プロも憧れるプロサッカー選手KINGカズから考察する“プロフェッショナル”とは?
はじめに
本記事のテーマは、プロフェッショナルとは?
筆者が敬愛する三浦知良選手(以下敬称略)へのリスペクトを込めつつ、プロフェッショナルについて考察してみたいと思います。
本題へ入る前に今回、キングカズに絡めた記事を執筆するに至った経緯について説明させてください。
カズは、今年で55歳、17年間在籍した横浜FCを離れ、プロ37年目を迎える今シーズンから新天地を求め、JFL(4部相当)の鈴鹿ポイントゲッターズ(以下鈴鹿PG)へ移籍を果たしました。
そんな新たな挑戦を始めるタイミングであり、鈴鹿PG移籍に関する記事やニュース(動画)を見る度に、一部ではありますが、リスペクトに欠けた批判コメントや誹謗中傷、これまでの功績をもこけ下ろすような冒涜を目にしてしまったからです…
微力ではありますが、これは、一ファンとしての釈明であり、キングカズの全盛期を知らない世代が増えた中で後世に語り継いでいく必要性を感じたからであり、プロリーグがない時代・W杯に出られない時代から日本サッカー界を牽引してきたキングカズの歴史は、日本サッカー界の歴史そのものであると考えているからです。
又、これまでの記事でも記してきた『とは理論』に基づいて、プロフェッショナルとは何かを再考したいと思います。
キングカズの誕生秘話
まずは、改めて、キングカズの功績について振り返りたいと思います。
1993年に日本初のプロサッカーリーグであるJリーグが開幕してから29年が経ちますが、日本にプロサッカーがない時代からプロサッカー選手になる事を夢見て、15歳で地球の裏側ブラジルへ渡った少年が後の“キングカズ”こと三浦知良です。
当時、東海選抜や県選抜はおろか、市選抜にすら選出歴のなかったカズは、体が小さく、地元の静岡学園高校入学後も目立った活躍を残せずにいた中で、プロを目指し、決意したブラジル留学に際して、語り草となっている有名なエピソードがあるので紹介します。
中学時代から進路希望調査表には『ブラジル』と書いていたという逸話も残っていますが、いずれもキングカズらしいエピソードです。
王国ブラジルで叶えたプロサッカー選手としての栄光
ブラジルに渡った3年後にプロデビューを果たすカズですが、最初にプロ契約を結んだクラブは、あのサントスFCでした。W杯3度優勝の英雄ペレが全盛期を築いた名門であり、現代では、ペレが着けたセレソンの10番を引き継いだネイマールが代表格として有名ですが、多数のブラジル代表を輩出しているサッカー王国が誇る強豪クラブです。
本記事では、ブラジルに渡ってプロ契約を結ぶまでの3年間は、読者のご想像に託すとして割愛しますが、ポルトガル語(ブラジルの母語)を習得する等、ピッチ内外含めて、並々ならぬ努力があった事は容易に想像が出来るかと思います。
1988年、サンパウロ州のキンゼ・デ・ジャウーへ移籍を果たしたカズは、強豪コリンチャンス戦で日本人としてリーグ戦史上初となるゴールを記録しました。
ブラジル屈指の名門を相手に田舎の小クラブが3-2で勝利するというジャイアントキリング(番狂わせ)を起こしたのです。
この試合は、ブラジル全土にテレビ中継され、センセーショナルな活躍と共に『Kazu』という名前は瞬く間に知れ渡りました。
又、その功績を称えられ、ジャウー市からは、名誉市民賞が贈られています。
更には、同年、ブラジルで最も権威あるサッカー専門誌『プラカー』の年間ポジション別ランキングで左ウイング部門の第3位に選出されています。
当時、ブラジル代表の多くが国内でプレーする時代での快挙でした。
そして、キングカズのブラジル挑戦において、特筆すべきは、サントスと二度契約している事です。
一度目の契約では、出場機会に恵まれず、地方クラブへのレンタル移籍を皮切りに武者修行として、移籍を繰り返しました。
プロサッカー界、とりわけ世界的なビッグクラブでは日常茶飯事の若手の島流しです。
大抵の選手は、片道切符を渡され、呼び戻される選手は、ほんの一握り。
しかし、カズは、自らの価値をプレーと結果で証明し、名門サントスFCへの復帰を果たしたのです。
サントス復帰後は、主力として活躍し、強豪同士のビッグマッチ・パルメイラス戦で決めたゴールは、『プラカー』の表紙を飾る等、王国ブラジルで誰もが認める成功を収めました。
その後、プロリーグ開幕の機運が高まる日本でプレーする事を選択し、帰国しますが、時を経て2010年には、キンゼ・デ・ジャウーから正式な獲得オファーが届く等、今なおブラジルでの栄光は、伝説として語り継がれています。
世界各国のスーパースターが集結したJリーグ創成期
現役のブラジル代表キャプテンや各国代表の10番、W杯得点王、バロンドーラー等々、世界各国からスーパースターが集結したJリーグ創成期において、キングカズの華やかさは、彼らにも引けを取らず、名門サントスからの逆輸入選手として、ブラジル仕込みの華麗なドリブルを披露し、人々を魅了してくれました。
1991年Jリーグの前身JSL(日本サッカーリーグ)での年間MVP、1992年ナビスコ杯(現ルヴァン杯)大会MVPに続いて、1993年には、開幕を迎えたJリーグで初代年間MVPに輝いています。
世界最高峰イタリア・セリエAへの挑戦
W杯初出場の夢を目前で経たれたドーハの悲劇を経て、翌1994年には、更なる成長を求め、世界最高峰イタリア・セリエAに挑戦します。
順風満帆な国内での生活、安定ではなく、より厳しい環境を選択したのです。
カテナチオ(伝統的な守備戦術)を誇るイタリアでは、屈強なディフェンダーを相手に苦戦を強いられます。
ACミランとのセリエA開幕戦では、前半途中、フランコ・バレージと空中戦で競り合い、鼻骨骨折と眼窩系神経を損傷。一ヶ月の戦線離脱となり、洗礼を浴びる形となってしまう。
そんな苦境の中、怪我から復帰したカズは、歴史ある伝統の一戦を迎え、アジア人として史上初となるセリエAでのゴールスコアラー(得点者)となります。
プロサッカーは、地域に根差し、地名を冠した地域スポーツとして世界中で繁栄(Jリーグも欧州の理念を踏襲している)してきましたが、ダービーマッチは、サポーターの帰属意識が顕在化する一戦であり、街を二分するクラブがプライドを懸けて激突する“決勝戦”のようなものです。(歴史のある本場では、より色濃く‥)
そんな伝統的な一戦でカズは、ゴールを決めました。世界が遠かった当時、日本サッカー界においても歴史的なゴール(一歩)となりました。
しかしながら、1年間のイタリア・セリエA挑戦でカズが残した成績は、21試合1ゴール。
数字上、“成功”を収めたとは言い難いし、ジェノアの胸スポンサーには日本企業のケンウッドがついた事でジャパンマネーを目的とした『ビジネスだ!』と揶揄されました。
ただ、興行であるプロスポーツの世界においては、スーパースターの宿命であり、証明でもあります。カズの挑戦が成功か失敗かを論じるのは外野の戯言に過ぎません。
尚、カズのセリエA挑戦における真価は、国内復帰後の活躍(進化)にこそあります。
ストライカーとしての進化
1995年夏、セリエA挑戦を経て、Jリーグ復帰を果たしたカズは、より貪欲に、ゴールを追い求めるストライカーへと進化を遂げます。
1995年シーズンは、途中加入の為、半分以下の出場試合数でしたが、23ゴールを決め、得点ランキングの上位に名を連ね、堂々のベストイレブン選出。
そして、翌1996年には、同じく23ゴールを決め、自身初となる得点王に輝きました。
ゴールを量産する事でイタリア挑戦の成果を示すと同時に、ゴール=目に見える結果(数字)こそ攻撃的なポジションに求められる仕事であり、価値なのだと後進に示してくれたようにも思います。
よりストイックに、時にエゴイスティックに結果を追い求める姿勢に影響を受け、憧れを抱いたサッカー少年は、数知れず。筆者もその中の一人でした。
ここからは、あくまでも推論になりますが、カズ自身、影響力のある選手なので、後進としてセリエA(欧州)に挑戦した中田英寿氏や本田圭佑選手にも大きな影響を与えたのではないでしょうか?
とりわけ、二人は中盤の選手でパスの出し手としてチャンスメイクを得意とする司令塔タイプでありながら、欧州挑戦一年目からゴール(数字)に拘る発言、姿勢(プレー)を見せています。
異国の地で助っ人外国人として成り上がる一つの方法、周囲の信頼を勝ち取る方法は、ゴール(数字)だという結論の合理性は、歴史が証明しています。
何よりも、前例を作った功績は、多くのサッカー少年に夢を与え、後進に“実現可能な目標”を残しています。
(同列に並べられる次元の話ではないですが、筆者自身もイタリアへ短期留学しました。)
『日本サッカーの力になりたい』と語り、ブラジルから帰国したJリーグ創成期から今日まで、日本サッカー界を牽引してきたキングカズは、サッカー人気を支えた最大功労者なのです。
プロサッカー選手像
キングの愛称で親しまれ、ピッチ上での華々しいプレーと共にピッチ外でも憧れの的として、注目を集めた三浦知良。
“いい車に乗って、いい時計を身に着ける”
日本サッカー界でアイコンとしての役割を担い、ド派手なファッションから、出で立ち・振る舞い・発言含めて、多くの人々を惹き付け、魅了し、その影響力を存分に発揮してきました。
興行であるプロサッカーは、人気商売の側面もあり、キングカズのように人を呼べる選手の存在は、クラブ(チーム)に利益をもたらします。
スタジアムや練習場には、ファン(観客)やメディアが集まり、広告塔として、スポンサーを獲得します。即ち、入場料収入とスポンサー収入の財源確保です。
経済的観点から鑑みれば、需要と供給が成り立つ時点でプロ選手としての存在価値は、多分にあり、揺るぎませんが、下記は、引用記事のインタビューより一部抜粋したものになります。
カズは、自身のネームバリュー・立場・役割を誰よりも理解しており、37年目を迎えた唯一無二にして、輝かしいプロキャリアがあるからこその矜持があります。
Jリーグ創成期からサッカー選手の地位向上に尽力してきたキングカズだからこそ、そのド派手なファッションにさえ戦略的な意図を感じさせますが、横浜FC時代、監督との個人面談では、自身の長所を問われ、『カズである事』と答えています。
又、選手の地位向上と言えば、フットサル日本代表選出時に投じた一石があるので、紹介します。
当時、日本サッカー協会(以下JFA)から支給される給料も賞与も無かったフットサル日本代表において、カズは、代表招集の打診を受けた際、JFA幹部に対して、選手全員を対象にした勝利給を求め、直談判しています。
そして、1勝につき1人5万円の勝利給が初めて支給されることになりました。実際には、W杯グループリーグ・リビア戦での1勝による5万円に加え、決勝トーナメント進出ボーナスとして一人15万円程度が支給されたとあります。
サッカー日本代表と比べると微々たる額かもしれませんが、プロとしての誇り、日本代表としての誇りを先頭で示したエピソードです。
プロフェッショナルとはなにか?
キングカズは、日本サッカー界において、唯一無二のプロサッカー選手です。
前章の冒頭に記した“いい車に乗って、いい時計を身に着ける” は、あくまでも結果論であり、外野が抱くパブリックイメージですが、メディアが築いたスターシステムによって産出された弊害(悪影響を及ぼす側面)もあります。
例えば、上辺だけをなぞる“ニセモノ”が出現しかねない固定観念でもあります。
キングカズの場合は、プロサッカーがない時代からJリーグ誕生→W杯誘致→W杯初出場(ジョホールバルの歓喜)など日本サッカーの夜明けとも言える激動の時代背景、唯一無二にして輝かしい実績を加味すれば印象も異なりますが、結果を出していない無名な若手選手が身なりを整え、装飾品で着飾る事ばかりに注力すれば、『身の程を弁えろ』と、言いたくなるでしょう。
何よりも、群雄割拠のプロの世界では、“ニセモノ”は、淘汰され、自らの実力で築き上げた実績と信頼の元に勝ち得る称号こそ、真のプロフェッショナルなのです。
先日、鑑賞した中村憲剛氏(以下敬称略)のドキュメンタリー映画に印象深い言葉があったので引用します。
直近5シーズンで初優勝を含む4度のJ1リーグ優勝を成し遂げ、史上最強の呼び声も高い川崎フロンターレですが、中村憲剛ら選手達のピッチ外での献身は特筆に値します。Jリーグの理念(地域密着)をクラブ一丸となって体現し、プロクラブの存在意義やプロ選手像のなんたるかを考えさせられました。
川崎フロンターレや中村憲剛を引き合いに出しましたが、キングカズと共通して言えるプロフェッショナリズムは、ピッチ内外含め、何事にも自身の最大出力で取り組む姿勢にあります。
又、チームスポーツであるサッカーにおいて、そのプロ意識は、若手のみならずベテラン含めて他の選手の模範となり、組織において重要な役割を担います。
とにもかくにも、新天地で55歳・プロ37年目を迎えたキングカズの今後の活躍に注目です!
追記
JFL開幕を迎えた鈴鹿PGは、キングカズ先発予告も奏功し、観客動員で過去最多記録を大幅に更新。
2019年GWに開催された三重ダービーでの1,308人に対して、3,512人を上回る4,820人を記録しました。開幕戦に関して言えば、昨季の569人から約8倍増となっています。
又、入団会見時には空いていた胸スポンサーも埋まり、開幕戦の翌日にはスポーツ紙の一面を飾っています。
連日、各メディアで報じられ、衰えぬ人気からプロサッカー選手としての存在価値を示している中で特筆すべきは、スタメン出場(65分間プレー)を果たし、チームが完封勝利を収めた事です。
プロサッカー不毛の地から日本サッカー界を盛り上げ、再びJリーグの舞台を目指すキングカズの新たな挑戦・物語に改めて、注目したい。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?