「きみの色」についての感想。変えることのできないもの、変えることのできるもの。そして、ロックについて。
はじめに
最近公開したばかりである山田尚子監督の映画「きみの色」を見てきました。
個人的にもかなり楽しめたので、その時に感じた気持ちを整理しながら感想を書きたいと思います。
バンドアニメで山田監督といえば真っ先に「けいおん!」が思い浮かびますが、今回は「けいおん!」やその他の過去作品から比較するといったことはあまりせず「きみの色」を見て感じたことを中心に書こうと思います。
相変わらずの、とっ散らかった文章になるとは思いますが、よろしくお願いします。
初回の印象
「きみの色」については計2回見たのですが、(公開日とその翌日)
公開日に見終わった印象としては、「攻めている」「優しい」の2つの感想を抱きました。
まず「攻めている」と感じたのは、この映画は青春映画という枠ではあるのですが、いわゆる派手な見せ場や感情が劇的に盛り上がるドラマチックな部分というのは、かなり限定されており、抑えられているという点がです。
キャラクター同士が喧嘩したりして仲が悪くなるような場面もなく、かといって自分の感情が昂って泣くといった場面もありません。
最後の学園祭のライブは本作の見せ場であり、映画としての盛り上がりは確かにあります。
ただ、それ以外の場面においては、本当に落ち着いた丁寧な描写のシーンがほとんどです。
映画の雰囲気とは別に、「攻めている」と思ったのは、キャラクターの置かれている状況を詳細に分かりやすいかたちで説明していない点です。
トツ子が小さい時から感じていた気持ちや、きみやルイが置かれている家庭環境も断片的な情報が与えられるのみで、見た人それぞれ想像するしかありません。
なぜトツ子は家から遠く離れた学校に通っているのか、なぜきみは家を出て祖母のもとで生活しているか、なぜルイは1人で家業を継がなければいけないのか(家の写真には3人写っているがなぜ母親と2人暮らしなのか)。
これらの理由は映画の中でほとんど説明されません。
また、映画の中では繰り返し登場するキーワードとなるセリフがありますが、それについても分かりやすい説明があるわけではありません。
各キャラクターの感情は話している言葉だけでなく、ライブの曲や音楽、そして背景美術やアニメーションの中から読み取るものになっていました。
こうした試みは勇気がいることだと思いました。
そして、映画から感じた「優しさ」についてですが、それについては映画の中に登場するキーワードについて、自分が考えたことを整理しながら書いてみたいと思います。
変えることのできるもの、
変えることのできないもの
トツ子はミッション系の学校に通っています。
物語の冒頭では、トツ子は教会の中である有名な言葉をつぶやいています。
(言葉遣いは違っていたかもしれませんが、意味は同じです)
トツ子は美しい色の放つ少女のきみのことが、気になっていました。
しかし、学校でのきみは生徒会に所属して聖歌隊でも頼りにされていて、成績も優秀であったことから、トツ子が近づくことはできない、遠くから見るだけの存在でした。
トツ子はきみに対して憧れや近づきたい気持ちを抑えるために、十時を切り上記の言葉を思い起こしていました。
トツ子は「きみと親しくなること」は「変えることのできないもの」として、自分の中で受け入れようとしていたのです。
そんな中、きみは学校に突然来なくなります。
失意に暮れるトツ子は、本屋でアルバイトしているという情報を頼りにきみを探しますが見つけることはできません。
トツ子は教会の中でいつものように「変えることのできないもの」について祈っていましたが、そこにシスターの日吉子先生があらわれ、その言葉の続きをトツ子に教えます。
この段階では、トツ子は言葉の意味や真意を理解できていません。
ですが、この後にトツ子はしろねこ堂できみを見つけることができ、その場に居合わせたルイと一緒に、運命的なかたちでバンドを組むことになります。
きみを見つけることができたのは何かに導かれるように白猫に着いていったからであり、バンドを組むことになったのはトツ子が何かの魔法がかかったかのように発した「バンドを組みませんか」という言葉からでした。
(それはまるで、教会で祈っていたトツ子を見て、神がトツ子の願いを叶えてあげるために勇気を与えたかのようです)
このシーンをかんたんに解釈すれば、トツ子が考えていた「変えることのできないもの」と思っていたもの(きみと親しくなること)は、実は「変えることのできるもの」だったということです。
その後、3人はバンドを組んでそれぞれの曲をつくることになります。
ただ、それと合わせて物語は3人が抱えているものについても焦点が当たるようになります。
きみは学校を退学したことを祖母に隠したままであり、自分が寮に無断で入ったことでトツ子にも迷惑をかけてしまったことで傷ついてしまいます。
ルイも母親に隠れて音楽活動をしていることを話せていません。
そして、トツ子も自分の色が見えないことを悩んでいました。
これらは、罪悪感であったり後ろめたさであり、自分を責める気持ちの表れでした。
そんな彼らに対して、周りの大人たちは優しく接してあげます。
自分を責める必要はない、それは友達や家族を思いやる気持ちがある、優しい子だからである、と。
特に日吉子先生は、悪天候のせいでトツ子ときみが離島から帰れられないことに罪悪感を感じさせないように、これは合宿であると言い換えます。
全編を通して、3人の感情を後ろ向きなものから前向きなものに変換する日吉子先生の言葉は、「変えることのできるものと、変えることのできないもの」を考えるにあたって重要なものであると感じます。
そして日吉子先生は、自分たちが感じている感情や気持ちを曲にすること、明るくない悲しい気持ちも真実であり聖歌(=ロック?)であると伝えます。
夜の古教会で、3人は自分の抱えていた気持ちをそれぞれ話し、好きと秘密を共有します。
その後、きみとルイは家族にそれぞれ秘密を打ち明けることができ、トツ子は日吉子先生に「変えることのできないもの」と「変えることができるもの」が何なのかについて分かったと話します。
これについて、映画の中でははっきりとした説明があるわけではありませんが、これまでの流れから考えればこういうことなのかと思います。
「変えることとのできないもの」=「自分の好きなもの、自分の気持ち」
「変えることができるもの」=「他者に自分の気持ちを伝えること、他者との関係」
これは勇気ある「優しい」メッセージであると自分は思います。
というのも、この有名なラインホルド・ニーバーの祈りですが、昨今では以下のように考えられることが多いからです。
「他人は自分の思ったように変えられないのだから、
自分を変えていくことに意識を向けるべきだ」
つまり、映画のメッセージやテーマ性は、これとは反対の意味になっているのです。
公式サイトに掲載されている山田監督の企画書には以下の言葉があります。
これを見ると山田尚子監督が、現代の社会をどのように捉えていて、映画で何を達成したいのかが分かる内容になっています。
ラインホルド・ニーバーの祈りの言葉を、映画の中で登場させたのはその言葉が社会や若い人の状況をよく表しているからだと思います。
トツ子は、この言葉を自分の気持ちを抑えるために最初は無意識に使っていました。
しかし、物語が進むにつれてそれを反転させて、自分の溢れる感情を前向きに表現することができるようになります。
トツ子は学園祭ライブが始まる前、ロックなバンドをしていた過去を恥ずかしがる日吉子先生に向かって、「変えることのできないものについて、受けいれてください」と言います。
これはトツ子がこの物語で得たこと(自分の好きなものを好きということ)を自覚できた、成長を感じるシーンだと思います。
ライブで自分を表現した後、トツ子は学校の庭でひとり踊り、自分の「色」を見つけることができます。
それは、映画の冒頭で教会の床にあった花と同じ色であり、自分の中に最初からあったもの(手の中)だったように思います。
「きみの色」は「好きなものを好き」といえるつよさを描いています。
そこには感受性が鋭くなっている、今を生きる若い人に向けた「優しさ」が根底にあるのではないでしょうか。
ロックの精神
3人は学園祭のライブで、それぞれの個性を表現した曲を披露します。
「反省文〜善きもの美しきもの真実なるもの〜」
「あるく」
「水金地火木土天アーメン」
の3曲ですが、言ってみればどれもロックでした。(きみのパーカーの背中に「Rock」という文字があったように)
どの曲も、自分たちの感情をストレートに表現しており、頭で理解するよりも曲と音楽から感じろ!と言わんばかりのものです。
ですから、自分からは曲にについてこれ以上のことは言えないので、劇場で実際に聞いていただくのが一番良いと思います。
3人のライブは、この物語を通してのテーマである「好きなものを好き」といえるつよさを表現したものになっていたと思います。
例え、曲を聞いた観客がポカーンとなっても気にしていないかのようでした。
実際、1曲目が終わった後の会場の雰囲気は困惑した空気が流れていました。
トツ子の曲は比較的ポップなものだったので、シスターも踊り出すぐらいの熱狂を会場に生み出します。
ロックとは言いましたが、それは一つの決まったものがあるのではなく、人の心のように様々なカタチがあることが、表現されていたように思います。
ライブ後の3人の晴れやかな笑顔からは、今までの自分が抱えていた罪悪感や後ろめたさから解放されたかのようでした。
「変えることのできないもの、変えることのできるもの」を音楽として表現したものが、このライブシーンであり、それはつまりロックであるということなのかと思います。
そして、何よりもこの映画自体がロックであるということです。
「ぼっち・ざ・ろっく!」「ガールズバンドクライ」「夜のクラゲは泳げない」の記事でも書きましたが、どのようにアニメを作るのかということが、逆説的に物語のテーマになりうるということです。
「きみの色」においても、視聴者に分かりやすい描写や盛り上がるのある場面は決して多くはないかもしれません。
しろねこ堂の3人が学園祭のライブで披露したように、この映画を作ることが「好きなものを好き」といえるつよさ(=ロック)を表現した、作家性を全面に出したものになっていると思います。
この映画はどういったものであるかと考えた時、それは「音楽」や「青春」といった要素だけではなく、「ロック」もあると思います。
恋心について
この映画には恋心の描写があります。
映画の中では、自分の感情を表現することの難しさを繰り返して描いていましたが、この恋心についてはさらに繊細に描かれているように感じました。
きみはルイを見て顔を赤くなったりして、言葉には出しませんがルイに恋をしていると思える描写がいくつかあります。
そして、ルイも本屋にいたきみを憧れの目線で見ているようでした。
他にも、ルイのプレゼントについて考えるきみに対して、トツ子はそこにとてもキレイな色を見るといったシーンがあります。
映画のラストでは、トツ子ときみがルイを見送るシーンで終わります。
きみはルイにまた会えるからと考えていたのか、直接別れは言っていないようでした。
ですが、ルイの船を見るときみは走り出し、ルイに対して「頑張れ!」と叫びます。
そして、ED後にはきみのスマホで撮影したであろう動画のシーンで終わります。
これらのシーンについて、映画の中にはっきりとした答えはないのではないかと、自分は思います。
映画にあった表現を見ていると、「きみの色」は、恋についてはキレイな感情で前向きなものだとは考えていますが、人に分かりやすく理解させるものには意図的にしていないと自分は受け取りました。
かんたんな表現(例えば、きみがルイに告白する)にしなかったのは、それ
だけ思春期の恋心を映画が大切にしているからだと思います。
おそらく、ライブで披露した「曲」などから想像を張り巡らしていけば、きみの気持ちや感情についても分かるのではないでしょうか。
自分はこの部分についてはここまでにしようかなと思っていますので、ぜひとも各々が想像して考えてみるのが一番良いのかなと思います。
恋心について、物語のキーマンである日吉子先生からは何も言及がありません。
もしかしたら、恋心は神の言葉とは別のところにあるのかもしれません。
まとめ
「きみの色」についての感想を書いてきました。
2日続けて劇場に足を運ぶほど夢中になりましたし、「きみの色」について色々と考えることは楽しかったです。
見落としている視点も多かったかもしれませんが、今の自分が書けることはできたかなと思います。
思春期3人のバンド活動を描いた本作から感じたこととしては、
自分を大切にすること(周りに合わせて変える必要はない)
他人と友情を結べられること(決して変えられないものではない)
であり、それはロックとして表現できるということです。
そして恋心については、かんたんには表現できないけれど、
それはきっと美しい色をしているということです。
最後まで、読んでくださりありがとうございました!
See you!
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