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タロットカード 11番
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正当性・バランス・判断する
何を正義とするかは人によって違う
考え方・価値観・受けてきた教育
そもそも「正義」とは?
「お前なんか産むんじゃなかった!」
これは若い頃の私に向かって母が叫んだ言葉
それまでの私は親の期待に沿うよう頑張る
「お利口さん」だった
頭の良し悪しはともかく点数や順位で
評価される学生時代は親の期待を
裏切らないよう一生懸命勉強した
そもそも親を超える優秀さを求められるのは
さすがに理不尽じゃない!?と
今なら反論できるのだけれど(笑)
「母の事」という記事にも書いたが
認知症になってからは本当に菩薩のように
穏やかだったが正気の時の母は世間体と
人の目を何より気にする外面重視の人
外面が良い反面家の中では鬼のようだった
物事が自分の思い通りにならないと
ヒステリックに怒る怒る💧
要領が悪く言うことを聞かない私はよく
お仕置きとして手足を縛られ自由に動けない
状態で物置小屋に閉じ込められたりした
(縛ったのは多分勝手に出て来られない様にする為)
頬を叩かれるのは日常茶飯事で
同じ事をしてもその時の母の
気分次第で態度が違う
(母の尻に敷かれていた父は常にダンマリ)
母の場合「叱る」のではなく「怒る」なのだ
因みに妹はそんな私の様子を見て学習し
要領よく母の鉄拳をかわしていた
後に母自身が妹を叩いた覚えは殆どないと
言っていたから間違いないのだろう
さすが次女(笑)
今考えればかなりの虐待だったと思うが
子供にとって親の存在は100%
その頃は親が子供を殴るのは当たり前だと
思っていたから友達のお母さん達は殴らない
と聞いた時は心の底から驚いた
中学・高校になると自分の考えや
そこそこの力もついてきて口ごたえが
激しくなりしょっちゅう衝突した
ある時私も限界で母に手を挙げた事がある
その時だけ今までダンマリだった父が
「親に手を挙げるとはなんだ!」
と怒鳴り私を殴った
は?
子供の頃から今まで母の所業見てきたよね?
私がボコボコにされてもお父さんは
一回も庇ってくれなかったじゃん!
それなのに私がお母さんを一回叩いただけで
怒鳴って殴るんだ?ふぅ~ん…あぁそう
そして全てが嫌になった
私は今まで何のために頑張っていたのか
生まれた意味も今生きている意味も
これから生きていく意味も何も分からない
もう嫌だっ!!
敷かれたレールの上を親の言う通りに歩み
頭を勉強以外に使ってこなかったのだから
自分のことすら分からないのは当然
馬鹿な私は気づくのが遅かった
それまでまぁまぁお利口な優等生として
通ってきた私が一切口を利かず何もせず
表にも出られず“引きこもり”になった
当時は今ほど引きこもりが認知されておらず
世間体第一の母は
「近所中がお前を指さして笑っている!
お前のせいで私は恥ずかしくて
外を歩けない」
続けて
「育ててやったのにこんな思いをさせられる
ならお前なんか産むんじゃなかった!」
私は売り言葉に買い言葉で定型文の
「アンタが外歩けなくたって
アタシの知ったこっちゃねーよ!!
こっちだって産んでくれなんて一言も
頼んでねーだろ!勝手に産みやがって!」
と吐き捨てた覚えがある(言葉遣いよ…💧)
豹変した私に学校の先生達もビックリ
そこから2年程太陽の光を浴びない日々
お陰で私の肌は真白になった
月日が経ち私自身が親になった時
「絶対母のような女にはならない」
「子供には手を挙げない」
と母を反面教師に強く誓った
とはいえ世間体も大事だが母は母なりに
社会から外れていく我が子に危機感を覚えて
いたのだろうなと今なら分かる
40歳を過ぎた頃にやっと
この話をしても涙が出なくなった
ツッパった態度をしていても
やはり傷ついていたんだろうなぁ
「お前なんか産まなきゃよかった!」
この言葉は私の心をこれでもかというくらい
深く抉ったのだと思う
世の中のお母様方
どんなに子供に腹が立っても一線を越えた
この言葉だけは絶対に口にしないでください
自分の正義を押し付けるのもやめてください
どうかお願いします
「産むんじゃなかった」は禁句です
【銀も 金も玉も 何せむに
まされる宝 子にしかめやも】
『万葉集』山上憶良