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自分軸の作り方#80 泣いていた幼い自分と、その後の自分


子供の頃、一番ショックだった出来事は何かと聞かれたら
小学生だった頃の、こんな出来事を語るだろう。

 私には、4歳年上と5歳年上の姉がいる。
2人は年が近く、いつも一緒に遊んでいて
少し年が離れていた私とは 一緒に遊ぶことがほとんどなかった。

私が小学校高学年だったある日のこと。

当時、2人の姉は高校生で
付き合い始めた彼氏のこととか
学校の話、バイトの話、隣の部屋でよく楽しげに喋っていた。

当時、学園ドラマに出ていた女の子が人気で
その子が雑誌の表紙になったりしていたのだけれど

隣の部屋から、こんな話が聞こえてきた。

「この子可愛いよね〜💕」
「ねー❗️こんな妹が欲しいよね」
「ほんとほんと!あんな妹(私のこと)いらないよね〜」

そんなふうに私をディスってる声が丸聞こえ。

ショックだった。


可愛げのない妹です。わかります。

でも、あんな妹いらないって

酷すぎる。
悔しい。
悔しい!

怒りが込み上げてきた私は
姉たちがいなくなった部屋に入り
ぐわぁーっ と
大泣きしながら、めちゃくちゃに散らかした。
本棚の本を床に落とし、
机の上にあったものを投げ飛ばし…


しばらくして部屋に戻ってきた姉が

「わっ、何これ〜‼️」

と叫んでる声を、ベッドにもぐったまま知らん顔で聞いていた。

これまでの人生、いろんなことがありました。
でもやっぱり いらない妹って言われたことは
深い傷だったなぁ と思う。

中学生時代の私は、すごくアンバランスで
イライラしやすかった気がする。

いらない存在と言われたことが影を落としていたのかどうか、わからないけれど

友達の言動にイライラ。
仲良くしている友達が、休み時間に私のところに来なくて他の子と楽しそうにしているとイライラ。

イライラの原因を友達のせいにして
友達を責めて、喧嘩にもなった。

そんな私は一部の女子にすごく嫌われていて
外靴を隠されたり
上靴にたくさん画鋲が入っていたことも
何度かあった。

でも、私の神経は 図太かった。
画鋲入りの上靴を
教室の机の上でひっくり返し
みんながみている前で画鋲の数を数えた。

こそこそ画鋲を靴に忍ばせる誰かが
自分のやってることを恥じたら良いと思っていた。
そんな負けず嫌いな面があった。

 わたしには 隠された靴を探してくれる友達がいて、その時の私を支えてくれた。

そして中3の頃には 嫌がらせをされることが
なくなった。

靴を探してくれたメンバーは、
いじめを受けていた子もいて、
その子を支えた友達が結束して
いつの間にかクラスの最大勢力になっていた。

今思うと、カッコいいグループだったな。

その時、一緒に靴を探してくれた友達とは
今も仲良くしてもらっていて
帰省する度に飲みにいき
女子旅に行くこともある。


姉たちに嫌われて 
荒んでいた私を癒してくれたのは
友達の存在だったと思う。

人との付き合い方もわからなかった私を
見捨てることなく 一緒に過ごしてくれた、
大切な友達。

あの頃の私は
ただ、存在を誰かに認めて欲しくて、
とんがっていた。
そのとんがりを
ふんわり包んで丸くしてくれたのは
やっぱり友達だなーって思う。

「あんな人、いらないよね」と言われることが どれほど人を傷つけるかわかるから

大人になってから
孤立してる人をほっとけない人間になったような気がする。

どんなトラブルメーカーと呼ばれる人に出会っても
「この人がいなければいいのに」って
思ったことはなく、
とりあえず歩み寄る努力をして、
その人が組織の中に溶け込める努力はする私になって
現在に至る。

そう思うと
高校生だった姉たちの心ない言葉は

いまの私を形作ってくれた研磨剤的なものだったかもしれないな。と思う。

 現在、姉たちとは、とても仲良くしているし 
姉たちが何か困った時には、姉の方から相談してくる。

悔しくて悲しくて泣いていた 幼い頃の私を
思い出して、
悔しいねーって抱きしめることができたのは割と最近のことだ。

ずっと瘡蓋のように残っていた傷が 
ちゃんと癒されたのは
不登校になった子供たちと 向き合えたことの
副産物だと思う。

辛かったけど
辛さの向こう側に
幸せが宿ってるんだなーと

振り返ってみると 感謝の気持ちが湧いてくる。


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追伸

先週、夫の父親が亡くなりました。
記事をなかなか書けずにいましたが

初七日を終えて
少し落ち着いて来ました。

義父のことも、後日語りたいと思っています。

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