見出し画像

008 モスクワは涙を信じない。【明石さんのスパイ飯大作戦】

 俺、明石元二郎のモットーはひとつしかない。

 ”働きながら遊び、働きながら飲む”
 
 飲み屋のあたりはずれ?そんなのはどうでもいい。まずくてもうまくても話のネタにはなる。けれど、どんな店でもひとり床に着いたとき、にやにやできるものがいい。ひとりさむい布団の中でも、群像にまじり飲み屋の卓子でつっぷし眠る夜でも、目を閉じたまぼろしとうつつのはざまで、希望に満ちた明日を夢見られるものがいい。
 諜報というのはどれだけその街に溶け込めるかが問題だ。飲み屋で酒を飲み交わして美味い飯を食う。それ以上にうってつけの場所がどこにあると思う?他にあったら教えて欲しい。
 ロシアはサンクトペテルブルグ。白い息を漏らしながらウォッカ片手に食う屋台のピロシキ。フランスはパリにジュネーヴそして修道院ビール。ラクレットチーズが溶岩の如くそそぎこむほくほくのじゃがいもは地獄の業火のように熱くとろけて舌を喜ばす。
 スウェーデンはストックホルム、そして台湾の八角の風味がよく染み込んだ甘辛の豚の角煮。汁を白米にぶっかけてぐしゃぐしゃにしてかっこむ。

 落花流水。盛者必衰。
 花は散り、水は流れる。猛きものもいずれは滅びる。

 けれど生きるのを諦めたわけじゃあない。
 だから俺は遊びながら働く。そして飲む。

ーーーーーー

 

008 モスクワは涙を信じない。

 モスクワ人は涙を信じないという。商売人が多く、喧嘩の堪えない血気盛んな街らしい。(居酒屋の親父のギャリィは街が元気な証拠だと誇らしげに言っていた)さて実際はどんなものだろう。
 遅れてやっと着いた駅を出て最初に目にしたのは深い夜に雪が溜まり、音という音、影と言う影が吸い込まれたレフォルトヴォというところだった。雪が風に吹かれてヴェールを作り、その向こうに立つ黒い塔――は時計台のようだ。人魂のように丸い光に時計盤が浮かびさした時間は午前一時過ぎ。
 雪が止んだりちらちら降ったりを繰り返す中、ねずみの巣穴を探すように歩いていると細い横丁を見つけた。木造らしい小屋がならんでかぼそい灯火が小さな窓から雪に映っているのが、つぎつぎ、最期の呼吸を終えるように静かにふっと消えてゆく。
 ――まずい。寒くて、そして腹が減って死ぬ。
 やとった案内人はとっくに帰っていた。
 食い物のにおいがして明かりのついた小窓を覗いてみると、くしゃっとつぶれたつばのついた帽子。擦り切れた外套。リュムカを片手にうつむく男たち。ろうそくのやわらかな灯りがその髭を濃く見せた。世界中の恋人たちの心中話をいっぺんに聞かされたような雰囲気……だが、空気をあえて読まない男。それが僕である。
「ごめんください……」
 きぃっと木の扉をできるかぎり小さくあけて、すべりこむように急いで入って戸を閉めた。遠くでは時計台の鐘が二度鳴っていた。
 三人の男がいっせいに、ぎょろりと招かれざる客を見る。
 明らかに地元のものではない僕のいでたちだ。想像はしていたのでひるむことはない。時間は午前二時。男たちはそれぞれ体型や雰囲気が違っていたが、彼らの顔つきはみな同じだった。
「……なんだ、お前は」
「”列車が遅れて””見知らぬ土地で迷って””泊まる場所と食うものを”」
 装ったのではなく、寒さと空腹で本気で片言になった。部屋の暖かさはそこそこだったが、風が当たらないというのはこれほどにありがたいことなのか、南国にいるように心がほっとした。なぜか狂い鳴く鶏の声が遠くで聞こえる。気が違いたくもなる。こんなに寒く淋しい夜では。誰も口を開かない。無理か、他を探そう。諦めかけた時だった。
「ぅおーーーーーーーーん」
 たまげた。突然男のひとりが立ち上がり、犬の遠吠えを真似し始めたのだ。それを聞きつけた周りの家々が突然さわがしくなり、真向かいの家の犬までつられて泣き出した。
「出た出た!がはははは!さすが野良犬のリーダーだな」
「おい、やめろよ。また隣の婆さんにどやされるぞ」
 しかつめらしい面々が破顔して、ろうそくの灯りまで何倍にも燃えたち部屋が明るくなった。どうしたらよいかわからず立ちんぼしていると、
「すぐ近くに友達んちがあるんだ。小さいが飲み屋付きの宿屋をやってんだ。一晩くらい泊めてくれるさ。連れてってやるよ」
「か、かたじけない。僕はアバズレーエフだ」と、一応偽名を伝えておく。
「俺はシーリウスってんだ。さ、案内しよう。あれが魔女の家。あっちは市場」
 こんなにも暗く淋しい雪の夜にシーリウスの声があんまり陽気に響くので、この世には悲しいことなんてなにひとつでもないのじゃないかと思えてくる。靴底は氷の道にすっかり冷えて針の上を裸足で歩くようなのに。

 着いたのは本当に商売をする気があるのかというほど、目立たない小さな店だった。
「喜べ、客だぞ」
 シーリウスの声に主人らしい男が眠たそうに部屋の奥からやってきた。
「ああ、またお前さんか――適当に座ってろ」
 のたのたとした動きの割にいやそうでもないので安心した。部屋の隅にギターが置いてある。さわったことはないが、ペテルブルグでもジプシーの演奏を聴いたことがあった。見ればギターの周りにコの字に長椅子があり、小さな丸い卓子がすこし空間を開けてならんでいた。床がそこだけはげている。はげしく床を踏み舞う踊り子たちが見えてくるようだ。
「これでも腹のなかつっこんどけ」
 と、出されたのはキャベツのシチーとウォトカ、それと黒パンが数切れであった。すすると空腹にしみわたる、やさしい味がした。ふと、自分がシチーをすする時、味噌汁を飲んでいるような気持ちになっているのに気づいた。
「ふふ」
 くすぐったいなんとも言えないうれしい気持ちで黒パンをちぎり、口に放り込む。数回その硬さを楽しむように咀嚼し、ウォトカをふくむ、と、衝撃が走った。
 思わず僕はシーリウスを見た。
「ど、どうした。まずいか」
 違うのだ。驚きで口をひらけないのだ。
「こんなにうまい黒パン食べたことがない」
 なにって、粉の味が全然違う。
「ああ、お前さんボロジンスキー食ったことないのか?」
「いや!ある!あるが……ペテルブルグで食べたのと全然違うんだよ」
「そりゃ、フィリッポフさんのとこのパンだもの」
 主人が持ってきたのは魚とサリャンカとピローグ。それに何か肉の串焼き――においからして羊肉のようだ。
「ああ、そりゃうまいわ」
 シーリウスが言う。

 料理はどれもきちんとあたたかかった。こんな真夜中に、こんなにも豪華な食事。もしかして雪のなかで倒れて死に際の夢のなかにいるのでは?と思ってしまった。
「そのパン屋は有名なのか?」
 サリャンカに黒パンをひたしながら僕は言った。
「ああ、宮廷にもパンを毎日馬車で届けてるんだよ。モスクワ出てぺテルブルグに行ったやつらがフィリッポフさんのパン恋しさに戻ってきちまうくらいさ」
「なにが、違うのだろうか」
「ライ麦はタンボフ産、しかもコズロフ付近のやつ。製粉所までこだわって、ローミンのとこのをできるだけ取り寄せてるそうだ。粉もそうだが水だそうだよ。黒パンもいいがカラーチとサイカがもっと有名でね」
 主人は言った。
「水があっちのネヴァ河のじゃだめで、こっちで焼いて届けるために特別な冷凍方法と解凍方法生み出して教えてるんだと」
「すごいな」
 水と粉は、確かに大切だ。蕎麦にうるさい僕にはモスクワに帰ってきてしまった若者たちの気持ちがよくわかる。
「リスクを冒さないやつはシャンパンを飲まないと言うが、きっとフィリッポフさんちには大安売りできるくらいのシャンパンの蔵があったんだよ。なんでも好機にしちまうんだ。干し葡萄入りのサイカができたときの話なんてさあ」
 面白くてたまらなそうにシーリウスが言う。宿の主人は「本当にその話す気だな」と呆れ髭の下で笑い、僕を見た。
「ザクレフスキーが州知事だったときによ――あいつはとんでもない軍人だったが、フィリッポフのサイカが大のお気に入りでさ、毎朝の茶の時間に食ってたんだって。それでさ」
「客人が困ってる。ひとりで面白がってないでさっさと話せ」
「パンにさ、焼け焦げたごきぶりが入ってたんだと。ぶはは」
 さすがにパンに伸びた手が止まってしまい、手持ち無沙汰のその指先をリュムカに向けた。
「奴さんもうかんかんに怒ってさ。その場で撃ち殺されちまっても仕方ないくらいのところでフィリッポフのやつ、”それは干し葡萄だ”って言い張ってむしゃむしゃ自分でそのサイカを食ってやったんだ。んで、わざとらしく”おっと、しかしこの味はひどい。申し訳ございません。すぐ焼き直します”って、ものすごい勢いでパン焼工場もどって干し葡萄が入った籠ひっつかんで練り粉にぶちこんでさ。いやあ、職人たちは仰天したらしいよ。そりゃそうだよなあ」
 シーリウスは楽しそうにけらけら黒パンをちぎりサリャンカに浸して食べた。
「ほんで一時間後に干し葡萄入りの焼きたてパンをザクレフスキー総督のとこに届けたんだと。次の日には干し葡萄入りサイカは大盛況で朝から人がひっきりなしだったらしいよ。それでしれっと。”じつに簡単ですよ。好機なんてもんは向こうからやってくるんだからさっさと掴めばいいんです”、なんて言いやがる。大したじじいだよ」
「大してるのはそこだけじゃないだろう。クリスマスとかさ、復活祭とか祭日の前の囚人たちへのパン屋の施しでもフィリッポフさんは周りのパン屋みたいに悪どいことなんてしなかった。いや、誰もが生きてくのにしんどい時代だから、やつらを責めてるわけじゃないんだが――」
「ウラジミール街道が閉鎖されたときのことな。じいさんはいつだって焼きたてのカラチとサイカを送りつけて儲けも監獄に届けたんだと。病気の囚人治したり、食事の改善に使えって。”じつに簡単ですよ”って、そんな簡単なことじゃあねえよなあ」
「えらいやつなんだな、フィリッポフという人は。会ってみたい」
 ウォトカの酔いがまわってうとうとしながら僕は言った。
「いや、二十年前くらいに五十半ばで死んじまったんだ。息子が跡次いで外国風の喫茶店やってるよ」
 あんまりこいつらが生き生きと彼のことを話すので、てっきり――。
「なんだかさびしいな」
 黒パンの味がさっきよりも深く感じる。
「まあ、時代が変われば人も変わる。いつまでも同じじゃいられんよ」
「だが、大切なものは変わらんだろう」
 僕が言うと、二人はちょっと驚いた顔をして「まあな」と言い、主人は僕のリュムカにとぷんとウォトカを注いだ。ゆらゆら、星影のように透明な液体がきらめた。
「行くなら早くしたほうがいいよ。あんまり大きな声じゃいえないけれどあそこは、魔窟の住人たちの集いの場になっちまった。要は、いかさま賭博しとか、泥棒とか、そんなんがこそこそ集まって仕事の話をしてるのよ」
 雪が軒から落ちて、ひっそりとシーリウスの酒の焼けた声にかぶさった。
「”しらみの取引所”に政府は目をつけてる。労働者たちのストライキが増えたら一番に乗り込まれるのはフィリッポフさんとこだ」
「そうか」
 善人も悪人も大変だな。他人事ではなくて、心のそこからそう思う。
 ――だが、良いことを聞いた。
 ペテルブルグのような革命家の集まる飲み屋がここにもある。足掛かりができた。
「もし行くならフィリッポフさんの息子によろしくな。くれぐれもピロシキは食い忘れるなよ。熱々でな」
 翌朝は嘘のように晴れていて、昨晩から積もった雪に朝の光が砂糖をまぶしたように輝いていた。
「いくらだい」
 出る時にたずねると、
「十コペイカでいいよ」
 主人が言った。
「おい、そんなのちょっとしたとこのお茶代よりも安いじゃないか。ウォトカ代にもなってない」
 僕が食い下がると、
「どうせ全部残りもんだったし気にするな。俺も善人してみたかったんだよ。実に簡単にな」
 鼻の頭に土佐犬のような皺をくしゃっときざみ笑う。
「モスクワ人はたくましいな」
「ああ、俺たちは涙を信じない。泣いたってなんにもならんことを知ってるからだ。涙ぬぐってるうちに好機を逃がすのがばからしい」
「なるほど」
 なるほど、そういう意味もあるのだ。あの言葉には。
 フィリッポフのパン屋はクレムリンの北西にあるというので、そちらのほうに歩き出すことにした。 
 どこに行ってもひととひとのまじわることは良いことだなあ、と思う。透明な気持ちで向き合えばそれが相手にもうつる。寒さに空気の住んだモスクワの空。
 
 さて、今日はなにして遊ぼうか。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?