悲しみのなかにある笑い
なんかもうムチャクチャな話だった。飲んだくれの私立探偵ニック・ビレーンが、行く先々で暴言を吐き散らし、女のケツを押さえようと追いかけ回し、ムカつく男がいればそいつのケツも蹴り飛ばす…。チャールズ・ブコウスキーの遺作、「パルプ」。
主人公ですら、「こんなダメな奴にケツの一蹴り以外何かを手にする資格があるのか?」と自問するくらい下品な話。それなのに不思議と、作品全体に哀愁を誘う雰囲気が漂っている。
「いいか、バーテン。俺は平和を愛する人間だ。いちおうノーマルで。わきの下の匂いを嗅いだり女物の下着を着たりもしない。なのにどこへ行っても、みんな俺にムチャクチャ言ってくる。全然落ち着けやしない。なぜなんだ?」
なぜなんだって、それが探偵小説の主人公の宿命なんだから仕方がない。頼みもしないのにあちこちから厄介ごとが転がり込む。解決しようにもなかなか思い通りにはいかないし、しかもあんまり報われない。それでもタフに、クールに困難と向き合っていく。本当は傷ついているだけの、ただの孤独な男なのに。それがわたしなりの探偵小説のイメージ。
そういう小説を読んでいると、普通の日常ではあり得ないことばかりが展開していくのに、そのハードボイルドな生きざまになぜか共感してしまうからおもしろい。次から次へと巻き起こる問題に、リアルな人生の課題を見出してしまうからなのかも?
主人公ビレーンが送る日常の哀れっぷりには、つい笑ってしまうところも多かった。おバカな会話やくだらない失敗ばかりで、「なんじゃそりゃ」と、読んでいて何度も吹き出した。でもたぶん、本人は至って真剣に生きている。チラッと自殺を考えることもあるくらい。でもごめん、やっぱり悲惨すぎて笑ってしまう。そういう悲しみとおかしみのはざまで生きるキャラクターが、わたしはとても好きだ。
コーエン兄弟製作のコメディ映画「ビッグ・リボウスキ」。これもハードボイルド風なのに、本当にくだらない笑いが随所に散りばめられていて、映画を見ながら「なんじゃそりゃ」とずっこけた。
それと、北欧映画の「ハロルドが笑う その日まで」。店を閉店に追い込まれた元家具屋の店主が、IKEAの創業者を誘拐する話。悲しみのなかにある笑い、笑いのなかにある悲しみが、シンプルに描き出されているように思う。
絶望が吹っ切れて笑いに変わったり、哀れな生きざまの滑稽さだったり。どんな悲劇映画でも、たとえば三谷幸喜さんが監督すれば、ほとんど同じストーリーのままで喜劇になるような気がする。すべての映画や小説の本当の姿は、悲劇と喜劇の狭間に存在するのかしらん。
最後に、「パルプ」に登場する宇宙人ジーニーと、ビレーンの会話。
「何がひどすぎるんだ?」
「地球がよ。スモッグ、殺人、大気汚染、水質汚染、食物汚染、憎しみ、無力感、何もかもよ。地球でたったひとつ美しいのは動物だけど、その動物もどんどん滅ぼされてるし、しまいにはペットのネズミと競馬の馬以外みんないなくなっちゃうわ。ほんとに情けないわよ、あんたがそんなにお酒飲むのも無理ないわ」
「そうとも、ジーニー。原爆の貯蔵量も忘れるなよ」
「そうよね。あんたたち、どうしようもなく深い墓穴を掘っちゃったみたいね」
なんだかじんときたシーンだった。人をぶちのめしてばかり、暴言を喚いてばかりのキャラクターたちが、ちょっと腰を落ち着けて正気に戻った感じがよかった。自分たちが掘った墓穴に気が付いている人は、あまり正気に戻らないほうがよさそうだけど…。
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