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少年サッカーコーチが考察する日本スポーツ界に蔓延る根性論の根(ね)

三育主義

本記事のテーマは、日本スポーツ界に蔓延る根性論について。

まず始めに、教育から掘り下げて記していきたいと思います。

日本の教育現場には、明治時代初期から導入されたと言われている三育主義があります。

三育主義とは、イギリスの哲学者、故・ハーバード・スペンサー氏(1820年-1903年)が提唱した教育思想であり、『知育』『徳育』『体育』の三つからなる概念です。

知育には、下位概念として数学や国語などの体系化された学問があり、学校教育における基礎として繁栄してきた歴史があります。

しかし、体育に関しては、下位概念が欠落しているだけでなく、実質的に徳育の下位概念としての役割も担ってきた経緯があります。(精神の鍛練として)

本来、三育主義の本質は、三位一体であり、何れにも包含しているものの、先述した通り、日本における体育(スポーツ)の地位や役割は、三育主義が導入された当時の影響を強く受けてきたと考えられます。(時代背景からなるスポーツを人間教育とする思想)

日本と他国のスポーツ行政

又、スポーツの地位に関して、他国と比較して顕著なのがスポーツ行政です。

サッカー先進国である欧州各国のスポーツ行政はスポーツ省で所管しているケースが多いのに比べ、日本では文部科学省や厚生労働省などが縦割りで担当してきました。(2015年10月に文部科学省の外局としてスポーツ庁が誕生したばかり)

この違いがスポーツの地位やスポーツに対する考え方にも影響を及ぼしていると考えています。(善し悪しの話ではなく、既成事実として)

スポ根文化の日本スポーツ

平成が終わり、令和を迎えた今、ジュニア年代でサッカーを指導する草の根の指導者として、教育やスポーツの在り方について再考し、次代に向けアップデートしていかなければならないと感じています。

なぜならば、メディアを通して、耳(目)にするのは、スポーツ各界の不祥事や権力闘争、体罰問題などの悲しい現実があるからです。

果たして、諸悪の根源はどこにあるのか?

専門競技に留まらず、日本スポーツの文化や歴史を学ぶ必要性があります。

そこで今回、日本のスポーツを語る上で、歴史が長く、日本語化された野球は無視できない競技です。キーパーソンとなる人物として、学生野球の父と呼ばれた故・飛田穂洲氏(1886年-1965年)について簡単ではありますが、紹介していきたいと思います。(以下敬称略)

『一球入魂』

生前、飛田穂洲が遺し、今日の日本球界のみならず、日本スポーツ界(球技全般)に継承されている言葉に『一球入魂』があります。

メンタリティを形成する一要素として、格言や通説など“言葉”が与える影響は、計り知れないですが、上記は、日本人の深層心理に刻まれた言葉だと考えています。

飛田穂洲が提唱した野球道

①練習“量”の重視
②絶対服従!
③精神の鍛練


上記は、飛田穂洲が提唱した野球道の3本柱。

飛田穂洲の指導は、とにかくスパルタ。血ヘドを吐く練習で知られ、練習時の『水は飲むな!』等、現代の常識では考えられない理屈がまかり通っていた時代です。

そして、太平洋戦争直前には、監督や先輩への絶対服従を強調し、野球は兵隊養成にも有用であるとの主張をしています。

しかし、真意は、アメリカ発祥のベースボールを『敵性競技』と見なす軍部に対抗するための苦肉の策であり、日本野球を守る為であったと言われています。

(※太平洋戦争の真っ只中である1943年には野球用語から英語を全面的に排除し、日本語化が義務付けられている)

このように、“言葉”を受け取る際に、言葉尻や表面だけを捉えるのではなく、時代背景や行間を読む事で理解を深める事が出来る。

尚、飛田穂洲の言葉を咀嚼し、遺志を受け継ごうと尽力されている人物として、桑田真澄さんがいます。(以下敬称略)

桑田真澄が提唱する新・野球道

①練習の“質”の重視
②尊重(リスペクト)
③心の調和(バランス)


桑田真澄が提唱する新たな野球道は、上記の3本柱。

飛田穂洲の野球道を全否定、全肯定する事なく、現代に合わせた形でアップデートを試みている。

伝統という幻想から目を覚まし、今まさに、スポーツ各界に求められている姿勢ではないでしょうか?

最後に

軍国期からのスポ根文化がもたらす弊害は、冒頭にも記したスポーツを人間教育、精神の鍛練とする思想及び、それらからなる歪んだ指導です。

アメリカの著名なスポーツライターである故・ヘイウッド・ヘイル・ブルーン氏(1918年-2001年)は『スポーツは人格を形成するものではない。人格をさらけ出すものである。』という名言を遺していますが、筆者自身、スポーツをする(させる)主目的が人間教育や精神の鍛練では本末転倒になりかねないと考えています。

ただ、一方で、副次的効果として、スポーツを通じた人としての成長は、結果論的にあるとも考えています。

しかし、それは『私達が人間であるからであり、スポーツだからではない。』という事実を忘れてはいけません。

そして、だからこそ、スポーツをする上で、人間が成長する為には、人間性や人間力が重要であるとも言えます。

以前、『サッカー(野球)をする人に悪い人はいない!』という盲信的な発言を耳にした事がありますが、残念ながら、中には悪い人(社会的に)もいます。スポーツで人間教育は、幻想かもしれません。

冒頭で、体育には下位概念が欠落していると記しましたが、サッカーの場合、サッカー(サッカーという教科そのもの)を学ぶ必要性がありますし、サッカーコーチの仕事は、サッカーを教える事です。当たり前の話です。

罰走や連帯責任の文化は、サッカーコーチがサッカーを教える事(指導者が専門競技を教える事)を怠っているとも言えます。

又、スポーツを一緒くたにする思想・思考は、短絡的で野暮です。

無論、『サッカーはスポーツであり、サッカー選手はアスリートである』という見地もあります。例えば、フィジカル強化=鍛練の重要性は、別軸で存在します。

少々、話が飛躍しましたが、スポーツを学び、Playする(遊び、楽しむ)事が何よりも大切です。

『好きこそものの上手なれ』

“努力”の上位概念は、“夢中”です。

楽しみながら、学ぶ。学びながら、楽しむ。

“楽しむ”と“学ぶ”の両輪を回す事が大切であり、それこそが指導者の役割だと考えます。

駄文、ご高覧頂きありがとうございました。

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