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研究:国際関係と仏教について(4)

前回のポストでは、国際関係の前提がウエストファリア体制と呼ばれる見かけ上の国家間の平等によって成り立っていることをご説明しました。今回は、そこで僕が気になっている、(国際関係を学ぶ学問としての)国際関係学に埋め込まれた問題点について考えていきたいと思います。

まぁ、ウエストファリア大勢の問題はいくつかあって、すでに多くの人が指摘しているので、その辺りは国際関係学の教科書なんかを読んでもらえれば良いと思います。簡単に言うと、そもそもウエストファリア体制が前提とするような国家間の平等は担保されているのか(例えば安全保障理事会の常任理事国:米国、ロシア、中国、英国、フランスの設定とか、そこに拒否権が措定されていること)と言う点や、平和が国家間のみの問題として措定されている(国家中心主義)こと、不干渉の前提によって地球規模の問題に対応できない(グローバルな環境問題や国境を超える人身売買など)こと、国家間システムが実質的には西洋中心主義に出来上がっていること、などが問題点と言えると思います。そうした点はすでに多くの論考が出てますんで、僕がここで敢えて詳しく説明しなくても大丈夫かと思います。また、さまざまな大学の講義でもこうした問題は間違いなく取り上げられるでしょうから、国際関係学部とか国際学部とかの科目をとれば学べます。もちろん僕が所属している龍谷大学でも、国際学部とか法学部で国際関係学・国際政治学みたいな科目があるので、そちらで学んでください。

で、理論を研究している僕としては、そうした問題の解決のための方策を探ると言うところにはあまり興味がないんです。もちろん上記の問題は重要な問題だし、それをそのまま放っといても良い、と言うようなつもりはありません。ただ、そうした問題を表面的に解決したところで、また同じような問題が起きてくるんじゃないか、と言う疑念があるからです。例えば、ナチスドイツが引き起こした惨状はよく知られるところですが、ヒットラーを倒して戦争を終わらせたところで、同じような悲劇は実際あちこちで起きているわけです。今起きてるガザの惨状などは典型的で、ヒットラーによってなされた惨劇がその被害者であるユダヤ系の人々によって繰り返されると言うのは、本当に残念なことです。つまり、具体的な問題を見ていくと、そこには必ず「悪い奴」がいて、その「悪い奴」を成敗すれば世界は良くなるという前提があるように思うんですね。もちろんその人たちが「悪い奴」ではない、と言う意味ではないです。その人たちはきっと「悪い奴」なんだと思うし、なんらかの形でその責任を負うべきだと思うんですが、その人たちを生み出すメカニズムが探れてないというか、「悪い奴」を倒したら全て解決するというハリウッド映画的な単純明快な勧善懲悪思想があるというか、なんかモヤっとするんですね。

その結果、僕は理論に入っていって、さまざまな事象を分析している学問の方に「悪い奴」を生み出す原因があるんじゃないか、いろんな問題の奥底に横たわる何かを生み出すと言う点について国際関係学も共犯関係にあるんじゃないか、つまり僕らが平和を求めているという、まさにそこに平和を達成できない原因があるんじゃないか、と言うような問題群を研究しているわけです。これは結果的に国際関係学という学問自体を批判することになりますから、業界の中で評判が悪くなるのは当然のことで、言うなれば同僚がやってることに対して「ちゃうんちゃう?」と言ってしまうことになりますので、まぁそりゃ周りの評判悪くなるわな、と思うわけです。ただ、そこで自分の疑問に蓋をして周りに合わせることができないタイプ(そんなことすると僕は具合が悪くなって寝込んでしまうんです)なので、結局国際関係学自体を批判するという方向に走ってしまうわけです。正直にいうと、別に批判的なことをやりたいわけではなくて、それしかできないっていうことなんです。大学の業務でも同じなので、大学でも必然的に腫れ物扱いされるわけですが、もうそれは仕方ないことだと割り切るしかないのかなと思います。

で、この「悪い奴」を生み出すプロセスを考えていた時に、たまたま前任校から龍谷大学に移籍しまして、仏教の教えをいろいろと学んだということなんですが、ちょっと疲れてきたので今日はこの辺で。次回こそ仏教と国際関係のことを書きますので、今日はこれで許してください。(終)

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