研究:国際関係と仏教について(9)
さて前回は、国際関係と仏教の時間の問題で終わってましたよね。仏教は「今」という視点をとても大事にするんだと。過去に引きずられるでもなく、未来によってコントロールされるわけでもなく、とにかく「今」を大切に生きなさい、と。でもね、「今」を大切にするっていうことはわかるんですけど、それだと与えられた状態を肯定するだけになってしまうような気がするんです。例えば、今の自分の状況に何らかの不満を持っていたとして、それを克服するように頑張ることは大事だとは思うんですが、自分の頑張りだけで解決するような問題だけではないと思うんですよ。女性だというだけで下に見られたり(その意味で最近の虎翼はめちゃくちゃ面白かったです)、日本国籍を持ってるっていうことだけで馬鹿にされたり(留学中にJAP呼ばわりされることもありました:30年ほど前なので)、ある特定の地域に生まれたことによって圧倒的にチャンスが少なかったり、そもそも自分だけではどうしようもないやん、みたいな問題ってたくさんあると思うんですよ。もちろん、今を大事に頑張りますよ。頑張りますけど、それだけではどうしようもない問題もあるんじゃないかと。まさに、この部分が仏教学の末木先生なんかが注目する仏教と倫理の問題だとなるんだろうと思います。
そして、ここでいよいよ仏教の「徳」の話になります。儒教では循環的な時間を基礎とすることによって歳をとって様々な経験から学ことが徳を積むことを意味しましたが、仏教では徳を積むことは、世界は永遠に変わり続けるという真理に近づくことと理解されているようです。これが「国際関係と仏教について(6)」で取り上げた正見の話です。そうした世界においては煩悩を捨て去ることが最も重要で、それこそが徳を積むことの意味である、と。仏教に強い影響を受けた京都学派の哲学なんかはこの方向で倫理を考えていきます。そこでは自己実現、すなわち与えられた環境の中でベストを尽くすこと、が善と考えられるわけです。
で、これって国際関係っていう文脈に移した時に問題が出てくると思うんです。個人が徳を積むことによって社会全体が良くなっていくことはわかるんですが、じゃ国際関係の主要な構成者である国民国家が徳を積むことができるのか。なんかピンとこないというか、「徳のある国」というのがしっくりこないというか。学会とかワークショップとかでいろんな人とこの点について話してきたんですが、まだボヤッとしてる感じがして、クリアに見えないんですよね。もちろん逆にウエストファリア体制それ自体をやめてしまえば良いやん、という答えもあるわけで、長期的に見ればそれはかなりの可能性でそうなると思うんです。でも短期的に見た時、つまりウエストファリア体制が生み出してる今の問題(e.g. 環境問題、国境を越える犯罪の問題、移民・難民、そして大国間の対立など)に対しては対応策が出せないと思うんですよね。その結果、今の段階では仏教の視点から現状の国際関係学を批判的に分析する、すなわち全てが関係でできていて常に変化していくこと、その中で自分を守ろうとする煩悩が様々な問題を生み出すこと、というのがいっぱいいっぱいな感じがしています。(この辺りは英語ですがE-International Relationsに書いたことがあるので、そちらを読んでみてください。ちなみにE-IRには京都学派と国際関係について語ったポッドキャスト(Thinking Global Podcast)もありますので、よろしければそちらも)
この方向での最近唯一の進展は、この世界観を量子論と結びつけることができたことで、宗教色の強かった議論が若干科学的なイメージに変化したことぐらいで、この無常ー煩悩ー徳の国際関係への適応という課題それ自体はまだまだ完成には程遠い感じがしています。なんか歯切れの悪い終わり方になってしまったんですが、これが僕の国際関係と仏教についての結論です。結局この問題ってずーっと僕の頭を悩ましている問題なんですよね。大学院の時にポスト構造主義にハマって、日本に帰ってきてからはアレントを学んで、その後ポストコロニアリズムを追いかけて…っていう感じで学んできたんですが、アレントを除いてハッキリとした答えが出せてないし、民主主義を追求するアレントの議論にしても今の世界を見てると上手くいってるように見えないし。うーんって感じです。笑
(終)
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