はじめての読書から、今まで。
初めて意識して本を買うようになったのは、小学生の頃だった。
私の住んでいた田舎は山に囲まれていて、最寄りのスーパーに行こうものなら片道車で40分。信号機は2つしかなく、街灯なんて見当たらない。小学校の全校生徒は30名程で、野生の動物達の方が圧倒的に多いんじゃないか。もちろん本屋なんてもってのほか。家にある母の料理本と父や兄の漫画、絵本、学校の図書室が、私の知る本のすべてだった。
小学生になってやがて夏休み、宿題に読書感想文があった。読書感想文には課題図書がある。図書室においてあるのは数に限りがあるからか、各自購入することが出来た。その方法は、休みに入る数週間前、業者指定の封筒に課題図書の代金を入れて提出すると、後日学校に届き配られるシステムだ。課題図書は1冊じゃない、何冊かある。封筒はA4程の大きさで、そこに小学生1~2年向き、3~4年生向きと本の表紙の写真、あらすじと金額が印字されている。どの本を買うかは自由だ。
小学生の私は、なんとなく気になる本を親に伝えて封筒にお金を入れてもらった。本なら特別な日じゃなくても、買ってもらいやすかったから。
それからいつの間にか私は、長期の休みに入る前に封筒に書いてある本を買うのが楽しみになった。読書の沼にはまったのだろう。やがて、自分の学年よりちょっとうえの学年向きの本を選ぶようになった(それが格好いいと思ったからだ)。
値段がはりだしたのか、親も買うのは2冊までと上限を決めてきて、選書に苦しんだ。持て余した私は始めは興味のなかった図書室へ、足繁く通うようになった。
あの厚さの、ハリーポッターを読んだ時の感動は忘れられない。息も忘れるほどのめりこみ、朝を迎えた読後の爽快感。私は絶対翻訳家になろうと夢みた頃があった。
中学校にあがってから、広がった読書ジャンル。
今までの教科書・児童向け・絵本・伝記・童話という本のジャンルから、SF・推理物・殺人・TL・BL・二次創作・ライトノベルなどに嗜好は変化した。それを助けたのは、この頃から貰い始めた僅かなお小遣いのおかげだ。親を介さずに本を変える自由を手にし、ありとあらゆるジャンルに触れた私の世界は急速に広がった。あと友人の影響から、少年少女問わず漫画もよく読んだ。
この頃の私にとって誰かが作った物語は、知らない世界を知れるだけじゃない。特に小説は、作者の五感と思考がありありと表現されている。話の設定もそうだけど、例えば夕陽の描写。恋する気持ち。涙の味。どれひとつとっても同じ表現はない。作者の経験と感情が物語が生み出し、登場人物の想いや景色、その場面を作者の言葉で描いている。絵や歌も見たり聞いたりしたけど、私にとっては小説が一番、作者の意図が生々しく伝わる気がした。人の頭の中をのぞくのがこんなに楽しいなんて。
私自身も創作意欲がかきたてられ、こっそりノートに詩を書き留めたり、フリーのホームページを作成しそこに公開したり、好きなゲームの二次創作として夜な夜な小説を書いたりした。一番、読むのも書くのも楽しかった頃だった。
高校生になってから、純文学と古典文学。
入学したては、読書生活から少し離れた。毎日部活に行き、ぼちぼち勉強して、新しくできた友人と過ごすのに忙しかった。本は読まなくても、現文の授業は好きだった(小説に限るが)。
古典文学は授業のたび、少しずつ興味が沸いた。といっても現代語訳ばかり読んでいたが、百人一首とか源氏物語とか、昔も今も人の気持ちって変わらないことが面白かった。なんなら、現代人より余程ロマンチックだ。短歌の、限られた字数に込められた想いや情景には、感動すら覚えた。(歴史も平安時代〜鎌倉時代が好き。陰陽師とか日本三大怨霊とか)
ある日模擬入試問題で、昔読んだ純文学が抜粋されていて、試験を忘れて食い入るように読んだ。それをきっかけに少しずつ本を買っては読むようになり、書く気持ちよさも蘇りつつあった。もう自らホームページや二次創作の作成には至らなかったが、高校生でも長期休暇には読書感想文が課題としてある時は、段落も無視して好きに書いた。それがクラスで選ばれたりすると嬉しい反面「根暗バレるからやめてくれ」という気持ちでいっぱいだった。
高校三年生になり、大学入試を控えたある日、面接の練習をして目の当たりにした現実。
副担任から「好きなことは何ですか」と聞かれた時、おずおずと「読書です」と答えた。
副担任は少し間を置いて「悪くないけど、その回答はいくらでもいるな。具体的に個性ださなきゃ」と言った。
瞬間、ジブリ映画名作の〝耳をすませば〟で、雫が言っていた台詞がよぎった。
『俺くらいのやつ、たくさんいるよ。あいつが言ったの。
あいつは自分の才能を確かめにいくの。
だったら私もやってみる!決めた。私、物語を書く』
雫のお父さんは、物語を書く雫にこう言った。
『人と違う生き方はそれなりにしんどいぞ。
何が起きても誰のせいにも出来ないからね』
そういえば昔、祖母に言われたことがある。「こんなに本が好きなら、一冊くらい書けないかね」
期待してくれた嬉しさより、胸が張り裂けそうになった。一度だけ、最初から物語を作り、最後まで書いたことがある。中学の頃に当時仲の良かった友人に贈った。それきりだ。
私は物語を書いて悟った。才能を確かめたのだ。
そして気付いた。ゼロから言葉が溢れてこないことに。
私はあっち側の人間じゃない、小説家にも翻訳家にもきっとなれない。
首元に冷水が流れていくようで、夢から覚めた。私は何か特別になれるかもって、浮かれていただけだ。
副担任との面接練習で、私は多分大学には本番落ちるだろうなと思った。そうなった。
なんとなくなった大学生時代、ありあまる時間で恋愛小説を読む。
バイトして稼いだ生活費を差し引いた残りで、飲みに行くか遊びに行くか、本を買った。この頃はもっぱら小説ばかり、それも恋愛小説が主だった。小中高と、陰気な片想い(話しかけもせず、ただ姿を見れれば幸せ。推しを応援するに近い。ただ意気地無しなだけ)ばかりしてきた私に、少々色恋があったからか。
以前作者が表現した世界観に翻弄されていた私は、この時は登場人物に肩入れするほど、自分が主人公かと勘違いするほど、世界にのめり込むようになった。物語の外で純粋に楽しむんじゃない、物語の中にいる。私も胸が千切れるくらい、共感する。恋の始まりのドキドキ、嘘を吐いた日の後ろめたさ、二人のあとの一人は、出逢う前の一人と全然違うこと。この小説は何で私の気持ちが分かるのか、これは私のために書かれたとしか言いようがない、とまで思うものもあった。僅かな恋愛経験から、私の恋愛小説の読み方は〝憧れ〟から〝リアル〟へと変わったのだ。
社会人になって、読書以外の娯楽を知る。
金銭的余裕が生まれたらさらに本を読んだ。映画もよく見たし、音楽もたくさん聞くようになり、ライブに行き始めた。
この時もよく読むのは恋愛小説、あと仕事に関する小説、ミステリー。現実から旅したい時は、設定の細かいファンタジー。偏見もいいとこ、と言えるくらい、好きな作家の作品ばかり読んでいた。元々美味しいと思った食べ物は、一日3食どころか次何かにハマるまで食べ続けられるような体質で、しかも凝り性なので、作者の処女作から最新の単行本まで読まないと気が済まなかった。
でも、好きな作家も随分たくさんいた。そして、現代短歌に良さを感じるようになり、さらに読書の幅は広がった。あと詩も。特に銀色夏生さんの文庫本は、古本屋を巡って揃えた。あんまり偏るのも誰だったか、不健康と言われたこともあったのを気にして、芥川賞とか直木賞、本屋大賞を選んで読むことも増えた。
SNSで始めた読書録から、得たもの。
そしてこの頃はSNSが主流になり、周りと繋がりたくてすぐに始めた。特にきらびやかでもない日々なので、あげることがすぐなくなり、読書記録をポツポツあげていった。少し背伸びしてオシャレに写真を撮り、本を読んだ感じたものを自分の言葉で綴る。私の頭の中が言語化されて、中学の頃より遥かに世の中の目にさらされる。
その言い方は大袈裟で、ちょっと気恥しいけど(特にリア友には)、少し楽しい。こんなに簡単に、表現できる場所があるなんて、いい時代だ。読むことばかりで想像も妄想を働かせ内側ばかり色づいた世界が、言葉をもって外側に放たれた途端、より鮮やかにくっきりと形を成した。あっち側とかこっち側とか意識しない、新しい世界が急速に広がった。ただ、私はワクワクが止まらず、高揚のままにSNSの投稿を重ねていった。
しばらくして、SNSを見た職場の先輩からおすすめの本を聞かれた。夜更けまで、本棚とにらめっこ。ここに並ぶのは私の宝だけど、安易に薦めて大丈夫か。伝わるか、私、無駄に傷つかないか。そうして選んだ一冊は「面白かった。次も何か貸して」と言われて、自己満足な表現を続けて良かったと本気で思った。
後輩に「前の投稿とか消さないでくださいね。読み返すんで」と言われた時は、平気な顔しながら本当は泣きそうになった。帰りのバス、震える指で私は自分のSNSを開いた。
勘違いするなと言い聞かせる。烏滸がましいと思う。
だけど、私もしかしてほんの少し、誰かに影響できたのかな。
今日、確かに実感があった。嬉しかった。
私はいつも受け取る側の人間で、何かを与えることは出来ないと思っていた。
特別じゃなければいけないと思っていたんだ。
でも、思えば、そうだ。
アーティストとして表現している人がすべてじゃない。
身近な人と過ごす毎日、「ありがとう」を伝える。楽しいを共有する。LINEする。今日一日のことをSNSにあげる。ものを、言葉を、創る。プレゼントする。
コミュニケーション。それは一種の表現の場じゃないか。
私たちは日々なにかしらを受け取って、同じ様に与えていたりする。
それは等価交換ではなくて、貰いすぎているとすら思う。
私は幾度となく他者の存在に救われた。
友人。恋人。家族。作家。アーティスト。見ず知らずの人。
その存在から受けとった、大切にとっている言葉がある。景色がある。時間がある。
私も知らないうちにその一端になれていたとしたら、それはこれまで重ねてきた読書という経験をはじめ、その他諸々私に影響したものたちのおかげ。
数々の宝ものが私を通じて、光って、誰かに届いている。
すごく、感慨深い。
どうして急にこんなこと思ったかというと、
久しぶりに友人からおすすめの本を聞かれたのと
この本を手にしたから。
はじめてを、思い出した。
表紙を開く特別な瞬間。
あなたの薦める本を読みたいと言ってもらえた瞬間。
今までを振り返るいいキッカケになった。
読書、してきて良かった。
長々とこの駄文を、すべて読んでくれた方がいたら、ありがとうございます。
これからも好きに読んで、好きを残していきたいな。
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