私には凄さなど存在しない。出来る事をやるだけだ。貴様の場合望むところに辿りついたはいいが、そこに達成感が伴わなかっただけだ。言わば気分だな。そういう気分になれないから、愚痴をこぼしている贅沢な身分という訳だ。それに、私が持つ側だと? 私には何も無かった。何もないならあるかのように捏造するのがてっとり早い。今も昔も私は何一つ持ってはいない。しかしあるかのように錯覚させれば、力にはならずとも金になる可能性はある・・・・・・可能性だ。それだけでは空想に過ぎない。ならば金の力でそれを現実に変えるまでだ」
 まあ、金を手にする為に準備資金がいるというこの矛盾だけは、如何ともし難いが。
「己を認められるかどうか。それは己自身の問題でしかない。極論、何一つ成し遂げずとも、己を認める事は誰にでも可能だ。貴様の場合、己を認めるに足る目標を、絶対に己では届かないところに設定してしまっている。彼方を目指す事自体は構わないが、そこに至れないからと卑屈になるのは鬱陶しいだけだ」
「それも・・・・・・そうだ」 
 何か附に落ちたのだろうか。どんな過去を送ってきたか知らないが、面倒な性格だ。男の名前も経歴も信条も知らなかったが、嫌でも理解した。 面倒臭い回り道を好む馬鹿だ。
 関係者に情報提供を依頼しただけだというのに何故、こうも面倒な人材ばかり集まるのだ。何か変な引力でもあるのか?
「その引力は、間違いなく君自身だろうね」
 いずれにせよ作品のネタにはならなそうだ。読者が望むのは浅ましい人間関係であり、わかりやすいヒロインであり、信条など求めてはいない。 売れさえすればそれでいい。その私の信条は、こうも上手く回った試しがないのだ。信条を掲げれば掲げるほど、その信条は通らない。何故なら信条だの信念だのは、相反する何かと敵対しているからこそ発生するものだからだ。
 それらをテーマにすれば、嫌でも傑作は書けるようになるだろう。しかし、売れる作品はその真逆に位置するモノだ。
 せっかく「非人間」をテーマにしても、感情や人間性が「良いモノ」であるという思想が抜けないのだろう。最近は改心して心を手に入れましためでたしめでたしが基本だ。だが、実際にはそんな事は、絶対に有り得ないのだ。
 私の様な存在が他にいるのかは知らないが・・・・・・「改心」などというのは人間が根底でそうあって欲しいと願う、身勝手な欲望そのものだ。改心するくらいなら最初からするなという噺だ。悪には理由がありどんな悪人でも家族は失いたくないし、大切なモノがある、あって欲しいという押しつけこそ、「善性」の正体だと言える。
 学ぶべきではなくそうあるべきという妄想。
 物語は、最早この世界で役割を果たしていない・・・・・・いや、役割を望まれていないのだ。何故なら現実と向き合う事は「苦痛」であり「認めたくない性」でもある。まして、向き合わずとも持ってさえいれば豊かに生活できるのだ。精神的な成長など、誰も求めてはいない。自己啓発が求められるのは「成長した気分」を労することなく簡単に手に出来るからだ。
 都合の良い夢だけを見たがる。
 現代社会において、全ての人間が現実ではなく妄想の世界に入り浸っていると言える。だからこそ綺麗事の善性を都合良く使い、それを良しとすることで慰め合い、調子の良い解釈で済まし、克服せずともした気分になるだけで済む世界。
 そこに求められるのは断じて「物語」ではない・・・・・・都合の良い妄想を助長し、死ぬまで己を騙しきる為の自己暗示テキストだ。
「貴様の言う成長など、そんなものだ。余力のある奴が暇つぶしに求める程度でしかない。現実に成長するかどうか、そんなのはどうでもいいのだ・・・・・・死ぬまでに何も成し得ない事が「恐怖」だと言ったが、それを恐怖と感じ取れる思考回路を持つ奴が、何の行動もしないなど有り得ない。そう感じ取るほど、物事を何も考えないからこそ、何も成し得ない事に何も思わないのだ」
「だが、現にそういう人間は多いだろう。死の寸前に全てを後悔する。いや、死の寸前になってさえ、届かない事に、というべきか」
「それも違うな。やることをやったならば、たどり着けなかったとしても後悔だけはしない。何故なら己の手で出来る事は全てやったのだ。何度も言うが貴様のそれは「後悔」ではなく「卑屈」なだけだ。そして、何も成し得ようとすらしなかった人間が、死の淵に抱く思いは断じて「後悔」ではないのだ」
「なら、何なんだ?」
「子供の我が儘さ」
 散々周囲に流されて、己で決断せず、能力に任せてただ生きただけの存在に、後悔する資格など無い。強いて言えば、先を大して考えず理想ばかり追った挙げ句、行動し続けた先にあるものだ。行動しなければ後悔すら持ち得ない。
「そんな奴はそもそも生きていない。生きる事と向き合うという事は、即ち「己の道を定める」ということだ。しかしそれをやらずにただ流されて決断する勇気もないまま、偶然持ち合わせた能力で右から左へこなしてきた馬鹿に、生き抜いたと言い張る資格はあるまい。能力を持ち合わせていれば、金を稼ぐのは容易だ。しかしそれでは稼いでいるだけだ。当人の意志が介在しなければ、そんなのは機械が稼働して金を稼ぐのと変わらないではないか。己の道を定め、己の運命を克服し、己の仕事をやり遂げる。言葉にすればたったこれだけだが、それこそが生涯を賭けても尚足りない程の難題なのだ。その難題に向き合う事が、生きるという事なのだ」
 まあ、それこそ事の本質であり、現実には何の力を持つ訳でもないので、どうでもいいが。本質よりも安っぽい上っ面の方が金にはなる。
「君は、そこまで分かっていながら金を求めるのかね?」
 やや呆れたようにくたびれた男は言う。何度、こういう質問をされたかもう忘れたが、当然の事ながら私は堂々と言い張った。
「当然だろう。金、金、金だ。この世界は金で出来ており、社会は金で構築されていて、人間は金に支配されている生き物だ。豊かさも命も愛も友情も人徳も誇りも矜持も信条も全て、安売りされているこの世界で、金を求めないなどそれこそ、生きる事に手を抜く行為ではないか」
「・・・・・・そこまでやれば、本物だな」
「嬉しくもないが、礼を言ってやろう。口にするだけならタダだからな。無論、代金としてここのコーヒー分は支払ってもらうが」
 言って、文句を垂れる暇も無いほど早く、私は男の財布から札束を抜き、一部を支払い残りは当然の手数料として頂いた。
 唖然とする男に対して、文句が口から出る前に私は別れ文句を告げる。
「じゃあな、根暗男。縁が合ったら、また会おうぜ」
 さりげなく代金を徴収するあたり、我ながら自分の手際の良さに惚れ惚れする程、鮮やかに金と作品のネタを押収する。
 その在り方こそが「邪道作家」である「私」なのだった。 
 
 
 
 5
 
 
 
 被害者か加害者か、それはどうでもいい。私自身「持つ側」ではないのは確かだが、そこはどうでもいいのだ。上下など同じ事。ならば下から見下し下から使い、堂々と請求書を出して図々しくある方がお得ではないか。
 悪とはそういうものだ。
 おいおい、貴様等だってそうしてきたじゃあないか。だから自業自得さ、正当なる防衛だ。いじめっ子がいるならそいつを生け捕りにして、美味しく絞れるだけ絞り上げ、あるいは暴力で戦えないならば、周囲の世論を煽るように、証拠を押さえて「私は被害者だ。何て酷い連中なんだ」と、流され安い連中そのものを利用すればいい。
 子供心ならがに、いや化け物らしくそんな人間から外れた発想をしていた時点で、我ながらどうかとは思うが、まあ構うまい。いいじゃないか。あくまでも大切なのは自分自身であって、流されやすい周囲や状況や世論がどう破壊され尽くそうとも、実際何の関係も無いしな。
 世界が残酷ならば、その残酷さを利用すればいい。結果として仕組みの幾つかは壊れるかもしれないが、まあ構わないだろう。正当なる防衛ではないか。殺されそうになれば殺しても合法だ。法的問題が無ければ配慮など必要有るまい。
 「普通」や「当たり前」とは強者の理屈だ。そんなモノに合わせるなど真面目すぎる。何かを信じるのではなく己を信じなければ。己の在り方を肯定し、信じるので有れば、世界がどうなろうが何一つ気にする必要はなくなる。強いて言えば、貯金残高位か。
 いずれにせよ「役割」は全うせねばな。無論、金になる事が前提だが。
 正直なところ、本当は人造人間だったと言われた方が、人間として生まれたと言われるより納得できそうなものだ。いや、その場合性能面が低すぎる。それならそれで有能さを手に入れて楽な道を歩めそうなものか。連中は連中で羨ましい噺だ・・・・・・何故大抵の物語で「心」などという役に立たないゴミを追い求める部分は、頭脳が間抜けと言わざるを得ないが、その分有能さを活かし金を稼げる。
 結局のところ、己を理解する気がないのだ。
 有りもしない妄想を追い求めるよりも、それはそれとしてどうするかが肝要だ。人間か怪物か、英雄か化け物か、そんなのはどうでもいい。化け物だけがそう考えるのではなく、化け物以外は、さぼっているだけではないのか? 
 実際、どうでもいいではないか。
 怪物として生まれ迫害されたとして、英雄として生まれ期待されたとして、人間として生まれ無力だとして、だから何なのだ。化け物みたいに金を稼ぐのにも苦労するよりマシではないか。普通の人間がやれることに労力を賭けなければならず無駄に手間暇がかかる割には成果が少ない。連中にあるメリットでこちらが持つモノは何もない。 大体が周囲に何かを求めすぎる。周囲が言った何かに反応し生きている時点で手抜きだ。何であれ己の意志で道を形作らねばならない。有能さにかまけて手抜きをし、それでいて身勝手に悲嘆しながら「どうしてこんな目に!」だと? 
 私ならそんな不手際にはならないものを・・・・・・怪物として生まれたなら完璧以上に人類社会に溶け込みつつ組織を作り上げ、流されやすいというなら思想を作り上げそれに準じる社会を作り、人間共が「自分の意志」で私に忠誠を誓いたがる世界くらいは、一年もかからず作れるだろう。
 英雄に生まれればその優位性を使って美味しい汁を啜りつつ、私個人の地盤を固め、組織を作り上げ忠誠を・・・・・・ふん、何になろうがやる事は同じと言うことだろうか。人間に生まれた場合も考えはしたが、そもそもどれに生まれようが心がある時点で、それはもう「私」ではない。
 怪物と英雄と人間の違いなど、初期値の能力差に過ぎないしな。ゲームにおける職業みたいなものだ。そのどれもが「心」を持ち、根幹からして私の存在と相容れない。もしもなど考えるだけ無駄な話だ。考える分には面白いが、それだけだ。 心がある時点で「私」ではない。
 だが、美味しい思いをするのは「心」を持っている側という訳か。陳腐な言い草で有れば、私が私である限り、相容れない。尚更協力者の必要性があがりそうだ。どうしたところで、私が己の存在を否定するなど有り得ないし、もしそれを行えば私は消滅してしまう。
 それは、御免だ。
 それだけは、御免だ。
 協力者か・・・・・・気の遠くなる噺だが、やはり何とかしなければ。とりあえず報酬は多めに支払う事にしよう。多めに金を支払われて喜ばないのは聖者気取りの変態だけだ。生きている以上、生きてさえいれば、金は求めて当然のモノだ。
 単純に売り上げをあげるだけなら、ゴーストライターを指導してマーケティング理論に乗っ取った作品を売るのが一番早いのだが、それを行うのにも当然金はかかる上、そんなノウハウがあれば自分の作品を売っている。売るだけであれば、そういった小手先こそ肝要だ。感動するように仕向け流行に乗せた作品を、それらしく飾りたてれば内容など関係なく、売れる。
 問題はそこなのだ。売るのに作品の内容など、何の関係性も無い。金と人脈さえ有れば、見た目の良い女優でもプロモートしてゴーストライターを雇い、あるいは私の作品を女優が書いた事にして売り捌けるのだが。むしろ、作品を売るには、作者の見た目や話題性が大事だ。いつの日か優れた影武者を用意する為にも、私自身が表に出る事は永久になさそうだ。そうでなくとも目立って得な事など何もないが。
 「目の前の人間を見抜く眼力」は人類社会において、長らく不要の長物として扱われてきた。肩書きや権威、デジタルネットワークを使えば、そもそも本人と会う必要性すらない。表層だけしか知らずとも、知った風な口を利いているだけでも「持っていれば」許される世界。
 優しいが、その分騙すのは容易い。問題はその為の準備にすら、金がかかるという部分だが。
 やれやれだ。
 案外、影武者さえ用意できれば売るのは容易いかもしれない。私は売り上げさえ己のモノに出来ればそれでいい・・・・・・いや、勿論影武者に持ち逃げされる可能性もあるのか。信用を得るだけなら誰にでも出来る。信頼を得るだけなら簡単だ。しかし、両立する人材など、いるのだろうか?
 「奇跡」とは起こすモノではなく、あるかのように描きあげる事だ。その為にはそれらしく演出する代役と、演出させるプロモーターが必要になるだろう。無論、両方とも出来る人材であるに、越したことはない。代役に関して言えば、見た目と記者に対する受け答えの巧さがあればそれでいいのだ。考えてみれば私個人が表に出る必要性など無いのだし、その方向で考えてみるか。
 読者は馬鹿だから気づかないだろう。
 変態的な執念で有名作家を追い求める読者などその典型だ。作品と現実に区別がない。たかが、物書きに何を求めているのか、全く。
 政治的に危ない作品を作ればあっさり殺され、政府におもねる事で利益を得られる準備を整え、大きな権力を持つ存在が買い上げる為に、物語は存在する。夢も希望も物語の内側の存在であって現実には社会に対して企業や国家のイメージ操作を行うためにある、ツールに過ぎない。 
 実際、効率的ではないか。
 若者が戦死に準じる映画など、その典型例だろう。美しく見せる事で、政府の正当性を刷り込むのだ。悪を見据えるよりも、小綺麗な正義を演出する方が刷り込みやすい。そして、その方が金になるのだから当然だ。
 大きな何かに翻弄され克服する物語を、大きな何かの都合の為に作り上げる。それが物語というものだ。少なくとも、現代社会において、物語に他の使い道などあるのだろうか。断言する、無い・・・・・・物語から学び、成長し、それを活かすというのは、ただの妄想だ。物語から何かを学び成長できれば苦労しない。その理屈で行けば、散々、長い歴史を物語は生きているのに、今の今まで何の成果もないのはどういうことだ。
 現実に「計り知れない意志」など無い。全ては数値化出来るし、人間の意志も同様だ。己の意志で生きているようでいて、統計学で全ては解明できるのだろう。私は学者ではないが、当人の意志だけで本来有り得る可能性、統計や理論の壁を、個人で越える奴など見た試しがない。
 いるのか? そんな奴。
 いるなら是非お目にかかりたいものだ。何なら取材を申し込んでも構わない。内容によっては、金を支払うのもいいだろう。いれば、だがな。
 個人の「意志」が大勢に波及し、世界の流れを変えていく。そんな事が出来れば苦労しない。仮に流したところで明日には忘れるだろう。全世界に波及し人間の意志が行く末を大きく変え、社会の仕組みにさえ影響を与える。そんな奴はもう、人間ではあるまい。
 個人的には会ってみたいものだが。面白そうではある。全世界に影響を与えるとすれば、どんな人格がよいだろう。ただ暴君ではつまらない。悪であるだけでも駄目だ。類似品など御免被る・・・・・・人間の内側に干渉し、当人自身の意志で物事に対する味方を変えさせる。それで赤点は免れる、といったところか。正直なところ、全人類にその程度のカリスマ性があって欲しい。
 他者に干渉するなど基本ではないか。
 むしろ、ここまで他者に影響を及ぼせない類似品ばかり、よく作り上げたものだ。クローン人間ではあるまいし、量産された人間など、見ていて面白くも何ともない。やはり「悪」だ。確固とした指向性を持つ「悪」こそが面白い。私の作品もそういった存在を量産する、手助けになればいいのだが。
 まあ私の作品にそんな影響力はあるまい。言葉だけでそんな影響力があってたまるか馬鹿馬鹿しい。生憎、私は言葉の力など信じていない。現実にどうであるかよりも、そう思わせる方が大切なのだ。実際に全人類に影響を与えたいなら、大統領の複製でも作った方がまだ早いだろう。
 人間の意志など、そんなものだ。
 実に、安上がりに出来ている。
 意志は移ろうモノ。ならばその移ろい易さを、利用する方策を考えなければな。作品で人に影響を与えるという妄言よりも、余程現実的だ。
 言葉に力だと? 下らん。
 平和を願い豊かさを願い歩み寄りを願い、言葉にして後に託した奴は多いだろうが、それが何になる。そんな言葉を紡ぐくらいなら、現実に社会の仕組みを変える為、動くべきだ。現実に何かを変えたいならば、それに見合う金と組織力、物理的な力こそが現実になる。
 妄想を描くだけで現実に成れば苦労しない。
 そういう意味では、「ああああ」とだけ作品に書かれていても同じなのだ。物語の真贋など気にする読者はいない。表紙や話題性、それに連なる流行こそ、彼らの手を駆り立てる。傑作を書くにはテーマが必要だ。「何に挑みたいのか」あるいは「何に対しての思考錯誤か」といった具合に、種類は多い。しかし、どうせ明日には読者は忘れてしまうのだから、あくまでも作者個人の自己満足に過ぎない。
 売れれば同じ事だ。実際に売れている物語を調べて見ろ。余程の例外でも無い限り、何を書きたいのかすらよくわからない筈だ。
 そんなものだ。
 何かを伝えたい、何かを示したい、いや伝えるべき何か、示すべき何か、書かなければならない何かなど、無駄なのだ。どちらかと言えば前者が幅を利かせるのだろう。伝えるべきではなく伝えたいので有れば、それはただ個人の欲望だからだ・・・・・・売れ筋の作品にはそういうのが多い。
 中身など必要ない。実質白紙と同じだ。いや、メモが出来ない分さらに不便か・
 物語の現実とはそれなのだ。そこに向き合って初めて「作家」と呼べるのかもしれない。別に、どう呼ばれようと、どうでもいいがね。
 売れるだけの作家は多い。おおよそ「作家」と呼ばれる連中の大半は、デビュー当初は勢いに乗って調子づくが、途中から流行に乗り遅れたりして作品を書けなくなり、所謂その「ブランク」執筆不調とでも言えばいいのか、に陥るらしい。本来で有れば書くべき何かがある限り、作品のネタが尽きるなど有り得ないし、むしろ真に作家足り得るなら「書きたくても書けない」など喜ぶべき状態だと思うが・・・・・・そもそも中身などどうでもいいだろうに。むしろ、作品が書けないなら書けないで、その状態を自分で取材しつつ作品のネタにすればいい。
 何であれ同じだ。不調でも好調でも作品のネタにはなる。売れるだけの連中に足りない部分が有るとすればそれかもしれない。とはいえ、作品の出来映えなどという暇な内容で悩みながら、金を持て余し豊かな生活が送れるので有れば、それはそれで勝ちという気もする。
 いずれにせよ贅沢な噺だ。書きたくもないのに書き続け、金にもならないので嫌気が指しても、当人の意志とは関係なく手が震え、それによって物語る生活の、何がいいのだ。中身が無くとも、売れさえすればそれでいいだろうに。
 何年も先に渡って評価される事があるとしてもそれは作品そのものに対してであって、作者自体は関係有るまい。商売の為に作り上げた商品が、世論に評価されたところで読み手が見るのは商品だけだ。作り上げたのが誰かなど、どうでもいいではないか。
 こちらとしてもそれが有り難い。
 金さえ振り込まれれば誰が私の物語を書いたと言い張ろうが、それはそれで「結果」同じだ。少なくとも面倒事を避けられるので有れば、やはり率先して代役を立てるべきか。女がいいだろう。いや男も捨て難い。読者共を欺き売り上げを伸ばす為には、表面だけで騙しきる能力がいる。
 いっそ、アイドルグループにでもやらせるか。 美男美女を揃えて、「彼らが書いた」という事にするのも有りだろう。問題は人脈と金と権力が足りない事だが、検討するだけなら金はかからない。ゴーストライターを雇って他の作品を売り捌くという方策も使える。表に出る「作家」は一人で構わない。わざわざ本人をデビューさせるよりも、売り上げは上がる筈だ。
 いっそ、そちらの方が良いかもしれない。実行できるかはともかくとして、単純に良い作品を捜し当て、書いた本人をプロモートするよりも、代表者を一人立て、そいつが参加者全員の作品を書いた作家、だという事に仕立て上げる。
 我ながら悪くないアイデアだ。いや、この場合悪である私からすれば「正しい」アイデアか。
 しかし残念だ。私が物語を広めてやろうというのはただの趣味だ。私個人の実利が確保された後に、精神の充足の為に行う悪趣味でしかない。実利を求めるだけなら楽な道が良いが、精神の充足の為であれば、それは「困難な道」が望ましい。 簡単に成功してもつまらないからな。
 私個人の実利が確保された後だが・・・・・・少なくともあらゆる創作者の生きやすい世界を作ってやろうというのだ。文句は言うまい。私はそれを、暇つぶしと遊びの為に発展させるまでだ。成果は問わない。面白ければそれでいい。
 実利が確保出来れば、だが。
 しかし作家もどきの連中を取材するのも、それはそれで面白そうだ。真実創作者として生きようとする奴は、必ず人間をやめている。人間の視点で作家を志そうという連中は大抵、作家という言葉の響きにつられて、大した覚悟も信念も無いのが通常だろう。まさか、人間味を残した奴が、作家などと言う、いやあらゆる創作者はそうだが、そんな人間をやめた生き方を肯定すまい。
 何であれ、プロの条件があるとすれば、それは「心を捨てる」事なのだが・・・・・・そこまでしなくとも稼げる奴は稼げるものだ。役割に殉じて全てを賭けなくとも、能力や幸運があれば、生活するのに支障はない。
 そも人の身に余る何かを表現しようとするので有れば、人間をやめるのは当然だろう。人間のままでは表現できない。当たり前だ。しかし、私のように生まれついて化け物ならともかく、生きている間に人間を捨てる、などあり得るのか?
 私は最初から人間では無かった。断言できる。人間らしさなど、未だにわからない。人間が笑うのを見て、真似れるように、つまり「笑う事が出来るように」なるのに苦労したものだ。悪とは笑う存在なので、そこだけは良かったが。
 しかし、だ・・・・・・今まで人間として生きてきた奴が、その「心」を自らの意志で「捨てる」などあり得るのだろうか? 私には全く共感できないが、しかし連中は「心」を「良し」としている筈なのだ。だからこそ有りもしない精神性を重んじる訳だしな。
 その人間性を、持っていながら、捨てる。
 面白そうではある。今回の「依頼」は死んだ人間の電脳生命体のコピーを始末するだけだ。逆に言えばその前に取材しても構うまい。死んだ人間の尊厳がどうの、とか言われそうだが、人間同士の約定など私には関係あるまい。駄目だと言われたところで、法の隙間を縫ってやるだけだ。
 その猶予が今回の依頼にあれば、だがな。
 しかし「死者の尊厳」か。死者の尊厳は使者自身が尊重するモノなのだが、しかし連中はそこに気づくつもりはないだろう。これに限らず、何か理由に出来る存在に対して、免罪符を掲げながら暴れたいだけだからだ。何事であれ、真に考える輩は黙っている。騒いだところで現実には何も、変えられないからだ。
 最近は騒ぐだけの人間が多くなった。
 それで人生を生き抜ける、というのだから末期だろう。持っているだけでそこまで出来るなら、誰も真面目に生きる訳があるまい。やるだけ無駄な事柄に手間暇を賭けるのは、見る側の自己満足を押しつけられているだけだと、皆が知っている・・・・・・何より問題なのは、押しつける側には自由と力があるが、押しつけられる側には抵抗する権利すらない部分だ。
 騒がず真面目にやったところで、これだ。考えるだけの価値がない。だから、どんどん廃れていくのだろう。
 人間の文明も。
 人間の感情も。
 人間の発明も。
 人間の文化も。
 人間の行い、全ては廃れて行く為にある。当然だ。後に繋げたところで、何の役に立つのだ。綺麗事など誰も気にしない。
 それでも他に生き方が無いというのだから、我ながらどうかしている。少しは連中にも見習って欲しいものだ。ま、読者共には無理な話か。
 人参を釣られた馬のようなものだ。読者共に本質を期待するのはただのさぼりだ。読者共に本質があるかのように見せかけなければならない。
 それが作家業の本質だろう。
 物語を通して伝えるべきを伝える事だと思ったか? 希望を伝える事だと思ったか? 信念を、思想を広める事だと、思ったか?
 馬鹿馬鹿しい。
 鏡を見ろ。貴様等読者にそんな大層な所行が、出来ると思い上がれる部分に驚きだ。物語に必要なのは売り上げと、それをあげる為の労力だ。強いて言えば耳当たりの良いタイトルと、それらしい風評と、それを流す組織力と、それをそうだと信じ込ませる洗脳技術だ。
 どこに物語の中身が関与する?
 まるで自身が、物語に期待できる希望や信念や思想や正義や素晴らしき人間賛歌を、己でやり遂げたかのような「錯覚」を魅せるのが重要だ。読者共はそれを求める。読む事で成長できる物語があるとして、読者は楽して成長した気分になれる安易さを求めているのだ。本当に成長する物語など、書いてどうする。
 そういう意味では、安易で安直な成長や思いこみを得られるだろう、と思った読者共が、私の作品を読んで現実に無理矢理目を向けさせられ、絶望して本を投げ捨てるも、頭に染み着いた残酷な事実が消えない・・・・・・それが理想だろう。
 考えただけで楽しいものだ。
 読者共の苦しみを想像するだけで、晴れやかな気分になれる。読者が苦しむという事は、作者が喜ぶということだ。どんな商売でも基本だろう。 心神喪失する位の物語が書ければ、一人前ということかもしれない。一人前であるかなど興味はないが、しかし考えておこう。読んだ読者が唸り声しかあげられなくなり、人生にも人間にも絶望し、何一つ信じられなくなり「人間になど、生まれなければよかった」となれば、ひとまずは成功といえるだろう。無論、完成度は上げるに越した事はない。 
 読者が自分の意志で、人間を率先してやめたがる物語。それが量産できれば面白いのだが。
 
 
 

 なに、私は私個人の平穏や幸福、というか本来人間がたどり着ける場所には労力を賭けなければならない存在だが、人間が到達できない、到達すべきではない場所には散歩より容易に到達できる・・・・・・だからこその「化け物」だ。
 楽しみが一つ増えた。今回の「依頼」作品のネタはデジタルクローンに会ってからかと思っていたが、それなりに収穫はあった。やはり人間の苦悩に関して言えば、外から眺める方が作品のネタにしやすい、ということか。
 作品のネタを探すのは簡単だ。
 読者共が、どう苦しむかを想像すればいい。突きつけられる事で苦しむテーマとは何だろうと。愛や希望や勝利、その裏側は何で出来ているのか・・・・・・表向きが綺麗であればある程、剥がせば汚らしいものだ。アイドルが裏で暴行事件を起こすようなものか。私のような奴が法律に反さないやり方で他社を社会的に抹殺していた。そう言われたところで「だろうな」と思うだけだが、しかし「善意」や「希望」を振りまいている連中が、実は信じるに足らない嘘八百だと無理矢理教え込まれた人間の絶望。これほど面白い娯楽は、そうはないだろう。
 最高の喜劇だ。
 綺麗は汚い、汚いは綺麗だと言うならば、綺麗だと思って口にしたモノを、実は裏でこう処理されていたのだと、食べ終わった後に教え込む。それが作家の役割だろう。目の前の現実を見れないならば、見たくもない事実を、そうと知らない形で教え込めばいい。
 今まで信じてきた「倫理観」が「道徳」が崩れていく。ありもしないモノだったのだと絶望する瞬間こそ、見る価値があろうものだ。
 見ている分には面白いからな。
 あらゆる人間の欲望、絶望、信念は、私にとって食べる為にある。消化して作品のネタにしなければならない。私のように真っ直ぐな人間には理解できないことだが、そういったあれこれで人生を台無しにするのは、連中にとって珍しくない。どころか、それを学習せず延々と繰り返す。人間は自身の性を認めるよりも、そんなのは自分には無いのだと、否定する方が楽だからだ。持ちたくても持てない私からすれば、贅沢な話だが。
 あらゆる人間性を食べ続け、消化し、最も望まれない形で事実を認識させ、それを糧として生きる・・・・・・確かに最悪だ。まあどうでもいい。それは所詮読者共の判断によるものだろう。繰り返すがそれが金になるかどうかなのだ。
 金になれば何でも肯定できる。 
 それが殺人でも戦争でも侵略でも、世界を動かす原動力であり、善し悪しではなく動かす際に、必要な機構が金だ。社会において金は全てが肯定される。無色透明のエネルギーだ。その行いが悪と言われるモノだったところで、金はそれを道徳の教科書に載せる力を持っている。 
 正しさを金で買えるのではなく、金の多寡で、正しさが決まるのだ。 
 多ければ正しい。
 少なければ悪い。
 貧困層はすべからく「悪」と言える。持たざる存在が何を喚こうが、力が無ければ正しくない。いや、正しく在る為の力が足りないのだから、必然的に悪だと言われる。無論、持つ側に限って、そういう理不尽を許せないなどと口にして、寄付だの支援だのを行うものだ。しかし、その実体はそもそも連中が勝利しているからこその結果であって、理不尽が許せないなら貴様等が死んだ方が早いというのが事実だ。
 世界に「運」があるとして、その総量は決まっている。全てに均等にそれを分けようとする馬鹿は多いが、もしそれを実行するなら全ての豊かさは消え去り、文字通りゼロになるだろう。誰かが泣くから誰かが笑い、誰かが死ぬから誰かが生き延び、誰かが不幸になるから幸福を手に出来る。 そんな当たり前の事実すら、連中には知る義務はない。故に起こる世界の矛盾だ。仮に幸運の総量を増やせたところで、同じ事だ。考えればわかるだろう。どんな遊びにしたって敗者がいるから盛り上がる。勝利を実感するには敗北し死ぬ連中が必要なのだ。敗者がいなければ生きている事も勝利した事も、実感できない。それが人間だ。
 精神が成長すれば問題ないだと? 
 聞くが、そんな生き物が果たして「人間」と、呼べるのだろうか? 確かに、そういった人間が増えれば私としても面白いが、それを成し遂げようとして出来なかったというのが人間の歴史だ。人類が集団である以上、いや、それも必要無くなるのか。昔はそういった連中も労働力として必要とされたが、アンドロイドやロボットテクノロジーの発達で「その他大勢」の居場所は機械が占めてきている。極一部の人間がそうであったところで、大きな流れは変えられなかったが、その大勢の部分を機械にやらせ、余った人間は処分する。 実際に殺し回るのではなく、そういった連中には、居場所がどこにも無い世界。テクノロジーを進めた結果、人間にすら代替が効く世界。それは現実的な発想だ。社会を変革しうる人間など極々一部だが、しかしその他大勢が幾らでも代わりが効くならば、そういった人種とテクノロジーの恩恵だけで、社会を回す事は出来る。
 浅い意志の集合体に振り回されない分、効率的に動くだろう。実際、大勢の意見を金や権力で無視し、実行するのはよくある話だ。大昔から行われてはいたが、更にやりやすくなっている。少なくともこの先、その他大勢と数えられる人材が、必要とされる未来など有り得ない。ロボットに出来る事を金を支払って人間にやらせる必要など、どこにもあるまい。
 誰かの労働の代用品ではなく、己の仕事としてやる必要性が出てくるだろう。考えてみれば当たり前の事だ。人生に対して誤魔化しが効かなくなっているとも言える。己の意志で何かを成さなくとも生きていける世界は、終わっていくのだろう・・・・・・何を成そうがそれが金にならなければ同じという部分だけは、変わらないだろうが。
 それでも人間は「暗闇の中で何かに挑む姿」に憧れるのだろう。「自身よりも大きな存在に対して挑み続ける」というのは永遠のテーマだ。運命もそうだが、真の意味で克服すべき相手というのは、いずれも強大だ。己よりも小さな何か、簡単に倒せる相手を倒して、誇らしく思う奴など、いないだろう。
 倒せる筈がない。
 だからこそ、それを見たい。
 故に、物語とは現実から離れていながら、現実的な手法で「奇跡」を演出しなければならない。それを読み手が感動し、自身もそうあろうとする為にだ。無論その感動など一時的なモノに過ぎないが・・・・・・読者が求めているのは「感動」であって「成長」ではないからな。それに、現実にそう上手く運べば誰も苦労しない。
 そんな都合の良い刃はないからだ。
 向かうべき相手を都合良く倒せる刃など、存在しない。物語であれば偶然持っていたり仲間に恵まれたり誰かに助けられたりするのだろう。楽ではあるが嘘臭い話だ。実際には倒す方法どころか倒す権利が無かったりする。倒せるのは恵まれている奴だけで、あらかじめ持っていなければ挑む事すらままならない。
 それが現実だ。
 偉人だともてはやされている人間と、挑みこそすれ敗北する人間。違いはあるのか? 意志は同じではないか。思想を通す所も変わらない。たまたま認められたかどうか。結局それが、全てだと言うのか? 
 運不運。もう少し洒落た答えはないものか。
 その場合、文字通り「運という概念」を克服しなければ、勝てない。あるいはその「協力者」を探しだし、幸運を持っている奴の助力を得るかだ・・・・・・しかし、幸運な人材との出会いこそ、幸運がなければ成し得ないのではないか? それは、所謂その「主人公」だとか「正義の味方」の特権だと言える。そんな連中のやり口が、あろうことかこの「私」に適応するのだろうか。
 他者の人生を狂わせる事で、悪は栄えるものだ・・・・・・となれば、やはり積極的に読者共を破滅させるべきか。騙してでも、読者共が苦しめば苦しむほど、私は笑顔になれる。少なくとも、今まで読者の望む形で作品を提供したところで、笑うのは連中だけだ。金さえ払いはしなかった。
 もっと積極的に殺さなければ。
 意識的に他者を苦しめ、搾取する事を考えるべきということか。具体的にどうすれば物語を売りながら苦しめられるのか私にはノウハウが無いが・・・・・・考えてみれば当たり前だ。成功者とは皆、そういうものではないか。大勢の不幸が、苦しみが、苦痛があるからこそ、勝利できる。
 何とかやってみるとしよう。
 目的地に向かっているからといって、辿り着けるかはわからない。「正しい信じる道」を歩いているかどうかと「結果」は別のものだ。それだけで成功し勝利しようというのは、諦めではないか・・・・・・無論「過程における意志」と「結果に辿り着けるという結果」の両立が最高なのだろう。それこそ「持つ側」でなければ不可能だろうが。
 持っていなければ勝利という「結果」に辿り着けない。かといって持ちすぎていても「過程における意志」は薄れるものだ。しかし、過程に対して喜びを得るのは当事者ではなく、眺める立場の観客だ。小綺麗な「生きる意志」とは、物語の中で輝いていればいいものでしかない。とどのつまり眺める側の自己満足に過ぎないのだ。
 現実に「持たざる者」で「過程における意志」を持ちながら「結果に辿り着いた勝利者」など、いた試しがない。それとも、新しくそういった道を切り開けとでもいうのだろうか。やってはみたが、しかし運不運には勝てそうにもない。それらを現実に体現出来るのは、決まって「持つ側」の連中だけだ。
 人間性を最初から捨ててすら、届かない。
 奪う力があれば苦労しないし、捨てて挑んでも届かなかった。ここから更に何をしろというのだ・・・・・・これ以上、何をすればいい。
 続ける事は「美徳」だろう。しかし結果が伴いもしないのに「意志」を継続させるのは、ただの「子供の遊び」だ。それが現実に結果を残せる形で続けなければならない。正しい道を歩んでいるから結果がついてくるというのは、諦めから来るものではないか。正しい道である事と、成果が付いてくるかは関係ない。世界が理不尽で善悪も適当であり、正しいかではなく通せるかで可否を決める以上、事の行いに対する思想、信念、意志の全ては、無意味で無価値なのだ。
 本人があると、思いこんでいるだけだ。
 そうであって欲しいだけだ。
 まさに無力な負け犬の戯れ言ではないか。そんなものは知ったことか。辿り着けない仕組みで動いている世界に、真面目に向き合うのは現実を見ていないだけだ。仕組みが不具合を起こすなら、仕組みごと破壊するか、仕組みに細工して利用するしかない。意志が無力で無意味で無価値なら、それはそれで構わない。こちらとしても善悪に拘るつもりなど更々ない。私が辿り着ければ、他はどうなっても構わない。
 まあ、そういった暴力や搾取で行える安易な方策も出来る力がないので、やはり別の方法を採らざるをえないが。「協力者」か。見つかればいいが・・・・・・持つ側の勝利者であれば「偶然」有能な人材と縁を結べたりするのだろうが、私の場合、因果の内側にいるとは思えない。そんなところにいるのであれば、もう少しマシな人間になっていただろう。何も無いからこそ、こうなった。
 有る無しはどうでもいいが、それならそれで、そのままでも勝利する方法が必要だ。今回の依頼でふと思ったが、別に相手は人間でなくとも構わないのだ。そんな協力者がいれば、だが・・・・・・人間相手でさえ探し出せていないのに、そんな連中を仲間に引き入れられれば、だが。
 地道に探すしかないか。いつもそうだ。あれこれ手を回した挙げ句、地味に使えるサービスを探し続ける。金を払って逃げられる事もしばしば。やるだけ無駄だと何度も思い知り、しかし他に出来る事もないので延々とそれを続ける。
 うんざりだ。
 何か気分転換になる事を考えるべきか。結果に辿り着くのが最優先だが、過程の道を眺め、気分をリラックスさせるのも必要だ。どうしたところで「作家業」から手を引く事は出来ないのだから・・・・・・向き合うだけでは疲れるだけか。
 「結果」を求める私が「過程」を描かなければならないとは、皮肉なものだ。だが、物語の善し悪しや、その評価は私には関係ない。それは作品が負うべき評価であって、私からは離れたものだ・・・・・・作ったモノに責任と言われても、私からすれば遙かな過去の出来事だ。正直、どうでもいいのだ。物語を通して読者共が何か成長するかもしれないし、学ぶ事があるかもしれない。未来を左右する(そんな力が物語にあるとは思えないが)事も、あるかもしれない。だが知るか。
 それが私の生活に、何の関係がある。
 それこそどうでもいい。優れた作品は、優れた作品であるだけだ。創造者がどうであれ、作品の出来やその行いに誇りを持つ資格など無い。その理屈で行けば、人間の行い全ては神とやらの手柄ではないか。私は神などいてもいなくても役に立たないという部分において同じだと思っているが連中は己の行い、己の意志、己の成し遂げた全てを「神様のおかげ」とでも言うつもりか?
 馬鹿馬鹿しい。
 物語に意志はないが、似たようなものだ。機械のパーツを作りあげたところで、空を飛んだり、海を渡ったり、宇宙を眺める事と、作った人間は関係性がない。別にそいつでもいいし、他でも、代用できれば構わない。私の作品を作る事を、代用できそうな奴などいないかもしれない。しかし仮に作品を作り上げる事で、何かしらの反応を得られるとしても、だ。私とは関係ない場所で起こる事柄でしかないのだ。世界の裏側で何があるかなど、知ったことではない。
 どうでもいい。
 私の生活が豊かで平穏で、それなりに充足できる環境かどうか、だ。そも作家業を始めたのは、その「充足感」が本質的に私には存在しないからこそ始めたのだ。「充足している」ということにして、それを「生き甲斐」とすることで生活を豊かにする。たまたま適していたのが、才能も能力も不要で、文字さえ書ければできる作家業だっただけだ。もし、作家であるのに難しい技術が必要ならば、私は目指す事すらしなかっただろう。
 普通の人間が人並みに出来る事すら、出来ないからな。
 その点、作家業は天職かもしれない。内容などどうでもいいが、もし拘るとしても「書くべき」事柄を探せばいい。そうでなくとも、物語に必要なのは技術云々(無論、私と違ってあるにこした事はないが)よりも、書き手の在り方だ。技術を積み上げ何かを成すなら、漫画でも書いた方が、早いだろう。一番原始的で誰にでも出来る最も楽で安易な道こそが「作家」だと言える。
 実際、表現は楽ではないか。
 文字さえ打てれば猿でも出来る。卑下するつもりはないのだが、事実だ。実際、売るだけなら、内容すらどうでもいい。もし面白い物語を書きたいという奇特な奴がいたとしても、ちょっと人間をやめればいいだけだ。それが出来ない、むしろやりたくないという奴は多そうだが、何も本当にやめずとも、やめた場合を想像して書くだけでも、真に迫る事は出来そうではある。
 つまり、どうにでもなるのだ。過去偉大なる戦陣がいたとしても、そいつもこちらも文字は書ける。同じ内容を思いつきさえすれば、誰にでも可能な事だ。まさか現代社会で「文字を読めないし書けない」という奴はかなりの少数派だろう。もしそうだとしても、学べばそれこそ誰にでも出来る事だ。
 どれだけ無力でも、可能だ。
 なに、意志だの思想だの信念だの、そんなことは気にするな。売れれば作家だ。いや、本人がそう言い張れば作家だろう。「売れる作家」になるのが困難なのだ。そもそも人生に生き詰まるような奴でなければ、目指すべきではない。作家なぞ志したところで、得られるモノは何もない。
 思想を広め人を変え、社会に変革を起こし、人々の意識を変える。だから何だというのか・・・・・・話が壮大なだけで、自分が凄い事を成し遂げているという「思いこみ」が欲しい奴はなりたがるらしいが、そんなのはただの妄想だ。人々の意識など秒単位で変わるではないか。今日良くしたところで明日はわからない。崇高な意志を受け継いでいるつもりでいたのに、意味を履き違えてそれを悪用したりする。そんなものだ。
 やりたければ幾らでもどうぞ、としか言いようがない。売れれば作家だ。そういう作家も増えてきている。むしろ、作家である事に信念を持ったところで、何になるのだ。物語に本質を貫いたところで、だから何だ。
 それは読者共の都合でしかない。読み手としてはそういう物語は好感が持てるが、作り手としてはどうでもいい。この矛盾。どんな商売でも大昔からある矛盾だろう。信念や誇りほど、あっさり負ける為にあるものは、他にないからな。
 生きる上で必要なのは「恐怖すべき何か」が、あったとする。それは生きる上での「障害」だ。だが恐怖に立ち向かうのも克服するのも、本質的には物事を解決できていない。克服しようが打ち滅ぼそうが、別の「恐怖」が現れれば無駄に終わるからだ。「恐怖」そのものを「支配」する事が出来れば・・・・・・「恐怖を倒す」のではなく、それそのものを「己の刃」にするのだ。経済も暴力も同じだ。それが障害になるならば、それそのものを支配し、己の武器に変換する。
 恐怖を取り込むのだ。
 読者共の都合も、物語の売れ行きも、金も運不運すらも「私の武器」に変えられれば・・・・・・文字通り「無敵」だ。何せ、敵が己の糧になるのだからな。それが出来れば苦労しないが、それを成し遂げるのもまた、生きる上で必要な事だ。
 必要に応じて必要な事をする。
 私にとっては、ただのそれだけだ。
 少なくとも、数ある答えの一つではある。恐怖を倒すのでも克服するのでもなく「恐怖そのものを支配する」事が、私にとっては「生きる」事と同義なのだ。恐怖を支配する事が出来れば、どれだけの恐怖、というか例外的な何かがあったとしても、それそのものを取り込める。
 怪我も病も刃も不運も金も社会も摂理も全て、私の武器に出来る。「敵対者が味方になる」などという生易しいものではない。敵対しようが障害が発生しようが、その出来事そのものを私が私の為に私の武器として使えるのだ。
 偶然を味方につける、のではなく、偶然がどれだけあろうが、どれだけ不利な状況になろうが、それを武器にする。それを可能にする手段を手に入れる、ということだ。とはいえ、やはりどんな方法を手に入れようが「協力者」は必要になってくるか。どんな手段を手に入れようが、一人では出来る事も知れている。利用も金で雇うことも、できない協力者か。宇宙人でも探した方が、実入りはありそうな話だが。
 それも必要であればやるしかない。
 やるしかないだけで、出来るか保証は無いが、しかしいつものことだ。保証のある人生を遅れていれば、作家などになっていない。
 小手先の戦いは正直得意ではないが、やるしかないだろう。物語でもそうだが、ある程度は技術で補填が効くものだ。だが、物語に関して言えば小手先の技術で「感動」や「恐怖」を演出し、面白く出来たのは昔の話だろう。映画もそうだが、フローチャートに従って出来上がる物語に、人々は感動しなくなった。読み手側からすれば、技術による感動や恐怖による面白さよりも、人間の奥深くに食い込むような物語を欲するからだ。
 そのくせ、表面的な物語が売れる。
 だからこそ、読み手が求めるような物語など、そうそう表には出ない。売れないからだ。売れなければ給料だって支払えない。当たり前の話だが作り手に対して関心を持つ奴などいない。それに権威や肩書きこそ事の善し悪しだと判断する民衆にとっては、「これが面白いのだろう」と、大して面白くなくとも、それが面白い物語だと、そう信じ込もうとする奴もいる。自分には理解できないだけで、それが面白いのだと。
 結果、似たような物語が氾濫し、それが金になるという訳だ。今となっては物語など、政府や会社の宣伝したい思想を広める為のツールだ。大勢の人間にジーンズを売りやすくしたり、自国の思想を押しつける為に、物語は存在する。
 誰かに何かを伝えたいだと?
 なら、電話でもしていろ。ネットの掲示板にでも書き込め。薄い情報はすぐに淘汰されるが、別に構わないだろう? 貴様等が伝えるべき事柄など、どうせ大した事ではあるまい。テレビで見たとか誰かに聞いたとか、己の意志で進んだ結果、得た答えなど、誰も必要としない。
 貴様等はその程度で、それを変えるつもりも無いのだから、構うまい。その結果物語の中身が薄れたところで、貴様等はそれに金を支払う。中身ではなく売れる仕組みだから売れる。そこに何の問題があるというのか。
 問題は仕組みの側で美味しい汁が啜れるかだ。 物事の本質など、真贋などどうでもいい。
 元より商売とはそういうものだ。商品の善し悪しよりも、売る事が出来る立場にいるかが慣用なのだ。デジタル世界であれば売りたい奴が売れるようになるとでも思ったか? デジタルでもアナログでも、同じだ。宣伝し売る能力があるのは、いつだって「持つ側」なのだから。売る場所が変わるだけで、デジタルもアナログも、やることは何一つ変わらない。
 安易な商売が、より安易に出来るだけだ。
 実際「仕事」と呼べるようなモノを、ここ最近見ていない。扱うのが物語でも食品でも、同じだ・・・・・・右から左へ流すだけ。流すだけで美味しい思いが出来る「立場」にいるかどうかだ。
 それならそれで構わない。
 問題はどうすればその立ち位置に座れるかだ。誰かを始末する事で出来るならそうしたいが、そうもいかない。基本、そういう立ち位置は幸運によってもたらされるからだ。当人の意志や労力でどうにかなるなら、誰も苦労しない。
 だからこそ真実などどうでもいいのだ。役に立ちもしない「真実」など、己の都合の為に、ゼロから作り上げればいい。真実が無力なら、力ある虚構を真実として飾り上げればいいのだ。
 無いなら作ればいい。
 それだけの話だ。
 よくある「飲んでも飲んでも喉が乾き、潤いを欲する」というのとは「違う」のだ。私の場合、飢えもせず乾きもしない。だが、だからといって敗北を容認し続けるなど、あってたまるか。腹が減らないからといって、捨てられたパンを食べるのも、施されたパンを食べるのも、パンを食べれないのも、やはり御免だ。
 食い千切ってでも食らうのだ。
 それでこそ「生きている」と言える。幸福や、生きる実感は私には存在しない。「心」が無い以上全ては内側での闘争かもしれない。 しかしだ・・・・・・己を阻む障害は、全て斬り伏せてこそ勝利と呼べる。具体的な方策は全て水泡に帰してしまったが、それでもだ。
 とはいえ、現実問題聞こえの良い言葉を発するだけなら誰にでも出来る。どんな状況下でもそれだけは可能だろう。根拠もなく未来を見据える事が良いか悪いかはどうでもいい。問題はそれを、現実にしなければならない部分だ。
 とりあえず依頼にある標的は(どうやって死んだ人間をまた殺すのかは後で考えよう)恐らく、今はまだデータで遺伝子情報を保存されているだけの筈だ。とりあえずはデータを破壊し、不可能ならば蘇ったそれを始末するまでだ。問題があるとすれば、所詮連中は「死者のデータ」に過ぎないかもしれない、というところだろう。無限に複製されては始末しきれないからな。
 とはいえ、その可能性は低い。
 何であれ同じだが、権利や特権とは独占してこそ富を生む。偉人を復活させようなどと考える連中が、その鉄則を外すとは思えない。
 才能や偉人、あるいはそれは「異常者」と呼ぶのかもしれないが・・・・・・珍しいからこその異常であり、少ないからこその天才だ。世に溢れる人間の全てが、相対性理論を理解していれば、誰も、「才能」などという言葉を使わないだろう。連中にとってそれが当たり前であれば、そんなモノに憧れなど抱きはしない。
 とはいえ「天才」と「異常者」は異なる。今回の件に関して言えば「異常者」の類の複製と言っていい。才能は解き明かせばただの能力の初期値が多いだけで、その原理を解き明かせば誰にでも応用できるモノだ。しかし、芸術もそうだが異常な存在が作り上げる何かとは、基本から外れているからこそ出来るのだ。根本からして他者と隔たりを持つからこそ、他では真似の出来ない何かを成し遂げられる。
 大量のパンを焼いたら、一部焦げてはいるが、それなりに個性のある味が出るようなものか。本来は再現不可能な一代限りの「異常」だ。それを再現するには、ただ模倣するのではなくその異常性というバグを再現するということだ。言ってしまえば災害やガン細胞の再現に近い。意図的に、病理や粗悪を再現する。毒を作り上げウイルスに感染させ、無理矢理にでも進化を促し、成功例を作り上げるようなものだ。
 才能と異常は違い過ぎる。
 能力ではなく、根本が正常ではないのだ。それは視点であり、性格であり、思想であり、それら全てでもある。人間が持ってはいけない悪性を、率先して持つとどうなるか? 今までの歴史で明らかだろう。進みすぎた技術。やりすぎた統制。強すぎる悪意。それらを意識的に、能力ではなく思想で広めればどうなるか? 
 他の人間も同じになる。
 それが当たり前になるのだ。
 戦争はそのわかりやすい例だろう。というのも戦争以外でも、むしろ平和な時代の方がそういう洗脳は多いのだが、見た目に現れわかりやすいのが戦争だ。人を殺し、それが当たり前になり、それが賞賛され、自分たちもそうであろうとする。 平和であったところでやり口が変わるだけだ。 人類がどう転ぼうとどうでもいいが、あまり浅慮な考えで「個性」を濁さないで欲しいものだ。濁った個性は面白味に欠ける。
 人間には「試練」が「必要」だ。善悪ではない・・・・・・しかし試練があったから成長するとは限らないし、試練に勝つ力がなければ回り道をするだけだ。試練は確かに「人間を成長」させる。いっそ「望む時に望む試練を己の意志で起こす」ことが出来ればいいのだが。困難を克服することで、成長するという仕組みそのものを支配できれば。 振り回される事も、なくなるのではないか・・・・・・まあ理想論でしかない。可能性と実現性は別なのだ。可能性なら誰にでもある。しかし、実現可能なのは最初から勝利することが約束されている連中だ。
 そういう連中の為に「試練」は存在し、そういう連中が成長し勝利する為に、私のような悪は戦い敗北する。その試練によって成長するという仕組みは既に、そういう連中の為だけに存在しているのだ。
 摂理を支配しなければ、勝てない。
 リンゴは落ちる。死者は死ぬ。最初から結末が決められているならば、結果だけを変えようとしても駄目だろう。それも含めて決まっているのだ・・・・・・リンゴは空を飛ぶモノであり、死者は蘇るモノであり、持たざる存在は勝利する。根本からこの世界の法則を変えなければ、ならないのだ。 それが可能な大きな力があれば手っ取り早いがそうも行かないだろう。そんな力があれば苦労しない。なればこそ、そちら側にいる連中を騙し、利用するのだ。
 物語は大抵「悪」を「滅ぼす」事で世界が救われ、正義が勝利する。ならばいっそ「悪を滅ぼそうとする」という行動を行えば「正義が死ぬ」という結果になるようにすればいい。正義は必ず、勝利する。当然だ。正義とは「持つ側」の別称に過ぎない。連中は必ず勝利する。その勝利が必ず私の実利になるように、行動の過程は変えられずとも、行動の結果を変えるしかない。
 過程を重んじる正義に限って、その結果は約束されている。連中の勝利は必定だ。だが、あくまでも勝利するところまでだ。連中が勝利した結果悪が栄える。そうなれば連中がどれだけ強かろうが勝利を約束されていようが、構わないのではないだろうか。
 あくまでも大雑把な仮説に過ぎないが、それしかなさそうだ。少なくとも過程は変えられない。持たざる存在が敗北するという結果、いや敗北するまでの過程は変えられない。あくまでも言葉遊びに過ぎないが、物語の売れ行きが悪くなればなるほど利益があがる。それに近い仕組みを築き上げられれば、それは「勝利」と呼べるのではないだろうか。
 売れればそれでよし。売れずとも実利があがる・・・・・・具体的には「場所」を用意することだ。私個人の利益で勝負するより、現実味がある。余裕が出来てからの遊びのつもりでいたが、まさか、それが正解なのか? 誰もが物語を、作り上げた成果を売り捌ける世界。確かに、アイデアは私で作れるだろう。しかし私の手では現実に反映できない以上、作れる奴を雇わねばならない。協力者を探しはするが、そう上手く見つかるとも思えないからだ。それとも、見つかるまでやるしかないのか。協力者を見つけ、それを実行する事が唯一の方法だとすれば・・・・・・。
 あくまでも仮説だ。検討はするが、現時点で深く考えすぎてもどうにもなるまい。とはいえ、胸には秘めておこう。それが「正解」かはわからない。いつもそうだ。明確な道が照らされる事など一度も無かった。暗闇の広野を進むと言えば聞こえはいいが、アテがないだけだ。舗装された道を進むのが一番に決まっているだろう。
 覚悟や意志の力。それは空想の概念だ。悔しかったら現実に体現してみせろ。上っ面でなければ勝利できない世界で、妄想を語られても困る。
 物語の読みすぎだ。
 漫画や小説は現実には何の力も持たないものだ・・・・・・最近の人間は実体験も伴わないくせに、そういう綺麗事を信じすぎる。当人がそう思い行動するならともかく、ただ見聞きしただけでそれを真実だと語られても、現実味がない。
 それも物語の短所か。
 どんな人間でも物語の思想を知る事は出来る、しかし知るだけだ。現実に体験し、それを行い、打ち勝つことで初めて「血肉」となる。その過程を飛ばして聞こえのよい真実だけを見ようとする・・・・・・だから成長しないのだ。
 そして成長せずとも持ってさえいればいい。私などより余程、性質の悪い世界だ。案外、この世の最悪は私などではなく、人間のそういう部分ではないだろうか。悪い部分よりも良い部分を信じたがり、持つが故に何の労力も賭けずに、生きる事の真実を欲する。自身の内に何もないくせに、聞いただけの信念を語りたがる。
 今更だがな。しかし「事実」だ。世界は理不尽で残酷で、当たり前のように殺し尽くす。そんな当たり前の事も自身が持つ側であれば気にもならないし、そうだとすれば持つ側にいる自分が寄付で世界を変えられると思い上がる。
 もし、仮にだが・・・・・・本当の意味で世界を変えるのであれば、持つ側では当然駄目だ。その資格が最初から無い。そんな奴がいるとすれば、それは「何一つ持っていないが己の意志だけで世界に匹敵し、多くの協力者を得られる存在」だろう。私はそんな面倒で忙しそうな存在には絶対に成りたくもないが、嫌なことにその資格がある。物語を広め尽くせば不可能ではないだろう。しかし、それが私の生活に、何の関係がある?
 まさか、人類社会を発展させ、人間が成長することに一役買いましためでたしめでたし。そんな下らないオチに参加しろとでも言うのか? 馬鹿馬鹿しい。それで満足し充足を得るのは、読者共だけだ。私には何の実利も無い。
 元より実利など作家業には求めるべくもないのだが、しかし御免だ。私にとって世界とは、貯金通帳の残高で計算できるモノだ。保育士じゃあるまいし、それ以外の見知らぬ人間の世界の面倒など、見てられるか。
 仮に、私の作品がそういう役割を背負わされるとして、そんなのは他で勝手にやればいい。その為に個人としては何も美味しい思いはできませんでしたとあっては、それらしい偉業に見せかけようが、ただ私が押しつけられただけではないか。 他を当たって貰いたいものだ。とはいえ、世界を変える資格があるとすれば、それは世界に興味がない事なのだ。いるとしても、私と同じように絶対に御免だと断るだろう。何事につけ資格とはそういうものだ。
 望まないからこそその資格がある。
 馬鹿げた話だ。だから人間世界で望みは叶わないのだから。作家の資格は人間が嫌いであり、作家業にあらゆる悪感情を持つ事だ。嫌々物語を書きながら、罵詈雑言を吐き捨てるからこそ作家としての資格がある。
 世界を変えるのも作品を書くのも、同じだ。
 望む通りにそこに辿り着き、手にしているからこそ勝利して、得ているからこそ言葉を述べる奴に資格など無い。それは出来るだけだ。無論、そういう奴の方が美味しい思いが出来るのだから、私はそちら側に付きたいがね。
 人間の真贋など、私には何の関係もない。
 人間でない存在に、人間の成長や人間の思想、人間の行く先など等しくどうでもいいものだ。思想も信念も誇りも矜持も信条も、眺めて楽しめればそれでいい。現実には何の力も持たないからこそ、物語で輝くのだ。むしろ、現実にそんな奴が増えれば、誰も物語など読まないだろう。
 それでは商売あがったりだからな。
 薄く、流されやすく、大した信念も持たないからこそ、ありもしない希望に満ちた物語が売れるのだ。私の物語にはそういう成分が少ないが、タイトル詐欺でも行えばいい。希望や信念、勇気や愛情、友情や勝利があれば売れるだろう。あるように見せかけるだけでも、問題あるまい。
 欲望というのは「他者に対して望む何か」だと言ってもいい。誰かを支配したい、誰かに認められたい、誰かを倒したい。「他者」という概念を最初から持たない私には縁がない話だ。だが世界にそういう「人間」の数が圧倒的に多い以上、それを利用することで、勝利に向かわなければならないのだ。
 苦しみ、痛み、そういったあれこれを無駄に終わらせるのは、嫌だ。私は我慢する為に苦しみ続けた訳ではない。勝利する為に、その為に必要なのだと耐えたのだ。敗北してしまえば、それらは全て「無駄」になる。 
 それは己の存在否定だ。他でもないこの「私」がそんな行動を容認する筈がない。私は、私の為に、私の勝利を求めるのだ。
 人間らしい幸福など、後付けで構わない。元より私には必要ないものだ。必要ないからと、切り捨てられてしまうものだ。敗北するべくして、最初から決めつけられた運命がある。それが人間らしさだと言うならば、全て叩き斬るまでだ。
 
 私は強さも弱さも併せ持たないゼロだ。
 
 文字通り何も無い。何一つ、持たざるが故の何かすら、私には無いのだ。ゼロにはなにをかけてもゼロにしかならないかもしれない。しかし、私は「仕方ない」という言葉が嫌いだ。どうにもなりはしない理不尽は幾らでもある。だからといって諦めろというのか? ふざけるな。配られたカードそのものはどうでもいい。だからこそ、そのカードで勝てなければ嘘だ。嘘をつくのはいいがつかれるのは嫌いだ。少なくとも、生きる事に嘘をつくなど御免被る。
 生まれながらの化け物で強さも弱さも併せ持たず、何一つ恵まれず何一つ持ち得ず、何一つ共感しない、文字通りの「化け物」だ。それはどうでもいい。どうでもいいと切り捨てられるあたり、私はどの道そうなるだろうしな、そこに実利さえあればいい。だからそれだけなのだ。
 そもそも、私という「概念」そのものが、既に化け物でなくては出来ない在り方だ。ならばこそ私は探さなければならない。何一つ持たざる存在が勝利する方法を、探し出さねば勝利は無い。そこに至るまでの道のりが勝利だとほざく奴もいるが、私はそうは思わない。
 読者共が私の在り方から何かを学んだとして、だから何だ。それがどれだけ評価されようが、私には何の関係もない。何より、そういったモノは弱さによる強さではないか。「実利」も「真実」も私には無縁だからこそ、こうしているのだ。評価もされず実利も得られず。どちらも得ていないというのに、綺麗事など聞く価値もない。
 決まって、実利を得ずとも満たされていて、真実を手にして自己満足している輩の言葉だ。余裕のある凡骨の話など、どうでもいい。言葉に力や重さがあるとは思わない。しかし、役に立たない理想や妄想など、聞く価値はない。
 勝利して初めて、示す力がある。何であれ同じだ・・・・・・成功し勝利しているから、もっともらしい言葉を吐き、人生について悟ったような言葉を並べ、自身が如何に正しいか、努力したり信念があったからこそ成功したのだと。当人がそうお思い込みたいだけでしかないが、それが「真実」だと思いこむ。
 その方が「都合が良い」からだ。
 己の歩いてきた道のりが正しかったから、己がやり遂げたから、己が信念を通したから勝利した・・・・・・その方が己を肯定しやすい。幸運に恵まれたとか才能があったからとか、そんな現実を認めるよりも後付けの信念を誇らしく思えば、まるで己が素晴らしい人間であるかのように錯覚する。 実際、いるのだろうか? 成功や勝利する前から「信念」だの「誇り」だの「思想」だのを持つ人間が。私自身物語に対する自負はあるが、別に嬉しくもない。持ったところで勝利出来なければ無いも同然だ。読者共がそれを伝えそれを学び、それを後生に伝えられる程「成長」するのは、人類史が後五百回は繰り返されなければ、出発地点にすら届かないだろう。
 それなら誰も苦労しない。少なくとも、作家は苦労しないだろう。
 信念を持ち続ける事が「美徳」であり、それを持ち続け勝利出来ずとも貫く事が「本当の意味での勝利」だと、下らない。何度も言うが、そんな綺麗事は観客の言葉だ。実際にやってから言えという話だ。その理屈で行けば、真の勝利者は絶対に日の目を見ないではないか。
 冗談じゃない。
 薄っぺらい成功。浅はかな勝利。中身の無い信念に、嘘八百の成長。いいではないか。誇りよりも団子だ。実際、社会を回すのも社会を支配するのも、あるいは他者に偉そうな威厳を振りまく立場にある全ては、そういう奴らではないか。
 肩書きに見合う仕事をする奴など、物語の中でしか見た試しが無い。義務はあり責任はある。しかしそれを果たさずとも、持っていれば許される・・・・・・そんな連中に張り合う義理はない。無駄な労力は避けるべきだ。
 人間は過程における信念だのに充足感を覚えるのかもしれないが、私にはそれはない。作家業にしろ本当の意味で充足など感じない。充足しているという体で進めているだけだ。そして、私はそれで満足できる「存在」だ。
 そう「存在」だ。「人間」ではあるまい。そして「生物」とも呼べないだろう。何せ、心を持たずにそれを「良し」と笑う存在がいるとすれば、それは生物としての在り方を否定している。文字通り存在そのものが悪。生まれついての存在悪こそが「私」なのだ。
 善悪と言うよりも、摂理の在り方に反しているからこそ「悪」なのだ。摂理に反する時点で、敗北し淘汰される運命にある。故に、私は否応に関わらず「摂理」に「勝利」しなければならない。物理法則よりも「上」にある存在だ。運命とも、違うかもしれない。あるいは、運命を含むもっと大きな何かを、そう呼ぶのだろう。
 いずれにせよ摂理に反する存在である私は、本来この世界にいるべきではない存在悪だ。存在しようとするだけでエネルギーが必要になる。ガン細胞を治癒しようとするように、水に落とされた油が弾かれるように、拒絶される。だからこそ、その拒絶するという反応を書き換えねばならないのだ・・・・・・ガン細胞と「同化」する。水の中に入れた油が「同化」するように。根本から世界の法則を書き換えでもしなければ、勝ち目は無い。
 降りかかる試練も同じだ。試練をこちらの任意で起こせるようになれば、敵を味方にするのではなく、状況そのものを支配できるようになれば、極論勝利する必要すらない。全ての実利はこちら側にある。
 人間社会では良く見られる現象だ。
 仕組みを支配する側にいれば、法則すら思いのままだ。人道に反しようが他者を食い物にしようが、そいつらの状況すら思いのままになる。勝利しようが敗北しようが同じ事だ。何せ、彼らの行動は全てこちらの意図に起こるのだ。意図的に全てを操作できるのであれば、彼らが反旗を翻そうが逃げようが死のうが、同じではないか。
 そして、それが現実だ。意識的に他者を苦しめ殺し奪い搾取し尊厳を踏みにじる。だからこそ、人間は幸福を掴め勝利し豊かさを得られるのだ。 何とかして私も「そちら側」に渡りたいが、持って生まれた幸運によって決まる立ち位置に、外から向かうのは難しい。だが、逆に言えば人生における勝利者の条件など「それだけ」だ。労力や信念や誇りなど、何の関係もない。全ては持つか持たざるかによって決まるのだから。
 そうなればこちらのものだ。元より生きる事に意味も価値もありはしない。問題はそれを自認しながら己の充足に出来るかだ。私とは何の関係もない大勢の人間の涙で私の生活が豊かになったところで、そこに「裁き」だの「因果」だのはただの妄想だ。人を幾ら殺そうが、どれだけ食い物にしようが、苦しめようが罰など無い。あるものか・・・・・・そんなモノがあるなら、そもそも罰を与える事よりも、そんな連中が増えないように、持つ持たざるで世界の勝利者を決めなければいいではないか。それに、「神」だの「悪魔」だのがいたとしても、やはり「同じ」だ。
 持って生まれた能力に、溺れているだけだ。
 ある意味究極の持つ側だと言える。圧制者の姿がそれらしくなるだけで、本質は何も変わりはしない。暴力や権力、肩書きや地位、そういったあれこれで誰かに何かを押しつければ、それは他者を殺して己の意志を反映させる事と、何一つ変わりはしないのだ。「神」がいるとして、その事実を自覚する気がないだけの、遊び人でしかない。 遊び人の気まぐれで、罰が下るならば、元よりどうしようもない。過ぎた暴力で頭を押しつけられるようなものだ 
 本当の意味で何かを通し、それによって世界を変えたいならば、それは「言葉のみ」で行わなければならない。物理的な何かに頼っている時点で殺し尽くす事を前提に圧制を敷くのと、何も変わらないからだ。
 しかし、言葉を誰よりも使いこなさなければならない「作家」だからこそ分かる。今更言うまでもないが、「言葉」に「力」などあるものか。
 馬鹿馬鹿しい。
 そんなのはただの妄想だ。
 言葉とは「意志」や「信念」あるいは「思想」と読める存在だが、しかし現実問題、人間の世界が言葉だけで動いた事など、一度としてありはしない。どんな思想にも戦争や暴力は付きまとう。結局の所、人類は一度として「言葉だけで何かを他者に伝えることで、他者の意志を変える」ということを、行えていないのだ。
 必ず、暴力とセットになる。
 意志は押しつける為にある。浸透し意志が反映され、何かが変わると思ったか? 馬鹿馬鹿しい・・・・・・それらしい思想に、流されているだけだ。宗教もそうだが、すがることは数あれど、それを後生に活かし意志を伝えそれが後々の未来を変えることなど、一度としてありはしない。
 物語の中だけだ。
 そんなのは金に余裕がある時でいい。妄想と、現実を混同するべきではないのだ。無意味で無価値で理不尽で、何の因果もなく大した理由もないのに、持つか持たざるかで全てが決まる。それが現実だ。少なくとも、その現実から目を逸らしている奴が、何かを変えられるとは思えない。
 そんな奴が変えるべきでもあるまい。
 理不尽を変える資格があるのは、理不尽を知る奴でなければならない。理不尽と戦った事も無い奴が、理不尽はあまり良いモノではないから、それが良い行動だから変えよう、と思い立つ。吐き気を催す話だ。貧困を体験した事も無い奴が、寄付や団体行動で世界を変えると言い張るようなものだ。考えてみればおかしなことだ。
 持つ側は全てを持っている。
 しかし、「変える権利」だけはない。
 ま、実現するかも怪しい権利よりも、目先の金の方が私は欲しいがね。そんなモノに憧れるのは何かを変える苦しみや困難を知らないだけだ。それこそ物語の中でしかそれらを知らない人間が、正しそうで良さそうだからと、憧れるだけだ。
 世界を変える。これほど聞こえが良いくせに、これほど面倒な困難があるだろうか。そんなのは誰か、昔にいた偉人が知らぬ間にやり終えてくれていた、というのが一番嬉しい。少なくとも率先してやるべきではないし、率先してやろうとする奴にその資格はない。
 嫌々やらせる面倒事だ。
 最も望まない存在こそが、そこに到達する。考えたくもないが、もしそうだとしたら・・・・・・まだ決まった訳でもないだろう。だが、それは私の目的とは相反するものだ。もしそんな事をしてしまえば、私の生活は脅かされる。「目立つ」という事は「その他大勢のカス共」に存在を知られてしまうということだ。有名人などわかりやすいが、彼らに安眠出来る日はない。私は豊かさがあればそれでいいのだ。
 「ささやかなストレスすら許さない平穏なる生活を、充足して送る」上で、そこそこの売り上げを意図的にあげる。豊かさは必要だが、必要なだけで私は豊かさに何かを感じている訳ではないのだ。札束が必要以上にあったところで、金があるという満足感はあるが、別に部屋に置いて飾ればいい香りがする訳ではあるまい。
 金による豊かさ。それによる充足。金で幸福を肯定するという在り方だ。使いきれない金があるのもいいが、別に目立ちたい訳ではないし、誰かに認められたい筈もない。人間でない私にとって人間社会がどうあるかなど、どうでもいい。
 無論、使いきれない金というのも、人間の肯定する幸福の一つではある。取材の一環としても、面白そうではある。欲しいものなど平穏と充足とそれなり豊かさ以外には何も無いが、過ぎた豊かさというのも一つの娯楽だ。人間を真似するのが私の趣味でもある以上、人間が過ぎた豊かさに対して何を思うのか、追体験するのも面白い。
 検討しておくとしよう。
 「生きる目的」が「人間の幸福」であるとしても、それがガソリンのように心を燃やし充足を得るのだとしても、だ。心の無い私には元より無縁な話の上、「己を燃やす事」に主眼を置くだけでは、本末転倒ではないか。目的地にたどり着くという本来の目的と、手段と目的が入れ替わってしまっては、それは己を燃やしているのではなく、ただ進んでいないだけだ。
 進めなければならない。
 己を進め、その先に辿り着く。辿り着かずに、己を燃やして充足を得たいだけなら、金を支払って遊びにでも行けばいい。人間というのは綺麗事が好き過ぎる。物事の「過程」に「尊さ」みたいな何かを求めるのは勝手だが、しかしそれとこれとは関係ない。辿り着く気がない奴に、過程の尊さを語る資格はない。
 あくまでも「結果」だ。
 物事の過程に慰めを求めるのは勝手だが、結果を得られなければ敗者という「事実」から、目を背けられても困る。実利を得られて勝利してこそ意義があるのだ。過程は尊かったし結果に辿り着けなかったが、それはそれで「勝利」だ、などと・・・・・・負け犬の戯れ言だ。
 負けたという事実を見据えられないだけだ。
 どこまで行っても「実利」なのだ。成果をあげられなければ全ては無駄だ。そこから目を背ける奴に資格などない。あらゆる意味でないだろう。何を成し遂げるにしても、敗北すれば全てが無駄に終わるという、敗者の真実を見据えなければ、戦う資格など無いからだ。
 信念も思想も関係ない。最後に立っていられるかだ。そして、肝心なのは勝利し、実利を得た上で初めて生きる権利がある。勝利できなければ、どこでもそうだが・・・・・・生きる「権利」をそも、獲得できないのだ。
 人間社会で「持たざる存在」に必要性などあるだろうか? 無い。何一つ必要ない存在だ。善意だの倫理観だの「持つ側」が「己の自己満足を満たしたいが故」に「救済」という名前で聖者の真似事をしたがるだけで、現実問題、人間の世界で何かを持たなければ、あるいは奪わなければ・・・・・・権利がそもそも存在しない。
 「生きる権利」は有限なのだ。
 誰かが生きる為には誰かが死ななければならない。「食事」「富」「異性」「家」「利便性」は全て有限だ。誰かがその為に己を殺し、労働に身をやつすからこそ、それを受けられる顧客が存在する。「奴隷」がいるから「社会」は回るのだ。 奴隷の形や呼び方は様々だが、持たざる存在には生きる権利など無い以上、自然そうなる。豊かさを求めるなら当然だろう。その豊かさを回す為に労働力は必要だ。そして、労働環境が悪ければ悪いほど、奴隷であればあるほどその品質は良いモノになる。
 苦しめれば苦しめるほど、理想が手に入る。
 そして、彼らに逆らう力などないし、虐げたところで罰などありはしない。皆それを知っているからこそ、持っていれば堂々と行える。むしろ、人間社会で積極的に他者を苦しめない奴が、生き残れるとは思えない。他者を苦しめ搾り取り、その汁を啜るのが人間社会だ。心の無い私でも知っている。人間は己以外が苦しむ時に、その魂を輝かせ、何にも代え難い充足と幸福を得るのだ。
 それが「事実」だ。目を背けるな。
 迷惑だ。
 精々合わせてやるとしよう。こちらとしては、人間が己に向き合わず滅びようがどうしようが、どうでもいい。この「私」の為にせこせこ文化を作り上げ、娯楽を提供し充足を用意すればいい。だいたいがもし「本当の意味での成長」を人間が成し遂げれば、物語を通して成長した気分になる必要性が無くなってしまう。完全な人間など有り得ないが、もしそれを実現するなら、物語は勿論あらゆる人間の文化は不要だ。
 そんな事は有り得ないがな。
 成長しないからこその「人間」だ。
 心がある限り不可能だろう。そして、心を捨てた奴を最早人間とは呼ぶまい。青いバラは腎臓なら出来るかもしれないが、自然には出来上がらないし、それはもう自然の在り方ではない。
 そういうものだ。
 そして、ある意味青いバラ、というより化け物として存在する私にとって、心を持たない私にとって「最大の敵」とは、人間の心が作り出す小汚い綺麗事。「人間性の善なる全て」が私にとって敵対者なのだ。
 最悪である私にとって相応しい相手とも言えるだろう。いずれにせよ、小汚い綺麗事が私の前に立ち塞がり「障害」となるならば、まとめて切り捨ててやる。幾らでも、だ。文字通り無限に殺し続ける。言葉の力だの精神の有り様だの、そういったあれこれは全て、私にとっては滅ぼす為に、存在する。
 その役割を果たすだけだ。
 私は語り手に過ぎないが、所謂その「主人公」という連中や持つ側の連中にとって、道中の苦戦や苦難も含めて、最初から勝利する事が約束されている。どれだけ敵が現れようが、そこにどんな障害があろうが、全ては彼らが勝利する為に用意されている駒なのだ。
 しかし「その役割を奪う」など出来るのだろうか? いや、しなくてはならない。そうでもしなければ私は永遠に進めない。物語において悪が、主人公に勝利する事は稀だ。何故なら、物語とはそも「主人公達の為に存在する舗装された道」なのだ。だからこそ、彼らは勝利する。
 最初から最後まで、舗装されて勝利は約束されている。その「道ごと」奪えれば、文字通り全てを乗っ取る事が出来るのではないか。栄光の道だ・・・・・・何をしようがどうしようが、正義という名の下にどれだけ殺そうが全て、正当化される。
 素晴らしく楽で、それらしい苦難があらかじめ用意されて、勝利が確約された戦いの中で充足を得られる、最高の舞台だ。
 方策はまだ決まっていないが、目的地は決まっている。持っているだけのカス共を下し、何としてでも「勝利」する。全てはそれからだ。
 己を奮い立たせている訳ではない。そんな必要はないのだ・・・・・・ただ上から降ってくる幸運を下を出すだけで舐められる連中と違い、ありもしない勝利を求めて暗い世界をさまよいながら、いつ辿り着くかも分からない道を進み続けてきた私にとって、未来とは元よりそういうものだ。このままでは敗北が決まってしまう。それを覆すことは世界の法則でも変えなければ不可能だ。つまり、いつもの事だ。
 日常にいちいち驚いていられるか。
 何にしろ「邪魔者は殺すか従える」というのが私のスタンスだ。それが神であろうが悪魔であろうが、摂理そのものであれ関係ない。全て同じ事だからだ。邪魔者を殺すだけなら簡単だ。それを実行するかは別問題としても、ただ他者を殺すだけなら子供でも、尖った何かで目玉でも抉れば、殺せるだろう。
 しかし、無限に沸いてくる邪魔者と、毎度戦う訳にも行くまい。邪魔者を一人づつ従えるのも、やはり効率が悪い。「邪魔者が沸いて出る」という法則そのものを支配しなければ。あるいは状況そのものを利用するのだ。
 私は昔苛められっ子だった。今から思えば人間の姿をした奴が紛れているのだからある種当たり前という気もするが、その際片っ端から邪魔者を叩き潰しても、効果は得られなかった。うじうじとした陰湿なやり口にかわるだけだ。仕方ないから殺してしまおうかと思った事も無論ある。いや実行しかけた。たまたま手が止まったからいいようなものの、いや、まあ子供同士での争いなら、「合法」だろう。少なくとも法的に問題がなければ、私は今でも平然と殺すだろう。相手が社会のゴミであれば、誰も騒がないだろうしな。
 話がそれたが、つまり「邪魔者」とはそいつ自身の意志で動いている訳ではないのだ。そいつは所詮流されているだけで、殺されそうになっても状況を飲み込めない奴でしかない。実際に殺しかけた私が言うのだから、間違いないだろう。
 いじめをなくそうなどと言う教師もいるらしいが、逆だ。個人ではどうにもならない。それが起こり得る状況を改善しなくては。物語の売り上げも苛め問題も似たようなモノだ。実際、そういう「仕組みの側」の問題だ。
 私のように相手の頭をトマトケチャップにしようと思い立ったところで、それもやはり(今にして思えば、その止められるという状況も含めて、なのかもしれない)仕組みの内側でしかない。つまり、こういうことだ。
 己の為にそいつらが涙しても、苦しめば苦しむ程、こちらの「利益」になるように仕向ける。
 苛めなら動画にでも取って流せばいいだけだが・・・・・・どうしたものか。物語が、持たざる存在の成果が必ず「利益」になるようにする。子供の世界であれば広めるだけで後は周りが勝手にやってくれる。実際私もそうした。私個人は情報を流すだけで、周囲が勝手に追いつめ、社会的に破滅させてくれる。実に楽だった。
 物語も同じだろう。
 しかし、物語は近所の人間に流すだけでは売り上げに繋がらない。というか、私は覆面作家でいたいのだ。私個人を特定させず、利益を出したい・・・・・・となると、デジタルコンテンツを利用するしか、ない訳だ。だが、私は普通の人間に出来ないことは呼吸をするようにやってのけるが、人間の中でも持っている連中が得意とするような、技術や能力差に基づく行為は、出来ない。
 人を殺したり追いつめて破滅させたり、それは結局のところ「実行する」かどうかであって、意識に何のブレーキもないから私には出来るだけなのだ。しかし能力差は純然たる差だ。人間がやることに精神的なブレーキ(私からすれば理解に苦しむが)をかける、倫理観や道徳、心に反する事はどうにでもなるが、物理的な壁を越えることは出来ない。
 それが出来れば苦労しない。
 実際、それが出来れば私に敵などありはしなかっただろう。天は与えてはならないモノは、きっちり与えなかった訳だ。私の場合、与える与えないというよりも、ただ単に作った事すら忘れられただけの気もするが。
 やはり「手足」だ。いや、この場合「協力者」と呼ばなければならないだろう。本心で敵対されては、どんな有力な手足も意味を成さない。そんな奴がいるのかしらないが、どう検討したところで探すしかなさそうだ。
 やれやれ、参った。結局はそこに戻るのか。
 今回の依頼も学ぶことはあったが、それが実利に繋がらなければ同じ事だ。ぐるぐる回りながら成長しているからと言われたところで、成長が金に繋がらなければ、そんな成長に価値はない。
 何とかしなければ・・・・・・何人殺してでも。私は幽霊の刀を強く握りしめ、意識的に他者の苦しみを糧にする心構えを、無駄とは知りつつ固めるのだった。 
 
 
 
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 「物事」とは「当事者」であればあるほど、見えなくなるものだ。主観に偏るからだろう。どうしたところで俯瞰して見ることはない。何せ、己の事なのだ。己の出来事を、俯瞰して見るなど、出来る筈もない。他でもない己に関わるのだから・・・・・・しかし、あるのだろうか?
 私が理解していないだけで、全てが上手く運んでいる、という「可能性」だ。可能性。あくまでも可能性に過ぎない。私が上手く運んでいないと考えているだけで、既に全ては終わっているとしたら・・・・・・何をせずとも、それこそ「運命」に、従って・・・・・・勝利するべくして勝利する可能性。 まるで確信はないが。
 「未来」を「信じない」というのは、私個人の在り方と言うよりも、今までの経験則だ。今まで散々やったことに対して成果が支払われず、意味不明な理不尽の為に労力を使い、全てが無駄に終わると知りながらも変えようとした。その結果、予定調和と言えるくらい労力は水泡に帰し、未来どころか足下すら信じるに足らないと考えた。
 今まで、信じるに足らなかった世界が、明日から急に綺麗事を並べ立て、それが「正しい」から信じろと強制されれば、そんな寝言を信じる奴は絶対にいないだろう。私であれば尚更だ。世界は信じるに値しないし、未来に価値などない。あるのは持てば勝利し持たざる存在は敗北する。そのわかりやすい最初から決められた勝敗だ。
 持たざる時点で、負けている。
 最初から敗北する事を強制され、それを変えようとする所から「持たざる者」の人生は始まるものだ。そして、それを変えようがないと知るのはそう時間がかからない。子供心ながらに自我が目覚め他者と関わり始めれば、誰だって気付く。
 人間は平等ではない。
 持っていれば勝利し、持たなければ敗北する。 努力だの信念だので誤魔化し続けた結果がこれだ・・・・・・さらに能力差による格差は広がった。誰もが無駄だと知っている。人間は皆、持たなければ何をしても無駄だという「現実」から目を逸らし、死ぬまで現実から目を逸らす為だけに倫理や道徳を信じるのだ。
 倫理や道徳はその為にある麻薬だ。
 現実を誤魔化す、という点では「同じ」だろう・・・・・・実際、倫理や道徳が何だというのか。世界の勝利者は誰も守らない規則など、奴隷の為にある手錠に等しい。人を殺した方が幸せになれるのが「現実」だ。その現実を見据えもせず綺麗事を並べるだけというのは、現実から目を逸らしているだけなのだ。実に下らない。
 才能、幸運、富や権力。数の暴力に他者を居s違える為の兵器。建前として使える法律。上っ面だけの力の数々。それが「全て」だ。上っ面の力に勝利出来るモノなど、無い。そうあって欲しいと現実逃避しているだけだ。実際、そういう連中が散々信仰している神も同じだ。正しいから神なのではない。神だと押し通せるから神なのだ。
 あの世の連中を皆殺しにするか暴力で従わせれば、誰でも神になれる。肩書きの違いでしかないのだ。崇高な存在かどうかはどうでもいい。会社の社長と同じだ。認められるからそこに立つのではない。認めさせる能力があるから、そこに立っているだけだ。
 格差を否定する連中が、誰より能力によって上に立っているだけの存在を崇めるとは、笑えない冗談だ。神がいるかは知らないしどうでもいいが・・・・・・完全な正しさなど有り得ない。人間の為政者と何ら変わらないのだ。むしろ、神の逸話の方が争いや内輪もめに溢れているではないか。猛進的に崇めるのは正しいからでも、それを信仰しているからでも、そう在ろうとしているからでも、無い。ただそれが「都合が良い」からだ。完全な存在があるとして、それを崇めていれば正しく在るのだと、そう思い込める。いわば思考放棄する為の道具だ。
 そして、それを自覚したくもない。
 楽で羨ましい。私もそんな楽な生き方で適当に信念だと思い込み、自分はやり遂げたという錯覚を覚えながら、何一つ成し遂げず苦悩せずとも、自己満足に浸りながら「良い人間として一生を過ごせた。悔いはない」と盲信し、薄っぺらい家族の絆を築いたと思い込みながら、信念という機軸も思想という行いの結果も無縁なままで、それでも、もって生まれた何かに依存しながら手を抜いて人生を終えたかった。
 その方が楽ではないか。
 それで「天国」に行けるなら尚更だろう。もし天国に行けないなら、大抵の人間は地獄に堕ちているのではないだろうか。それらしく適当に振る舞っていれば行けるのだから、正直わざわざ人生で苦悩したり成長したりする必要性など、どこにもないではないか。物語に成長の軌跡を書いたとして、だから何なのだ。
 そういったあれこれを「素晴らしい人間賛歌」だと思い込み、勝手に賞賛するのは勝手だ。だが当然、やる側はたまったものではない。眺める側の都合でしかないのだ、そんなのは・・・・・・眺めているだけだからこそ、楽しめるのだ。
 素晴らしいと賞賛できる。
 現実に成長したから、だから何だ。確かに、私は「作家」として成長したかもしれない。しかしそれだけだ。私個人の成長と、世界の変化は何の関係性もない。まして、それで私の生活が良くなることなど、有り得ない。
 どうでもいい些末事なのだ。人間は成長するから価値がある、などと・・・・・・成長などに気を配る「余裕」があるから出る台詞だ。他にやることが無い暇人だから「成長するのは良い事だ」と、それも「成長したという実感」を求めて、何も成長せずにそれを追い求める。
 それでいて、そういう連中は持っている。
 
 
 

 それも、あまねく全てをだ・・・・・・成長などを求める時点で、どれだけ満たされているかは想像に難くない。人間は満たされているからこそ綺麗事を志し、満たされているからこそ道徳に従い貧者を救おうとし、満たされているからこそ世界を変えうる能力を持つのだ。
 持たざる者が未だかつて、世界を変えたところなどあったか?
 無い。ある筈が無い。意志や信念で世界が変われば苦労しない。現実に金があるか権力を動かせるか、暴力で事を治められるかだ。思想や信念で世界が変わるというのは、麻薬にも等しい現実を誤魔化す為の行為でしかないのだ。
 麻薬の方がまだマシだろう。
 リハビリすれば治るのだからな。現実から目を背け盲信する在り方は、死んでも治らない。死後の世界があったとして、何も成長しないままその在り方を肯定するのだ。それが天国だと言うなら・・・・・・現実逃避する場所こそ天国と呼べる。
 道徳や倫理に浸って現実を見据えようともせず妄想に浸るのが天国か。想像するだけで鬱陶しいが、それで楽が出来るならそれもありか。いや、私には縁の無い話だろうが。あの世でも私の在り方は変わらないだろう。物語を書く場所がこの世からあの世に変わるだけだ。
 呼び方が変わるだけで、何も変わらない。
 そんなものだ。
 根拠も無く「己を信じる」のはいい。やることをやったなら他に出来る事はないからだ。しかし未来を信じるのは違う。信じるのは己自身であって未来や世界はそれにきちんと答えられるほど、しっかりしていない。そういった部分が未熟だからこそ、世界は上手く回らないのだ。
 生きる、とはやるべきこともやらずに手を抜いた世界で、こちらが示さなければならない義務を負う必要がある。世界は適当に作られているのだ・・・・・・人間が思うほど、いや、信じたがる程まともに回ってはいない。回す能力がある奴はいるかもしれないが、そんな奴が真面目に仕事をしていれば、こうはならないだろう。
 信念を貫き通す事と、勝利や幸福は何の因果関係にもない。むしろ、それだけで勝利し幸福になれれば、楽で仕方ないだろう。難しいのは信念を貫く事ではなく、信念を現実に反映させる事だ。信念単体では、ただの妄想に過ぎない。
 美しさや正しさとは、ただのそれだけだ。現実に何かあるわけじゃない。皆がそれが聞こえが良くて都合が良いからと、よく使われるだけだ。
 この世の「真実」は私にとって「敵」なのだ。真実に従えば滅ぶしかない。真実を打ち倒し、真実を克服し、真実を越える。世界在り方が私を否定するなら、その在り方を否定し倒しきらなければならないのだ。私という「生まれついての存在悪」にとって「残された唯一の道」と言える。
 何とかしなくては・・・・・・現実問題何か方法が見えている訳でもないが、しかしやるしかない。協力者にしろ私が生きる為には必要だ。
 運命も真実も、克服してやるしかない。正しい在り方こそ私の滅ぼす相手だ。正しくない私にとってそれが最大の目的だ。
 力が足りない。そいつらを討ち滅ぼすに必要な力が。「協力者」が手がかりをひっさげてくれればいいのだが。協力者の存在はあくまで手段だ。いるから全てが解決するのではない。その方法を手に入れる道標なのだ。手段があるだけでは駄目だ。結果的に「辿り着く」こそが私の目的なのだからな。
 平凡な家庭に生まれ平凡な階級に育ち、平凡な世界で平凡な環境に恵まれ、平凡な人間に生まれたのが私だ。しかし、私は昔から、いや最初から人間をやめていた。何故かは知らないし、どうでもいいことだ。あるいは、私は他の人間とは違うところから来たのかもしれない。少なくとも人間が向かう天国に、私の居場所は無さそうだ。まあどうでもいい。それはそれで構わない。しかし、何者であれ「社会に折り合い」を付けなければならない。ただ社会に反抗して暴力を振りかざすだけでは二流の悪だ。そんなのは「持っていれば」だが、誰にでも出来る。
 殺人鬼であれ同じ事だ。元より私の視点では、人間など皆そんなものだ。人類皆殺人鬼。冗談ではなく、ただの事実だ。それが人間の性であり、その上で「幸福」を己なりに定義して、仕事という形で社会に示しながら充足して生きる。
 全ては自己満足に過ぎないが、構うまい。私には人間の感性など無いのだ。それを充足という体ですることに、何の抵抗も無い。そんなのは人間の在り方ではないという声も聞こえるが、私は人間ではないのだ。人間の在り方など知るか。
 押しつけるな。
 迷惑だ。
 今まで散々化け物として生きてきた私に、人間らしさを押しつけられたところで、押しつける側の自己満足に過ぎないではないか。あの女もそうだが、それを理解しようとしていないのではないだろうか。人間には真の幸福があるかもしれない・・・・・・だが私には無いのだ。それを手にするのであれば、もうそれは「私」ではない。
 別の誰かだ。
 そんなのは、御免だ。
 己を消すのだけは御免だ。全ては自己満足かもしれないが、何が幸福かは私が決める。それが、この世界の真実だったとして、押しつけられてたまるか。
 それが「私」だ。
 とはいえ、私の意志が結果に関与した事など、一度も無い。私の意志と関係なく結果が決まるのだから、私に出来るのは流される事だけだ。精々協力者に運良く(それも出来れば苦労しないが」会えるか、結末が良い何かであることを「祈る」他に、出来る事など何も無い。正直、さっさと諦めるべきなのだが、私にはそれが出来ない。
 諦められないだけで、出来る事が無いのは同じだ。別に、諦めようが諦めまいが結果は決められるものだ。己の意志で変えられるなら、私はとうに物語を金に換えている。「天」などあるのかという気もするが、それの「気分次第」だろう。
 だから「物語」には何の力も価値もないのだ。意味はあるかもしれないが、それだけだ。元より決まっている結末を変えずに、そこに向かう物語しか書けない以上、先が見えずとも結末が決められている我々が物語から学べる事はあれど、それによって「変えられる事」は何も無い。
 どうしようが、同じだ。
 過程は問題ではない。現実には「負けるから、負ける」のだ。「勝利出来るから勝利する」と、言い換えてもいい。物事の過程に意味を見いだしたがるのは、そうであれば都合が良いだけだ。本当の意味で過程から何かを見いだすのであれば、そこには絶対に「結果」は伴わない。個人として経験する事はあれど、誰かが伝える事は元より、有り得ないのだ。
 無駄で無意味で無価値だ。
 最初から決められている。いや、意味だけはあるのだったか。それも同じだ。意味があったとして、だから何だ。意味がある事に満足したいだけならば、趣味の範疇でやればいい。私からすればそんな「意味」など、無いも同然のモノだが。
 一代限りの「意味」など何にもならない。文字通り何にも、だ。それが後生に伝わり後々に変革をもたらすなら何か価値はあろうが、しかし人間社会でそんな事は有り得ない。そも「商品」とは価値がないから売れるのだ。中身がないからこそ利益を上げ、カス同然だからこそ流行に乗る。
 燃える分カスの方が価値はありそうなものだ。しかし、それが「事実」だ。並ぶ物語を見れば、わかりそうなものだ。十年、百年、先年先に、伝えられる物語が、幾つある?
 そんな物語は書店に並ばない。売れないからだ・・・・・・食品でも衣服でも同じだ。真に健康を考えるなら、食事の量など最低限でいい。だが消費者が望むのは「美味しい食べ物」だ。例え食べる事であからさまに健康に悪くても、あるいは健康に良さそうだと聞くだけで、食品を購入する。
 衣服もそうだ。毎日同じ服だけを着る奴など、そうはいまい。いわば「見栄」だからだ。他者に己を実際よりも良く魅せたい。それが衣服の本質であり、魅せられれば中身などどうでもいい。見た目で選ぶのは基本だ。人が人を選ぶ時、見た目で選ぶなど当たり前だろう。
 誰だって美形がいい。例え後から暴力事件を起こすような奴だとしても、見た目に騙されるのではなく、見た目に騙されたがる。これは見た通り知っている通りに物事が運んで欲しいという心の現れだ。つまり生きる事を真面目に捉えず甘ったれているだけだが、成功者とは得てしてそういう連中だろう?
 苦難の道を歩むからでも、理不尽を克服したからでも、成長したからでもない。成功者とは、言ってしまえば「空から降ってきた幸運」を、馬鹿丸出しで口を開けているだけで手にした連中の事だ・・・・・・それが「事実」だ。己に正当性もどきを求めることでそういった「過程における何か」を成功者が求めたがるのは、自身の内側には何も無いという「事実」を知っているからだろう。考えてもみろ、本当に己の意志でやり遂げたなら、わざわざ寄付をして「私は社会に対して貢献している善良で素晴らしい人間ですよ」と宣伝する必要など、無いだろう。その他大勢のカス共が何を口にしようが、やり遂げてもいないカス共の事など気にもなるまい。幾らカスみたいでも、出来るのは精々騒ぐだけで、私の部屋を汚す事も無い。
 金があるならともかく、そういう連中には行動力がないから落ちぶれている訳だしな。それこそどうでもいい。何か出来るなら見せて欲しい位だ・・・・・・それが無理だからカスなのだろうが。凡俗のカス共に、気配りをする時点で「私はただ恵まれただけのカスです」と自白するようなものだ。 過ぎた富を手にした連中に多い。
 個人の意志でどうにかなるレベルを超えているからだろう。無論、そういう人間も確かにいる、いやいたのだ。しかし、大昔の英雄ではあるまいし、現代のデジタル社会で成功した貧弱な人間にそんな「相応しい器」など無い。器が無くとも、大勢の人間を動かせ、中身が無くとも響き、薄っぺらだからこそ勝利する。
 そんな奴らが「成長」だの「信念」だのを求めるというのは、贅沢な話だ。そもそも連中が求めるのは成長や信念ではなく、それを得る為に自身はやり遂げたと思い込む為の、「成長した証」だからだ。信念がこうなのだと誰かに理解されたいから信念を欲する。成長も信念も言ってしまえば過程に輝くモノだ。それを結果だけ欲しがり、あまつさえそれを世界が認める。そんな世界で物事の本質ほど、どうでもいいゴミはあるまい。
 ゴミより実利だ。だから私は金が欲しい。
 どうでもいいゴミを抱えて生きるよりも、カス共を金で動かし実利を貪る方が、豊かなのは間違いない。精神的な豊かさなど、持つ側が暇を持て余して見るただの妄想だ。妄想なら物語に見ればいい。現実には金だ。
 金以外の「大切」など、当人の思いこみであり妄想なのだ。健康も平和も勝利も、人間社会である以上、金でどうにかなる。「金よりも大切なモノがある」というのは一種の「逃げ」だ。金の有用性を認めずに、綺麗事に逃げるだけ。金を認めずに何かに対して「崇高さ」を求めるのは、現実において金が持つ有用性を利用せずに、綺麗事を押し通そうとしているのだ。
 どんな信念であれ、金無しに語るのは間違いだ・・・・・・本当に金もいらない信念だけあればそれでいいと言うなら、そのまま飢えて死ね。そして、飢えて死んだ奴の信念など、誰一人として聞き入れはしないだろう。
 それが「事実」だ。
 所謂「本物の凄み」など見た試しがない。浅い怒りに浅い信念。浅い振る舞いの人間こそ、権威や立場でモノを言う。心の底から震え上がる本物の恐怖、本物の凄み、本物の人間性。是非一度、取材を申し込みたいものだ。そんな奴がいれば、だが・・・・・・その「人間性」とでもいうべき部分だけで他を圧倒するなど、有り得るのか? 
 他の心を見ただけで食い尽くし、浸食する事で在り方さえも歪め、ただそこにあるだけで他の全てに影響を与える。物語の悪役としてはそういった存在が望ましい。現実にいるかはともかく、作品のネタになりそうな程度には、あって欲しいものだ。
 権威とか肩書きとか、あるいは社会的な影響力が実際には世界を動かしている。人間は人間性による善を信じたがるが、それによって世界が動いた事など一度もあるまい。口でどう言おうが事実は指し示しているのだ。そこは誤魔化せない。
 事実を見据えた上で、世界を変える。それは、ただの妄想だ。事実を見据えれば世界は変えられるモノではなく、持っているから変える権利があるものなのだ。しかし、そういう連中だからこそ道を踏み外したりする。「心」によって自らの意志で落ちぶれていくのだ。未来を掴めるのに、自分から未来を捨てに行く。
 内なる些末事の為に、勝利者としての道を己の意志で捨てるのだ。それは「異性」であったり、「見栄」だったり、はたまた「健康」であったり「内なる弱さ」だったりする。勝利者としての権利を持つ連中が、勝利者としての在り方を固定できないなどと・・・・・・つまらない話だ。
 私に「人間の弱さ」は無い。何も無いからこその「化け物」だ。だからこそ金さえ掴めば、本当の意味でどうにでもなるのだ。
 「ささやかな生活があれば構わない」という、人間は多い。しかし、私の場合真の意味でそれを望んでいる訳でも、ないのだ。なにせ私には共感できないからな。ささやかで平穏な日々とやらを良しという事にしておき、それで充足を得られていると定義する。人間の物真似だ。最初から最後までそれに過ぎない。「生きていない」以上、私にとって生きるとは「生きるフリをして楽しむ」とも言える。死んでいる訳でもない。死には必要なモノがある。それは「生きている」事だ。生きていない私には死すら存在しない。
 だからこその「化け物」だ。
 構わない。いいではないか、「やりがい」が、あるのは大いに結構だ。それでこそ勝利しがいがあるというものだ。それは人間や怪物であれば、忌避すべき事なのだろう。だが知るか。この世の最悪である私に対して、生物の在り方など説くんじゃあない。
 そこから外れているから「私」なのだ。
 人間らしい幸福、あるいは怪物のように人間に近づいて仲良くなる事を良しとする。それはもう私ではないのだ。別の誰かに過ぎない。私という存在は最初からそう出来上がっている。それを否定されるのは、私の存在を否定する事だ。
 気付かないで押しつける奴は多いがな。
「だが、君のやり方では「勝利」と呼べないのではないか? 少なくとも、大昔から人間は成果だけではなく、「夢」や「希望」を追い求めて来た・・・・・・遙か先に見える景色こそが、我々の心を、唯一満足させると、知っていたからだ」
 もっとも君には「心」が無いらしいが、と痩せぎすの青年は言う。我々はあの後、地下に建造されている「遺伝子保存の為の施設」内部に進入していた。進入と言っても、手引きした内通者さえいれば、どれだけテクノロジーが進もうが、やることは同じだ。そして、その協力者は先程も話したが、眉間に皺の多い青年だった。
 アンドルフと名乗るその青年は、ここの管理者のような立場にあるらしい。だからだろう。有能な人造存在を眺め続けるからこそ、カフェで話したような劣等感に苛まれるのだ。能力など、ある奴を使えばいいだけの気もするが、無駄に信念を掲げ未来を見据えるが故に「崇高な人間」であろうとする奴は、己はそういう存在になって当然だと思いたがるものだ。
 なれなければ己を呪う。そこに辿り着く事ではなく、それに相応しい人間であろうとする奴は、相応しくあれない自分を認められないのだ。己を認める器がないとも言える。そんな人間にどこなのかもよく知らない施設に連れてこられている私も相当だが。
「ここはどこの惑星だ?」
 教えて貰えるとは思わないが、一応聞いた。
「さて、知らない方が身のため、と使い古された言い方ではあるが、いっておこう」
 男二人がよく知りもしない施設を、影だけ残しながら疾走する様は、盗賊めいて見える。体力が無いのか青年は青息吐息だったが、私はサムライとしての特性があるので、疲れる事は無い。物理的な戦闘力もそうだが、この刀を手にしてから、頑丈さにも拍車がかかっている。
 戦車くらいなら素手で破壊できそうだ。
 出来たところで、金にならないからやらないがな・・・・・・健康に気を使わなくていい部分は気に入っているが、それだけだ。
「ふん・・・・・・「希望」も「夢」も当人の思い込みに過ぎない。そうであるかのように、見えるだけでしかない。何より、希望や夢を持てるのは人生に「余裕」があるからだ。手持ちぶさたで空いた手を何に使うべきか己で考えるのも面倒だから、夢だとか希望だとかといった呼び方をする」
「そうかもしれない・・・・・・少なくとも私は、それなりに恵まれていた。しかしそれでも、夢を追い求める事をやめる気にはならないんだ」
「それはどうでもいい。問題は、貴様の様に夢を語る奴というのは、夢を追い求める程の余裕がある側にいるという「事実」だ。余裕を持って人生を遊べない以上、こちらとしてはありもしないゴミよりも、目先の金だというだけだ」
「そうじゃない。夢は無価値かもしれないが、決して無意味ではないんだ」
「だから、何だ? 意味はあるかもしれないが、現実を生きる我々にとって「優先順位」は存在する。貴様は「夢を追いかけられる立場」にいるのかもしれないが、私はそんな余裕がある立場ではないと、それだけだ」
「それも、違う。夢を追い求めるのに立場など関係ない」
 道中、大きなカプセルに閉じこめられた実験体・・・・・・恐らくは生きたまま遺伝子を保存する為の処理であろうそれを見ながら、彼は言う。
「我々全員に許された権利だ。それを使ってもいいし使わなくてもいい。しかし、使う権利だけは必ずそこにある」
「だとしても、やはり同じだ。私にはそんな感性が無い以上、永遠にそれを追い求めようとする事は無い。あろうがなかろうが同じだ。夢が見たいなら物語でも読めばいい。現実にそれを求めるのは単に、自身がそう在りたい、そう出来れば自分が嬉しいからという欺瞞に過ぎん。夢は夢。そこに意味があるかは知らないが、意義を見いだすのは間違えている。現実には何の力も持たない当人の身勝手な思い込み。それが「夢」だ。だから、夢は余裕がある奴だけが見る娯楽でしかない。目的がありそこに至る道が困難であれば、夢など追いかけている暇はないからな」
「君には、誤魔化せないな・・・・・・ああそうだ。これは私の身勝手な思いこみだ。しかし、私はそれでもその夢に、命を賭ける」
「・・・・・・それは「貴様の人生」だ。私には何の関係も無い。何も持ち得ず絶対に人間、いや世界のあらゆる摂理と相容れない、生まれついての最悪が、私の名前だ。私が私で在ろうとする以上、貴様の様な生き方や、あるいは人間や怪物が追い求める世界の真実など、私には関係ないしどうでもいいのだ。金、金、金だ・・・・・・金で幸福を肯定し定義する。余裕のある結末などそれからでいい」「ふ。それもまた一つの在り方だな」
 アンドルフは何がおかしいのか、笑った。気を緩めたらしい。能力差に絶望している人間こそ、在り方に固執する。私からすれば気がついたら出来た服の染みみたいなものだが、連中からすれば能力差や運不運に胸を張れる唯一の部分らしい。 現実問題それでは勝てないと思うがね。
「着いたぞ、ここだ」
 我々は一つの場所に辿り着いた。その場所が、私に「見えない何かに打ち勝つ力」を寄越せるかはわからない。相手の出方次第だが・・・・・・作品のネタ、だけではない。この私が勝利する為に、必要なモノは全て頂くとしよう。
「それにだ。私から言わせれば君の様な「無」からしか「有」は生まれない。逆だよ、有限な存在から生まれるのは物理法則に従った質量だけだが完全なる無からは無尽蔵のエネルギーが発生するのは、物理学では常識だ。案外、君のような何一つ持たざる者こそ、何もかもを変える力を持つのかも、しれないな」
 戯言だ。そんな訳があるか。だが、もし・・・・・・私から力が生まれるなら、その力を意識的に誓わなければ駄目だろう。無意識かで事は終わっていたと言われるのは論外だ。そんな力が私にもし、あればだがな。意識的に期待しないように、冷徹さと冷酷さと残忍さを纏いながら、私は扉をゆっくりと開けた。
 
 中には 

   7
 
 
 
 価値とは後から付けるモノだ。
 今はまだ価値がない。「今は」だ。それをかつてに変えてみせる。正直、何の方策も無いが・・・・・・やるしかあるまい。
 物語を書くのは、漫画と違い簡単だ。才能や技術が必要になるあれらと違い、文字を書くのに技術も何も無い。私が選んだ理由もそれだ。
 近代の映画や小説を見れば分かるように、漫画と違って面白くなくとも売れるのが特徴だ。淘汰されずとも「何となく流行だから」で売れる。何をしたいのかどころか、何を思って作り上げたのか不明な作品でも、売れる環境があれば、売れる。文字が読めない奴が書いた作品でも、売れれば作家だ。
 信念や思想は不要だ。中身が無ければ無い程、売れる。しかし、漫画よりも難しい部分というのがあるとすれば、それは己の力だけで書き上げねばならない部分だろう。そういう中身の無い作品を売る連中であれば、代筆屋に頼むとか方法は幾らでもありそうだが、私は権威を示したいから売りたいのではなく、金を稼ぐ為に売りたいのだ。 なので、そのデメリットのみを引き受ける羽目になる。まさかアシスタントを雇う訳にも行かないだろう。そんなのを雇う金があれば宣伝費に使うだろうし、「背景だけ書いてくれ」と頼む事も出来まい。
 本来であれば、だが・・・・・・事の真贋などゴミでしかないが、物語とは「当人の色」を示す道具なのだ。その色が濃ければ濃い程、強い光となり、道標となり、ついでに売り上げにも繋がる。読者共の人生を魅了する程の輝きとなれば、それは二種類に分けられる。
 一つはわかりやすい。「聖者」だ。聖書がどれだけ売れて、いや広まっているかなど言うまでもあるまい。無論、いずれは追い抜くつもりだが、そうではなく、「清き正しさ」も度が過ぎれば、他者の人生に影響を及ぼせる程になる。善悪と言うより、何事も「一歩踏み外した先」にあれば、人間を魅了するものだ。
 なら、もう一方は何か? 簡単だ。「悪」に、決まっている。それも尋常な悪ではない。
 
 悪の到達点だ。
 
 これ以上は存在し得ない、と言える程の悪。人間の望む究極の「善」が「神や信仰」だとすれば・・・・・・その対極に位置し、それでいて人間を魅了し、どれだけ信仰を深めようが、必ず人間の心を捉えて離さない程の存在感。
 感動すら与える程の、「悪」だ。
 とはいえ、ただ単に「悪」と呼ばれるだけでは駄目だ。例えばだが、モナリザにしろミロのビーナスにしろ、あそこまで人々を魅了するのはどう考えても異常だ・・・・・・「善悪を越えて」それが、どうでもよくなる程の存在感。善悪とは元より、主観によるもので存在しない。言ってしまえば、他者から聞いた倫理や道徳、世間や世論にあわせてきた「今まで」を「簡単に捨てられる」と、思わせる「何か」だ。
 そして、芸術のテーマに美しさや善良さ、神や信仰は当然選ばれるが、悪逆や悪魔の姿ほど目を奪える芸術もないではないか。善意が過ぎれば悪より質が悪くなるように、悪意も過ぎれば善意を越えた成果を残す。
 それを何と呼ぶのか? 私は「人間の可能性」だと思う。善意や道徳だけで出来る事は知れているものだ。実際、今まで人類は悪意を否定し善性だけを信じようとして、己の悪を認めず、結果、現実とも向き合わないまま何も成し得ず無様にも世界を変えられなかった。
 ただの「善意」が世界を変えられるとは思えないし、変えるべきではないだろう。自身の悪性と向き合わない存在が変える世界とは、金も権力も持つ大富豪が、寄付をして自己満足に浸りながら世界を救ったと自負するようなものだ。
 表面だけはそれでも変わるだろう。変わった様に見えるだろう。しかし、それだけだ。人間の根底にある問題は「心」であり、その心の根底にあるのは「悪意」だからだ。人間の善意を信じたがるのは当人の勝手だ。しかし現実を見据えずに、理想だけを歌ったところで、世界は何一つ変えられはしない。
 「事実」今まで様々な連中が「信仰」を広め、教科書で道徳を刷り込み、人間は成長していると思い込もうとした。しかし、それで根底にある心が変わることは、無かった。当たり前だ。善意を説くだけで世界が変われば、誰も苦労しない。
 私から言わせれば、それは「一番楽な道」だとしか言いようがない。人間の悪を見ようともせずに生きられる立場にあれば、それは楽だろう。しかし現実を見ず妄想に耽りながら、世界が何故変わらないのか悩むなど、図々しい。
 己が歩いて、それを乗り越えて初めて、物事に関して語る資格があるのだ。何もせずに教本を読んで知った気になり、それで世界を変えようとするのは「信仰の道」にも反している。信仰とは、本来「道標」に過ぎないモノだ。それに依存してそれだけを信じ「己を信じず己でやり遂げない」から残念な結末になる。
 そんな連中ですら「持っていれば」勝利出来る世界・・・・・・「時代遅れ」であり「古い生き方」であり「世代交代」なのかもしれない。だが、こちらとしても最低限の品性も捨てる世界など、こちらから願い下げだ。鳴くしか脳のない豚同士仲良くやっていろ。私は先に進む。
 実際そういう連中に勝てる方策など無いが・・・・・・やるしかない。選択出来るほど恵まれていれば苦労しない。この世の真実は「持っていれば勝利し、持たなければ敗北のみ」ただそれだけだ。実にわかりやすい。
 行動に意志が伴い、それが美しいかどうかに決定されて欲しい、という人間の願いこそが、それを逆説的に証明している。
 真実は底が浅いと、認めているのだ。
 真実に過保護な世話をされている、「持つ側」でなければ、真実とは倒すべき敵なのだ。
 この世の真実は「勝利出来る存在」の味方だ。挑む意志や行動の結末など、興味はない。ただ、持つから勝利し、持たなければ勝利してはならなくなる。持たざる存在の勝利など、摂理への逆行そのものだ。摂理が秩序であるならば、世界にとって個人の意志こそ、どうでもいいゴミなのだ。 偉人とは、ある意味その現実に敗北した先駆者達と言える。今回の依頼もそれが原因で受けたのかもしれない。少なくとも人類史に名を残す様な業績を叩き出した連中に、社会に認められ個人としても充足した人生を送れた奴など、聞いた事も見た事もない。漫画家で一人いた気もするが、そんな奴は稀だろう。
 大抵はロクな事にならない。
 作家などその最たる例だ。言ってしまえば並び立つ異常者共の頂点に立つ偏屈が「作家」なのだ・・・・・・銃で頭を吹き飛ばす位は、まだマシだと言える。生涯他者に心を許さず人間社会から阻害されながら人間を呪い続け、あるいは諦め続けながら書き続ける。私もあまり人の事は言えないが、化け物として人間のフリをし続けるのと同じ位、人間を諦め続けるのは疲れそうだ。
 だからこそ、だ。私は人類史史上、初と言っていい「個人としての充足」を手に入れる。読者共はそういう偏屈が作る作品に魅力を感じるらしいが、知るか。私の目的は「ささやかなストレスすら許さない、平穏なる生活」をそれなりに豊かに暮らす事だ。「人間の物真似」をし続けながらも「幸福という体」で生きる。そこに、読者共の幸福など、入る余地も入れる気もない。 
 それこそどうでもいい。
 金を支払えば金額分気にしてやるが、つまり、一分か二分かそこらということだ。実際、何年も年月を掛けたモノを、ハンバーガーと変わらない値段で買いながら「高い」と言うような連中に、何を思うのだ。何も無い。精々金を支払ってから死ね。
 私の作品を読んで人生に絶望しながら苦しむがいい。無論、それで死んだところで、何の責任も負わないが。「作品で影響を与えて他者を殺してはならない」という法律は、いまのところ聞いた事もない。「合法」だ。社会の善悪は法律によって計られる。法律が許せば何であれ「正義」だ。 免罪符として掲げられれば、それでいいがな。 「悪の聖典」だ。私が書き上げるべきはそれなのだ。「聖書」が「善なる存在」の証明であるならば、人間に足りない「悪」を補填する書物があってもいいではないか。悪を見据えないから失敗し続けるというなら、嫌でも直視させる書物を、量産するまでだ。
 成果はともかく、面白そうではある。実際にどういう影響を与えるかなどどうでもいいことだが・・・・・・やりがいや充実を感じるフリをするには、丁度いいだろう。後は、私の「正体」を隠し通すだけだ。売れたとして、そこからなのだ。
 まず、厄介そうな読者共は「晒し者」にして、「社会的に抹殺」する必要性がある。見せしめ、としてな・・・・・・よくある「有名人のストーカー」などがその最たる例だろう。そういった読者共を見つけだし(いつの世も品性の無い馬鹿はいるものだが)晒して処罰を与え、その苦しみを見せしめとして吊し上げる。
 面白いぞ・・・・・・実にやりがいがある。個人的には勝利も敗北もない。晒し者を見て探ればああなるのだと俯く読者共の顔を見るだけで、執筆も進もうというものだ。いっそ叩き斬り処刑した首でも並べたいところだが、恐怖を伝染させるのに、そんな陳腐な方法は必要ない。動画、ネット、テレビ。伝える手段は幾らでもある。
 なに、その場合私は「被害者」だ。
 正当なる防衛として、何人か死んだところで、法的には問題あるまい。「恐怖のあまり正常な判断が出来なかった」とでも証言すれば、大抵の行動はもみ消せる。正常な判断など普段からしていない気もするが、要は証言として機能すれば、それでいいのだ。
 読者の百や二百どうでもいいしな。読者共も、根底では作家の事などどうでもいいから、そういう行動を取るのだ。作家の事を考えるなら、取材におすすめのスポット情報でも手紙で送った方が良いだろう。
 取材か・・・・・・古代の秘密でも取材するのも、ありかもしれない。ピラミッドなど未だにどうやって作られたのか不明なままだ。古代のファラオ達は現代人より余程「物事の本質」を見据えていたらしい。無論暴君としての性質もあり、何事においてもそうだが「完璧」など有り得ないし、あってもつまらないが・・・・・・人間のまま神に成り上げた男の話など、面白そうではある。
 検討しておくとしよう。それも、物語の売り上げ次第だが。取材をするにも過去から学ぶにも、やはり金はかかるということだ。
 「そこ」にあるのは干からびたミイラが、透明なガラス張りに保存されている姿だった。いつの時代なのだろう? 少なくともあの依頼人の娘の話通りであれば、まだ銀河が開拓されるよりも、前の筈だ。
「これが、例の奴か」
 アンドルフは畏まって答えた。
「ああ、そうだ。これが・・・・・・君の依頼人の先祖の先祖のはたまた先祖である「偉人」だ。彼は、大昔とある「傑作」を書き上げた。それが後々にまで受け継がれ、その功績を称えるだけでなく、彼に匹敵する作品をもう一度見たい、と信奉する連中の為に、こうして保存されている」
 傑作を書いて得られる報酬がミイラ保存。それも安眠できなさそうな場所で、頼んでもいないのに眠りにつかされるとは。
 私には関係ない話だが、哀れな奴だ。いや、この場合無惨と言うべきか。まあどうでもいい。問題なのは今回の依頼・・・・・・「二度と復活しないように始末しろ」との命令だ。これだけを破壊したところで、依頼は達成出来ないだろう。
「いっそ、この施設ごと破壊したらどうだ?」
 とりあえず提案してみたが、どうやら冗談は通じにくいらしく、私はプラズマ銃を向けられた。「そんな事をしてみろ・・・・・・私が君を殺すぞ」
「何故だ? 過去は過去。そもそももう死んだ連中などに、依存する貴様等は何だ。過去から学でもなく過去を乗り越えるでもなく、過去を踏襲し過去にすがりつき過去を崇める。貴様等の大好きな世論では、そういうのを「自立できないカス」と呼ぶのではないか?」
「・・・・・・そうかもしれない。少なくとも私は、彼らの様な在り方が出来ていない」
「いいや「違う」な。貴様はそうかもしれないと思っていない。他でもない「私」に心の誤魔化しなど不可能だ。目を背ける事で縋る事を誤魔化し続け、過去を乗り越え新しく作り上げなければと思い立つ事もない。自分には無い何かに縋るのは勝手だが、縋るからといって神聖視するのは畏敬でも何でもない。ただの逃避だ。それは心の弱さの為に利用する行為だ。形は違うが私と同じだ」「何が、同じなんだ」
「何もかもだ。私は金の為に、己の為に利用して勝利を目指す。貴様等は己の心の弱さを覆い隠し「善良である」という思いこみを守る為に、畏敬を払っているフリをしながら生きている。何かを利用し己の実利を取ると言う点では同じだ」
「そんな、つもりは・・・・・・」
「あろうとなかろうと同じだ。殺人を犯した奴がそんなつもりはなかったと言っても貴様等は容認しないくせに、「善良さ」を機軸とした行動が、結果何かをどれだけ傷つけようが「そんな事もあるさ」「不幸な事件だった」「正しい心に従えば必ず結果はついてくる」と、誤魔化す。それは私に言っているのか? それとも自分に言っているのか? いずれにせよ、いい迷惑だぜ」
「・・・・・・だが、彼らは世界の宝だ」
 絞り出すように、あるいは呻きをあげるように青年、アンドルフは言う。非才であるが故に、そういった連中を神聖視しているのだ。
 だが「事実」は「事実」だ。
「いいや違う。ただの死人さ。腐った肉片でしかない。物事の過程に「尊さ」を求めるくせに、貴様等はわかりやすい成果を求める。美味しいとこ取りをしながら、信念や誇りを重く捉える事を、良しとする。何一つ現実を見る気がない。だから成長しないのだ」
「なら、どうする? 彼らの遺体を焼き払ったところで、世界の利益が失われるだけだぞ」
「世界の利益、国家の利益、個人では計れない、全体を優先する為の利益など、ただの方便だ。そんなものはどこにもない。貴様もそうだ。「己にとって都合が良く心地良い」からそれを選択しているだけで、貴様のそれは己の意志から出たモノでさえ、ない」
 必死に否定するようにアンドルフは、
「そんな事はない!」
 と前置きし、続けた。
「私は、確かに彼らに対して「憧れ」を抱いている。彼らは人間の「行き着く先」だ。それを尊重する事の何が悪い?」
「悪いな。最悪の私が言うんだ間違いない。尊重するのは己の為だ。聖人であれ偉人であれ、それを尊重するのは「利用」して「自分たちの利益」が欲しいからだろう。本当に尊重したいだけなら遺体は墓の中にでも葬ればいい。そうしないのはただ単に「これだけの偉業を成した奴なら、自分たちにも何か良い利益をもたらしてくれる」と、そういう自身の欲を覆い隠したいが為に、それらしい屁理屈で誤魔化す。目先の利益に目が眩んだと正直に言うよりも「先人に経緯を払う為」の方が聞こえが良いからな」
「・・・・・・・・・・・・」 
 この世の最悪である私に、言葉で勝利しようなど足りなさ過ぎる。世界を五百週は繰り返し、神も悪魔も弁論で屈服させ、人間をやめて言葉を形にし、それで世界を切り刻んだ上で、私に挑戦する権利があろうというものだ。
 挑戦したところで何も払わないがな。
「なら、どうすればいい」
「どうもこうもない。先人が偉大でそれが素晴らしいと感じるなら、それを越えればいいだけだ。聖人も偉人も全て、乗り越えればいい。それ以上を目指し、そこに辿り着く。過去の己を乗り越えるように、過去の先人など幾らでも越えればいいのだ・・・・・・それを「尊敬」や「歴史」で誤魔化すから、いつまで立っても「それ以上」に向かおうという意志すら、沸かないのだ」
「・・・・・・君は、どうなんだ?」
 つまり、私が作家として先人達と比べて、どう考え理解しているのか、という事か。
 簡単だ。
「そうだな・・・・・・正直、作品の出来だけで言えば既に越えている。物書きなど聖書より神代の叙事詩よりも、己の方が圧倒的に上だという自負があるからこそ成るものだ。そも、その自負が無ければ、物語を書く資格など無い。売り上げだけだ、私が求めるのは」
「・・・・・・っ」
 笑いをこらえているらしく、彼は盛大に笑いながら「馬鹿げている。君の話が聖書や叙事詩よりも面白いだって?」と腹を抱えながら続けた。
「君は、神代の物語より、己の書いた物語の方が上だと、本気で思っているのか?」
「当たり前だろう。たかが、千年か万年か、億年かの文明ごときに、この私の傑作の出来が、遅れを取る筈がない。心配なのは読者共に見る目がないってことだが、見る目があろうが無かろうが、流れに乗れば売れるしな」
「変わっているな、君は。それも特大の変わり者だ。君みたいな奴が、歴史を動かして来たのかもしれないな」
 ま、ただの大馬鹿であるのも確かだが、と初対面の人間に対して失礼な事を口にした。まあ、私の場合初対面の奴に失礼な言葉を吐かれない方が珍しいし、はたして私の事を「人間」と呼べるのかも謎なので、どうでもいいが。
 とりあえず失礼分の代金だけ、後で請求しておくとしよう。
「下らん。歴史などただの記録だ。我々にとって本来あるべき歴史の形は、各々で今にどう刻みつけて行けるか、それを競い合う事だ。過去にどれだけ思いを馳せようが、今は何も変わらない。過ぎ去っている時点で学ぶことは出来ても、ただのそれだけだ。参考にするのはいいが「今」に持ち込むモノではない」
 それも結局は「意志の有無」よりも「持つか持たざるか」に左右されるのだから、廃れる理由もわかろうというものだ。あれこれ語ったがそういうのは「余力のある持つ側」がどうするかであって、持たざる存在には関わる事すら、稀だ。
「わかった、手伝おう。しかしだね、学術的な価値があるのは確かだ。流石にこの施設を全壊させる訳には行かないだろう。とはいえ・・・・・・後々の子孫達が歴史に晒される事を嫌悪するなら、それは尊重せねばならない。君の依頼人の指示は、過去の先人が辱められない事であって、遺体を破壊したい訳ではないのだろう? 私はここに顔が効く。もしかしたら、権利関係で裁判を起こせば、保存はするが記念の式典でもない限り、遺体を弄ぶ事は避けられるだろう」
「・・・・・・」
 私は何もせずとも実利を得られる訳か。しかしそう上手く運ぶのか?
「おや、確か君の信条は「楽して実利」だろう。何もせずとも私が君に実利を用意出来るんだ。それとも何かね? 口ではあれこれ言っていたが、遠回りしてでも成長し、過程に意味を見いだすのは理解に苦しむと振る舞っているのに、まさか、ここで切り捨てて自分から面倒事を運ぶ気か?」「・・・・・・それが出来るなら、構わんよ。私としても無駄な労働に身をやつす気はない」
 ここまで来て成果の連絡待ちとは。物語であればそれらしい困難や試練。あるいはそういった、主人公が目立つ為の敵、主人公を際だたせる為の障害、主人公が凄いと思わせる為の舞台があるものだが、生憎私は主人公ではない。
 今回の物語は、この貧相な男だった。
 まあいいさ、どうでもいい。私が望むのはただ一つ。充足や平穏という私個人の勝利だ。戦いそのものなど、ゲームでやればいい。
 刀を振るう機会は無かったが、筆を振るう機会は多くなりそうだ。傑作が書けるというのは当人の自己満足に過ぎないが、己で満足できる何かを成し遂げるのは、気分が良いものだ。案外、それこそが幸福の一端なのか。
 何にせよ私は彼に任せる事にした。
 人に任せるなど何時ぶりかわからないが、奇妙な確信と共にその日は眠れるのだった。金になるかの確信であってくれれば、嬉しいのだが。
 私は歩を先に進めた。

 
 
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 この歩みも、この道のりも、この回り道の全ては無駄に終わる。「金にならない」からだ。金にならなければ、成果に結びつかなければ、勝利できなければ同じだ。精神は成長したか? 信念を貫き通したか? 進むべき道を歩ききったか?
 下らない。
「・・・・・・・」 
 私をサムライ業に引き込んだ女は黙って聞いている。何か言いたそうだが、何を言おうと何の説得力も無いことは、当人自身が理解しているのだ・・・・・・実際、この女は正論だ。しかし正論なだけでしかない。「苦難の道のり」を歩ききって初めて人間は「語る資格」を手に入れる。しかし、語るだけでは何の価値も見い出させまい。苦労した勝利した苦難を乗り越えた。それはその当人の場合にのみ、適応されるからだ。
 誰もが・・・・・・少なくとも恵まれた持つ側でなければ「理不尽」を「克服」したいと考えるのは、珍しくもない話だ。理不尽とは摂理であり世界の法則そのものだ。宇宙が理不尽でなければ、誰も彼もが幸せな生活をしているだろう。だが実際にはそうでない事は、生きていれば誰でも理解せざるを得ない。自我が芽生えた時点で、優劣の差、環境の差、持つ持たざるの差に、気付く。
 物語はある意味でその願いを叶えるモノだ。現実には不可能な「理不尽の打破」をそれらしい形で見せつけ、夢や希望を魅せる。それが現実から剥離していればいるほど、そんなのは嘘っぱちだと見る側を落胆させるのだ。
 誰でもやりさえすれば辿り着く方法。それさえ貫き通せば「勝利」を手に出来る方法を探し求めながらも、そんなモノはありはしないと諦め、死んだように生きるか生きずに夢や希望に逃げるかするのだ。それは「信念」や「覚悟」あるいは、「正しい道を歩く事」だと言われる。現実にそんな道を歩いただけで成功できれば、誰も苦労しない気もするが、「それらしい」からだろう。
 正しい道を歩いていれば必ず勝利する。
 究極の思考放棄だ。現実的に勝つための方策を考えずとも、それに没頭しているだけで、己は正しい行いをしているのだからと、戦わない。
 それで良い筈がない。そう考えて手を尽くし、策を弄して、この様だ。
 結局、私は勝利出来なかった。今までの道のりなど、どうでもいい。そんなのは些末事だ。そこを誤魔化しては戦った意味がない。
 それももう、無駄に終わったが。
「諦めるのが早いですね」
 あろうことかこの女、隣で茶を啜りながら階段の上に座っていた。何を奉っている神社か知らないが、それでいいのだろうか。
「諦めか。そんな概念は私には無い。壊れるまで続けるだけだ。とはいえ、無駄だと知りながらも嫌々、だがな」
 いつも通り、私は地球に依頼達成の報告を済ませに来た。それもこれで終わりかもしれない。無駄だと知りながらやり遂げたが、しかしやり終えた結果得られたのは「疲れ」だけだ。金にならなければこんなのは、マラソンをしているのと何ら変わらない。
 健康になれる分その方がマシか。
「売れればそれで良し。売れなければ・・・・・・まあどうでもいいか。物事の流れに私の意志など関係ないしな。私が何を思うかどう疲れるかさえ、事の成否とは関係ない。因果関係が存在しない以上何をしようが思おうが、同じ事だ」
「成否、ですか。貴方は何の為に、物語を書いたか覚えていますか?」
 神社の入り口、階段の上で二人の人間が話している様は、見る奴などいないが写真でも撮れば、平和に写るかもしれない。
 どちらも人間ではないが。どころか、私に関して言えば生物でもない。「概念」だ。まるで私は「邪道作家」という概念そのものだ。諦めを知らず書き続け、無駄だと知りながらも、当人の意志とは関係なく歩き続ける。いい見せ物だ。見る分には良いのだろう。結局、そういう連中にさえ、成し遂げようがやり遂げようが、最初から勝敗は決められていたらしい。私はまた敗北した。
「何の為に、だと・・・・・・「己を定義する為」だ。文字通り私には「人間性」が何も無かったからな・・・・・・「どう在りたい」ではなく「どう在れば、己を勝利に導けるか」で考えた。結末がこれでは最初から無駄だったようだが」
「勝利や栄光が全てではありませんよ」
「それが全てではないだと? 貴様、誰に対して言い訳しているんだ? 私か? それとも自分にそうやって言い訳しているのか?」
 純粋な疑問だった。勝利が全てではない。諦めそのものだ。勝利しなくとも良いなら、誰も最初から戦わない。「奴隷の自分」に満足する奴などいないと思うが、そうだとしても不満を抱えながら「敗北し続ける事を容認する」形で、文字通り「残りをこなす」感覚で歩く死体としてこなす。「いえ、そうではありません。人間は勝利や栄光を求める生き物ですが、結局のところそれも、ありもしないモノなのですよ。勝利したところで、大きな敗北を迎えればそれまでです。勿論、勝利を諦めろという話でもありません」
 話を途切れさせないように念を押して女は続けた。私からすればお題目が何であれ「金が手に入らなかった」という「結果」だけが重要なのだ。 ああすればこうすればだとか、その敗北にも意義があるとか、そんな話はどうでもいい。だが、指摘するのも面倒なので聞き流す事にした。 
「重要なのは「勝利し続ける事」なのですよ、それには「精神の成長」が必要です。貴方の言う、成長せずに勝利者となる人間は、結局の所勝利して実利を掴もうが、実際には掴めていません。運命論で言えば「過程」の部分で、それなりに豊かに見えるだけ、大きな波の一部が高いだけなのですよ」
「そうだとして・・・・・・だから、どうした。作品の出来はともかく、売れる根拠は何もない。幸運が味方でもしなければ、どうにもならないだろう。そして、その試みは無駄に終わった。精神の成長だと? その結果私の作品は売れる訳ではない。己の信じる正しい道を歩こうが、無駄に終わった・・・・・・貴様は「正しい道を歩いたから結果の方からついてくる」とでも思っているのだろう。それはな、ただの妄想だ。運命論で言えば、連中は一時的に高い波の上にいるだけかもしれない。だが私の状況がそれで変わる訳でもない。連中が今、勝利しているのが偶然であるように、持つ側であろうが持たざる側であろうが、勝利出来るか否かは、全てただの運不運だ」
「・・・・・・確かに、そうです。しかし貴方はやり遂げたではありませんか。何はともあれ、作家として貫き続け、今なおそう在ろうとしている。それがこの世の「真実」ですよ。貴方は運命に左右されていない。もう少し、自信をもって下さい」
 綺麗事の戯言か。しかし、疲れた・・・・・・指摘する体力が、もうない。
「下らないオチだ。三流以下だな。やり遂げて、だから何だというのか。それは見る側の視点だ。貴様は私を見ているだけだから、そんな台詞が吐ける。見る分には良いだろうさ。過程に重きをおくのはな。それを歩いたのは「私」だ。貴様が、知った風な口を効く権利など、無い」
 押し黙って、女は「すみません」とだけ口にして、俯いた。綺麗事だけで薄っぺらい奴だ。
「貴方はこれから、どうするのですか?」
「何も変わらないさ。私に出来る事は一つしかないからな・・・・・・ただ単に、それが無駄だと知りつつやるのではなく、それが無駄で無意味で無価値なゴミだと「結論付けた上」でやるだけだ。今思えば、最初からそうだった気もするが」
 持つ側に生まれなかった時点で、そうだったのだろうか。「敗北する運命」を認めずに、結論を後回しにして躍起に変えようと足掻いただけなのだろう。少なくとも「結果」だけ見ればそうだ。物語は過程に重きを置くが、私は良い物語を作りたいのではなく、売りたいのだからな。
「貴方はそれで、良いのですか?」
「良くは無いが、それを決められるのは私ではないみたいだからな。私の意志は関係ない。私の意志が反映されるなら、売れて然るべきだ。貴様こそどうするつもりだ。これからもそんな、情けない綺麗事を掲げながら生きるのか?」
「そんな事は・・・・・・」
「あるさ。勝利だけが全てではない、などと、口にしてしまえる時点で、貴様は「戦った事」が一度も無いとわかるからな。どんな戦いであれ、勝利に向かい進むのであれば「あの敗北からも学ぶ何かはあった」だの「後から思えば成長に繋がったように思う」だの、そういう事を思うかもしれないが、それ以上に「勝利」を求めるものなのだ・・・・・・勝利以上に大切な何かなど、敗者の慰めでしかない。ただのそれだけだ。当たり前の事だろう。勝利する為にやっているのだから」
 過程の綺麗事に逃げているだけだ。しかしそれこそ侮辱ではないか。だったら私の戦いは、勝利以前に「しなくても良い」行いだ。無駄どころではない。とはいえ、それも「事実」かもしれない・・・・・・何せ、何も変えられなかったのだ。
「まあいいさ。どうでもいい。終わったのだからな。終わるつもりは無いが、しかしどうすることも出来ない以上、都合の良い協力者でも出来る事を「祈る」しかない。ここまで来て出来る事が、祈る事だけだ。何に祈れというのだろうな。私には信仰する神も悪魔も、どころか世界の摂理さえ信じていない」
「そうでもありませんよ」
 何故か、女は笑いながらそう告げた。
 女神の微笑みというやつだろうか。私には何の関係も無いが、そこそこ作品のネタにはなりそうな笑い顔だった。
「貴方が信じるべきは「己の行い」です。己の行いに恥じる部分が無いのであれば、己を信じるだけではなく「己の行いの成果」を信じるのですよ・・・・・・まだ売れてこそいないようですが、貴方は貴方の物語を信じるべきです。己を導いて然るべきだ、と」
「無論そう思ってはいるが、それと現実に勝利出来るかが問題だ。私が私の行いをどう信じようが「幸運」以外の要素など無いのだからな。私は私の行いを信じている。勝利して当然、成功して当然であり、認める頭が足りない読者共が悪いとな・・・・・・何かを志すならそんなのは当たり前だ。しかしだ・・・・・・それを世界の側がちゃんと反映できるかどうか、そこは信じるに値しない。世界とは「運不運」で全てが決まる。その幸運のルーレットが私の上に落ちるのか? そんなあるのかわからない幸運を信じる訳にも行かないだろう」
「今までの行いが呼び寄せる、では足りませんか・・・・・・信じるに値しないと」
「当たり前だ。己の信じる行いをしたところで、それだけで勝利出来れば苦労しない。持っていれば別だろうが、私は持っていないのでな」
「そうでしょうか・・・・・・私は多くの人間を見てきましたが、貴方は余程、人間に足りない部分を、持っているように見えます。先程も言いましたがどれほど富を重ねようが、成長できなければ同じですよ。富を失う事に恐れを抱き、成長できない自身に絶望し、他者を信じられず恐怖する。世界そのものが揺らいでも、貴方は揺らがぬ己を、既に持っています。元々持っていたのではなく、それこそゼロから作り上げた。それこそが幸福なのではありませんか?」
「ふん、そうだとして・・・・・・金がなければ美味い食べ物も食べれないのは変わるまい。それはそれこれはこれだ。成長すれば不要になるのではなく成長したところで必要なのだ。だから金が必要ない、とはならない」
「なりますよ」
 あっさりと、明日のおやつは何にするかという言い方で、女は口にした。
「金や優位性とはそれ単体で決まるモノではありませんから。貴方が普段口にするように、何をどうしたところで、入る時は入るのです。やり遂げた後はそれを待つだけで良いというのに、未来を信じるのが下手な方ですね」
「生憎、その根拠が本当か判別つかないのでな」 未来の事はわからない。案外あっさり水泡に帰すどころか、経済が破綻して国がなくなるかも、しれない。しかし現実問題未来がわからないとは言っても、ある程度予想はつきそうなものだ。国や経済が急になくなるなど有り得ないし、なくなれば生きていくのすら困難だ。今までの行いが、急に報われて成果が現れるなど、信じられるか。「未来を信じるだと? やり遂げれば後は待つだけだと? 下らん。それはただの思考放棄だ。現実はそうではないと、誰もが知っている。誇りがあろうが信条があろうが正しさがあろうが、勝利できるかはわからない。正しさなど私からすれば存在しないし、己で正しいと信じるだけだ。世界は理不尽で、何の考えもない。ただひたすらに、摂理に従って動くだけだ。運不運によって決められるのはその為だ。意志があるから反映されるのではなく、そうあって欲しいというただの願望なのだ。結末は誰にもわからない」
「・・・・・・誰にもわからないのに、何故貴方は未来を信じないのですか?」
「今まで散々そうだったからだ」
「賭博に負ける人間も、今まで赤だからと、同じ賭をして敗北します。永遠に続く夜など有り得ませんよ」
「・・・・・・どうかな。私はそこから生まれた存在だ・・・・・・私の世界には全てを飲み込む暗闇だけだ。少なくとも私は、このままではそうなるからと、行動に移した。それが無駄に終わった。ならば、信じるに値しない未来であるのは必然だ」
「貴方が言うように、それを決めるのは貴方ではありませんよ」
 ああ言えばこう言う奴だ。
 しかし、事実はそうだ。
「決めるのは私ではない。しかし空を雲が覆っているのに、世界が暗闇に包まれているのに明日は晴れになると思うのは、妄想でしかない。事実を見据えた上で戦わなければならない。結果、私は敗北したが・・・・・・だからと言って妄想だけを信じる気分には、ならないな」
「けれど、貴方に出来る事はもう無いのでしょう・・・・・・ならば信じてみては如何ですか?」
 お金はかかりませんよと、知った風な口を効くのだった。やれる事は特にないが、盲信的に未来を信じるのも御免だ。
「・・・・・・信じたりはしない。だが少しだけ待ってやろう。待つだけで、期待はしないがね」
「それはよかった」
 何が良かったのか、女は語らなかった。私も追求するつもりはない。というかそんな体力は残っていない。今まで様々な依頼を受けて、その度に作品に描き、その度に売り上げられず、何度も、繰り返し続けたのだ。
 疲れない筈がないだろう。体力より、気が滅入る。精神的にどうと言うより、思考回路を使い続けるので、物理的に「脳」に無理が生じる。精神的な疲れや弱さがないのも考え物だ。いつのまにか私の脳は、限界を超えすぎて体に現れる位無理を重ねてしまった。
 精神的に疲れなかったところで、脳機能の限界として「化け物」の精神構造でも疲れる、という貴重なデータは当然、作品に活かすつもりだが。 我ながら、今更引ける訳がない。
 やるしかないのだ。敗北が目に見えており、それを自覚しながら変えようとして、敗北し続け、無駄だと知るのではなく結論付けた後でさえ、これなのだ。やれやれだ。我ながら、何をやっているのやら。いや、それが「生きる」という言葉の本当の意味なのだろうか。知らないし、どうでもいい事この上ないが。
「私はもう行く。貴様はどうする?」
「私は、ここで貴方の帰りを待っていますよ」
 果たして再度ここに来られる位、金を稼げるかはわからないが・・・・・・とりあえず進むしかない。選択肢の無い暗闇を歩くのは、いつものことだ。 「祈り」に「未来を信じる」か。ああも余裕のありそうな奴に言われると真実味が無い。とはいえ説得力があれば良い訳でもない。私の言葉に、説得力があるのかは知らないが、私の言葉はわかりやすい「成功」や「勝利」に向かわないだろうからな。向かった事もないのに、私の行動や結末がそこに至る影響を与えられるとは、思えない。 正直気は進まないし、祈ったり信じたりする心など私には無いのだが、待つだけで良いなら、気にする必要もないのだろう。
 少し疲れたしな。未来など信じるに値しない。何をどうしたところで酷い目に遭うだろう。だがとりあえず、何か食べてから考えるか。
 私は空を眺めた。一面雲が広がっていて、何もそこには見えはしない。それが現実だが、少し、休むくらいなら良いだろう。
 祈る価値の無い世界と信じるに足らない未来を見据えながら、私は歩を進めつつも、筆を置いて休む、という決意を固めるのだった。
 
 
 

   9

 宇宙船の窓から、無限の闇を眺めながら考える・・・・・・私はどこから来てどこに行くのか? 少なくとも「希望」が「無い」のは確かだ。そんな、安易なモノがあれば苦労しない。希望も夢も全て浅はかな綺麗事は飲み込む世界。そこに残るモノはあるのだろうか。
 意志や信念? いいや違う。もっと確かで、力強い「何か」だ。私はそれを求めている。現実に変革しうる力。金、人脈、幸運。何でもいいが、それで変えられる力がなくては、進めない。いや違うのか? 結局のところ「根底にある流れ」に従っているだけで・・・・・・力の有る無しも運不運もその上澄みに過ぎないのだろうか。
 ならば、それを支配しなければ。今まで散々、それに振り回されたのであれば、こちらから支配されても文句は言えまい。それが出来れば苦労しない気もするが、出来る出来ないではなく、それが必要ならしなくてはならないのだ。
 必要でない行い。あるのだろうか・・・・・・あったとして、それを楽しめるのか? 全ては必要に応じて行ってきた。「人間の物真似」も「充足を求める為の行い」も全て、必要に駆られての行為である事は、間違いない。
 必要性という点では、物語など人間の世に必要ないがな・・・・・・物語に夢を見るより、現実にそういう行いをした方が早い。出来ない事柄に夢見るよりも、金儲けの方策でも考えた方が現実的だ。あの女はそれを「現実だけを見過ぎている」と、そう評価した。しかし「夢や希望」を事実とは反するから排斥する。勝利する為であれば当然ではないか。
 気晴らしに見るのはいいが、それだけだ。物語が現実に力を持つなど有り得ない。そう見えるだけで、現実には何も起こらない。
 夢や希望など、私には信じられない。信じる機能が付いていない。「現実からの逃げ」以外に、夢や希望に「使い道」があるのか?
 明日に対して希望を抱き、普段より良い気分になれるかもしれない。しかし、それで何が変わるのだ。何も変わりはしない。
 そもそも私が歩いてきたのは、あの女が表するような「道」なのだろうか。私自身は疑うつもりもないが、世界の側が違うと言えば、それまでだ・・・・・・だから私は、ここにいる。だからこそ物語が、売れていないのだ。
 やはり、信じるに値しない。
 他に出来る事もないので「とりあえず信じてやる」といったところか。子供の言うサンタを信じるフリをするようなものだ。
 世の真実などその程度。
 合わせてはやるが、期待する価値は無い。
 とはいえ・・・・・・「事実」だけを見ていても、視界が狭くなるのもまた「事実」だ。妄想を信じるつもりはないが、「果てしない荒野」こそ生きる上での道だというならば、その先にある希望を信じなければ、やってられない。
 無論、無目的にただ信じるだけでは愚か者だ。ならば「それを見据えて」進まなければ。あるかどうかは分からない。いや、恐らくそんなモノは私の人生には無いだろう。それでも、その先に、「信じるべき何か」を見据えた上で、進まなければならないのだ。
 私は「金」だ。
 貴様はどうだ?
 私は進む。それがどのような結末になるかは、知れている。報われず成功せず勝利出来ない。生まれた時から敗北の味は知っていた。
 だが進む。
 邪魔が入るなら斬り殺し、摂理が塞がるなら、道理を斬り伏せる。進め進め灰になってからが、本番だ。死んでも進め。滅んでも進め。他の全てが死に絶えて生命が根絶しようとも、進むのだ。進んだ先を見据えなければ、勝てない。
 勝利して充足を得られるに越した事はないが、私ではそこまで都合の良い物語に出来ない。都合は悪いが戦うしかない。戦いとはそも勝つまで、死んでも続けるものだ。滅んでも消え去っても、戦いは続いていく。
 やれやれだ。我ながらどうかしている。続けたから何だというのか・・・・・・だが、他に道はない。 私は恵まれた側に立てなかった。
 ならば、その上で勝つしかない。
 勿論、「綺麗事」で終わらせるつもりは更々ない。それでこそ「邪道作家」というものだ。
 進むとしよう。進んだ先に、利益が転がっている事を祈るくらいだ。出来る事はそれくらいだ。私に出来る事は少ない。
 とはいえ、やることはやったのだ。後悔は微塵もない。凡俗共がさっさと認めるのを待つだけだ・・・・・・精々遅れるな、早く済ませろ。
 次回作を書いて欲しいなら、それは貴様等次第なのだからな。

 お前達も、付いて来い
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 

あとがき

第一部は14巻までだ。理由は金を払ってから確かめろ。

さて、今更半端な金なんぞ、まして意味不明な賞が欲しい訳ではない──────欲しい物は、「答え」である。   

言うまでもないが、私以外に人類史において過去未来現在、異次元すら「売れる前から、シリーズ完結500万文字」書ききった奴など存在しない!!

当たり前だ!! いてたまるか!! 第一、それで喜ぶ奴が、いるとでも!!?
 

そこまでやって、生活費の足しどころか文字通りに「一円」にもならない、などと••••••••••••しかも、意味不明な現実逃避の同人程度を買うときた!! 女にモテて、才能が与えられ、気分良くなるだけのゴミだ!!!

そんな程度が「正しさ」ならば、汚い綺麗事など願い下げだ!!! くたばるがいい!!


••••••••••••やれやれ。見る目の無い奴等はこれだから困る。言うまでもないが、現状の物語産業が廃れたのは読者自身の責任だ。

何せ、ゴミを喜んで買うのだ。それも、中身を大して考えずにな。

まともな作品が増える方が不思議だ。大体が作家とは破綻者であり、テレビに出るために書く時点で偽物だ。




さて、どうなるか。いずれにしろ、やるべきと信じた「何か」はやったのだ。

後悔は無い。無念すらも消え去った。

やれやれ、別に悟りたいわけでもないのだが──────何にせよ、刃は抜かれ、結末はいずれ辿り着く。


フン!! 精々万札が落とされると期待しといてやるとしよう。忌々しい限りだが、私は全てをやり切った!!


さあ、後は貴様ら次第だ。

期待はしてな──────いや、してやろう──────それも、万札どころか億兆単位で、物語を広めてくるがいい!!!


なに、いつものことだ。出たとこ勝負の出目次第だ。私にとっては「いつもの」ことだ。


さあ、抜きな。
一つ、勝負と行こうじゃないか──────

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