「ぼっち・ざ・ろっく!」「ガールズバンドクライ」「夜のクラゲは泳げない」を見て思ったこと
はじめに
最近、とあるアニメを見ました。
「ガールズバンドクライ」と「夜のクラゲは泳げない」です。
どちらも同じ時期(2024年4月-7月)に放送していたアニメで、自分が好きなタイプの作品(オリジナルアニメ、現代劇である点)だったので見ることになりました。
結果的に、どちらも最後まで楽しく見ることができました。
オリジナルアニメだからこその、一話ごとに盛り上がっていく感じが特に好きでした。
ざっくりと物語の内容をまとめれば、若い女子が集まって創作活動をするというものなのですが、今回はそんな作品を見て考えたことを書き残そうと思います。
そして似たような作品である「ぼっち・ざ・ろっく!」についても、この機会に一緒に考えてみたいと思います。
話の趣旨としては、バンド(ロック)アニメとは何なのか?という点について書ければと思います。
※TVアニメや映画だけを見た感想になりますので、その他メディアの情報などはあまり詳しくない点については、ご容赦ください・・・。
3作品の共通点について
まずは3作品について大まかに比較してみます。
「ぼっち」は漫画原作であるのに対して、「ガルクラ」と「ヨルクラ」はオリジナルアニメです。
「ぼっち・ざ・ろっく!」(「ぼっち」)と「ガールズバンドクライ」(「ガルクラ」)はバンドをしますが、「夜のクラゲは泳げない」(「ヨルクラ」)はバンドではなくMV制作です。
また「ぼっち」は漫画原作であるのに対して、「ガルクラ」と「ヨルクラ」はオリジナルアニメです。
ですが3作品ともに共通するのは、キャラクターたちは若い女子であること、そして仲間と組んで何かに打ち込むということです。
少し前でしたら、このような特徴を持つ作品は、学校の中で部活もしくはそれに近い活動を行うことが、物語の定番でした。
例を挙げる必要もないかもしれませんが、自分が想定しているのは「けいおん!」「ガールズ&パンツァー」「ラブライブ!」「ウマ娘」・・・などなどです。
厳密に言えば、スポ根要素があるないかで、これらの作品も分けられるのですが、ひとまずは同じカテゴリーで考えています。
あえて、それらの作品をキーワードで結びつけるとしたら、「日常・学園・部活」になると思います。ウマ娘たちの練習風景は放課後のクラブ活動と変わりありませんし、レースを引退した後もトレセン学園に残り続けます。
戦車での戦闘やアイドル活動は、そのまま学校の部活動になっています。
対して、「ぼっち」「ガルクラ」「ヨルクラ」を考えたみた時に、これらの要素はちょうど反転されていることが分かります。
彼女たちは部活動をしているわけではないので、通っている学校も当然それぞれ違います。(そもそも学校を退学した、通っていないケースも多いです。)
彼女たちの出会いは、ほとんどが学校の外で起きています。
そして物語は学校外のシーンがメインであり、作品の描写としてもより現実に近い社会であることが強く意識されています。
例えば、3作品とも物語の中で頻繁に東京の地名やロケハンした風景がそのまま登場します。
この3作品をとりあえず強引にキーワードで繋げるとしたら、「現実・社会・プロ」でしょうか。
永遠に続くかのような「日常」から、将来の不安を抱える「現実」へ。
学生だけの箱庭のような「学園」から、様々な出会いが起きる「社会」へ。
純粋な「部活」から、お金が絡まる「プロ」へ。
(ここでのプロは、彼女たちの現状がプロかどうかではなく、プロ志望やプロ目線であるというニュアンスです。)
これらの言葉だけでは単純すぎるので、次はより3作品の中身についてそれぞれ考えてみたいと思います。
前作品からの影響
作品の違いやをキーワードごとにカテゴライズしなくても、これらの作品の製作環境を見れば、より直接的に前作品からの影響や流れがあるように思います。
女子高生がバンドを組むことと芳文社のきらら作品であることから、「ぼっち」は「けいおん!」は連想させます。
制作サイドのインタビューを拝見しても「けいおん!」というワードは何度か出ており、意識していることを隠していません。
「ぼっち」は「けいおん!」をリストペクトとしながら、同じ作品にならないように注意して作られているように思います。
「けいおん!」が目指した等身大の女子高生のリアリティ表現を継承しながらも、「ぼっち」には「けいおん!」には見られなかったような、別のリアリティがありました。
「ガルクラ」は「ラブライブ!サンシャイン!!」の監督と脚本が企画から参加しています。
プロジェクトがスタートしたのは、「サンシャイン!!」の制作が終わった2019年であり、「過去のヒット作にはない新しい作品を作ること」を目標にしていたようです。
この「過去のヒット作」の中には、当然「ラブライブ!」シリーズも含まれていることはほぼ間違いないでしょう。
実際に「ガルクラ」の物語には、売れること目指した「アイドル」路線のダイヤモンドダストと、仁菜・桃香たちの5人組のバンド「トゲナシトゲアリ」が対決する場面が描かれ、両者は対比されることになります。
最終的にはダイヤモンドダストもバンドとしての成長が強調され、「アイドル」的な面だけではないことも描かれますが、「ガルクラ」の物語自体が「アイドル」的なものを少なからず意識していることは明らかだと思います。
また、この「アイドル」的なものを乗り越えるというモチーフは、「ヨルクラ」の中にも見られます。
元アイドルグループだった花音は、ネットで炎上したことが原因で脱退し、MV制作のためにJELEEを結成します。
物語の柱の一つとして、花音が母親(脱退したアイドルグループのプロデューサ)に対する呪縛とも言える執着心を振り払うことが焦点になっていきます。
これらの作品は「けいおん!」や「ラブライブ!」をそもそも最初から念頭に置かれて制作されているということであり、物語のテーマが過去作品から違っているのは当たり前のことなのかもしれません。
私は間違っていない
バンドや創作活動を扱った3作品に共通しているテーマとして、
「私は間違っていない」
という感覚が根底にあるように思います。
3作品とも温度感や表現方法はそれぞれ異なっていますが、彼女たちは自分の心の中にある「私は間違っていない」という気持ちを証明するために、またはその気持ちを表現するために、ステージに上がります。
「ガルクラ」に関しては、直接的にこの言葉を繰り返します。
特に主人公の仁菜はそのイメージが強いキャラクターとして描かれます。
仁菜は、過去にイジメに立ち向かったこと、そして学校を退学したことを周りから理解されてもらえないことに苦しみます。
それでも自分の考えを貫く通すことができたのは、インディーズ時代の「ダイヤモンドダスト」の曲が心の支えになっていたからでした。
仁菜は物語の最初の方では歌うこと=自分の気持ちを叫ぶことを躊躇していましたが、初めてのライブを経験したことでバンドに夢中になります。
それはつまり、バンドやステージが「私が間違っていないこと」を表現できる場になっていったからです。
「ガルクラ」の物語は仁菜以外のメンバーもバンドを通して、周りからの圧力や抑圧から、自身が解放される姿が描かれていきます。
「ぼっち」では、直接的にはこの言葉は使用されていませんが、作品の通底には、この感覚があるように思います。
それが表れているのが、ぼっちちゃんの描かれ方です。
ぼっちちゃんは、確かにコミュ障でひきこもり傾向がありますが、そのことでぼっちちゃんが否定されるといったシーンはありません。(多くはぼっちちゃんの被害妄想で終わることがほとんどです。)
最終回においても、ぼっちちゃん自身の性格や態度といったものは大きく変化しているわけではありません。
「今日もバイトかあ」のセリフに代表されるように、ぼっちちゃんの本質はあまり変化せずに、普段の生活の景色が少し変化したことが分かるような終わり方になっています。
「ぼっち」は全話を通して、ぼっちちゃんが抱えてきたであろう過去の暗い気持ちを全否定するのではなく、ぼっちちゃんが見ることのできる世界が少しづつ広がっていくことが丁寧に描かれています。
特に漫画からアニメ化にあたって、この部分がより強固に演出されているように思います。
「ヨルクラ」では、JELLEの4人は自分の個性を否定される経験をそれぞれ持っています。
彼女たちはMV制作や交流を通して、自分の好きなものを表現して、その呪縛を少しづつ解いていきます。
JELLEの活動はバンドではありませんが、「ぼっち」や「ガルクラ」と同じように学校外の活動がメインになっていきます。
4人はぼっちちゃんや仁菜と同じように、学校の中で生きづらさを感じています。
この学校の中に居場所がなく、学校以外に居場所や存在理由を求めていることが、これらの3作品に共通しており、今までの日常系部活アニメと大きく異なっている点だと思います。
その学校以外の場所というのが、「プロ」の世界ということです。
つまり、プロになることは「私は間違っていない」ことを証明することと同じになっていきます。
「けいおん!」や「ラブライブ!」において物語開始時点では、主人公たちはは夢や目標を特に持っておらず、部活動を始めることでそれらを持つようになるのに対して、「ぼっち」「ガルクラ」「ヨルクラ」では既に夢や目標を心のうちに秘めている、いった違いもあります。
「けいおん!」や「ラブライブ!」では好きなことや夢を見つけたことで、仲間が得られ、自身の生活が輝き始めていきます。
一方でぼっちちゃんや「ヨルクラ」のまひる達は、自分の好きなことは仲間と出会う前からすでに見つけています。
「けいおん!」や「ラブライブ!」では学校や地元という環境は変わらずに自分を変えていくこと・再発見することが物語となっていましたが、「ぼっち」「ガルクラ」「ヨルクラ」では自分たちを変えるのではなく環境の方を変えていくことが物語になっているように思います。
「ぼっち」については先ほど説明した通りですが、「ガルクラ」では自分を変えるためではなく、自分が間違っていないことを証明するために学校を退学して上京してきます。
また「ヨルクラ」のキウイのセリフで、以下のものがあります。
物語の中で、このセリフはネガティブな感情として扱われますが、自身と周囲の変化に対する感覚みたいなもの(「私は間違っていない」)は、「ぼっち」や「ガルクラ」にも共通している部分があるのではないかと思います。
アニメを作るということ
続いては物語からは少し離れて、バンドのアニメを作るということはどういうことなのかについて、少し書きたいと思います。
自分の考えとしては、バンドアニメとはアニメ制作そのものを表現することなのではないかということです。
「ぼっち」を見終わって思ったことは、「制作している人にとっても、この作品には自信や満足感があるだろうな」ということです。
(視聴後にインタビュー記事をいくつか読みましたが、作品に対する制作サイドの達成感はかなり大きいものがあると感じました。)
もちらん、「ぼっち」自体が完成度の高いアニメであることもそう思った理由の一つです。
ですが、自分がそれを強く感じていたのは、作品の完成度に対してではなく、「ぼっち・ざ・ろっく!」という作品をどのように作っているのかということです。
「ぼっち」を見ていると制作側の気持ちや想いというものが、画面から伝わってくるような気がしました。
例えば、実写映像を取り入れた実験的な要素を入れたり、キャラクターのデザインを崩壊させるぐらい自由に変更しているといった点です。
また、先ほど説明したぼっちちゃんの描き方を見ても、キャラクターを自分のことのように想像していないとできないことだと思いました。
そしてそこには、「ぼっち」の制作を通して、自分たちがやりたいことや好きな映像を表現するという思いがあるように思いました。
それは、物語の中で結束バンドがロックをするように、「ぼっち・ざ・ろっく!」を作ったということなのではないかと思います。
つまり、「ぼっち・ざ・ろっく」というバンドアニメを良質に制作したということではなく、ロックやバンドを表現するために「ぼっち・ざ・ろっく!」を制作するという逆説的な動きがあったということです。
「ぼっち」が漫画のアニメ化という枠ににとどまらずに、大きな広がりを見せたのは、こういった点が大きかったのではないかと思います。
「ガルクラ」についても制作の気持ちがそのまま物語に反映されているように思いました。
ただでさえ、売れるかどうか分からないTVアニメにおいて、オリジナルアニメというのは原作の後ろ盾がないので売れる保証は全くありません。
そんな中で制作されている「ガルクラ」は、成功するか分からないロックバンドをやっていく不安や葛藤が描かれており、それはまるでこのアニメを制作することと重ね合わされているようでした。
また、メジャーデビューしたダイヤモンドダストはアイドル路線が強調されており、制作側の仮想敵や挑戦目標として「ラブライブ!」を想定していると思いたくもなります。
作品自体も「ラブライブ!」の物語ではできなかったような描写も多く、より現実を厳しさを意識したものになっています。
終盤の展開にしても、トゲナシトゲアリは売れることはできずダイヤモンドダストに勝つことはできませんが、自分たちのロックを最後まで貫きます。
オリジナルアニメの厳しさや現実を自覚しつつも、それでもオリジナルアニメを作ることは「間違っていない」という制作側の気持ちや想いが、画面から伝わってきました。
そして、最後の「ありがとう」というセリフはもはやトゲナシトゲアリを見にきた観客ではなく、「ガルクラ」を見た視聴者に向けられていました。
「ガルクラ」についても、オリジナルアニメを制作することが、ロックを表現していることになったと思います。
「ヨルクラ」についてもオリジナルアニメである点は「ガルクラ」と同じではありますが、バンドアニメではないのでロックを表現しているわけではありません。
「ヨルクラ」の物語はバンドを組むことではなく、MV制作です。
JELLEの4人はそのままクリエイターとして描写されており、出てくるエピソードのほとんどはクリエイターに関するものになっています。
MV制作で起きる苦労や喜びは、アニメ制作に置き換えても違和感がないものばかりです。
また、ここで気にしたいのは、オリジナルアニメを作るにあたって、自分たちの比喩であるクリエイターの物語である「ヨルクラ」を企画したということです。
つまり、アニメを作ることの動機やモチベーションが、自分たちと同じクリエイターを表現することにあったのではないでしょうか。
これら3作品を通して思うのは、アニメは実写作品と違って全てが創作されたものであるからこそ、そこには創作者の感情や気持ちが強くあらわれてくるのではないかということです。
当然そこには視聴者の気持ちも同時に重なってきます。
アニメを作る側とそれを見る側の、それぞれの気持ちや思い入れによって、アニメは作られていると感じます。
最後に
書いてみると、まとまりがなくアンバランス内容になりました・・・。
「ぼっち・ざ・ろっく!」「ガールズバンドクライ」「夜のクラゲは泳げない」をバランスよく描こうとするのは、少々強引だったかもしれません。
それぞれの作品を個別に書けばもっと分かりやすいものになっていたかもしれませんが、どうしても並べて書いて見たくなったので、こういう形になりました。
これらの作品通して考えた、自分が思うバンドアニメとは、
日常系部活アニメの精神や感性を受け継ぎながらも、そこに閉じこまることなく、現実の社会で生きていくことを表現したものである
ということです。
そしてそこには、アニメ制作の現実や制作者のリアリティが隠さずにでてくるということです。
そして、この記事を書いて思ったことは、アニメを見るということは自分の気持ちを覗くことと同じではないか、ということです。
同じアニメを見ているつもりでも、人ぞれぞれで感想は違ってきますし、同じ自分でも過去に見た時とは感想は違ってくることがあります。
作品の感想には、現在の自分が置かれている環境や状況が少なからず反映されると思います。
今この瞬間に、バンドアニメについて何か書いたということは、バンドアニメの中に今の自分が一番求めていたものがあったからなのかもしれません。
そんなことを思いながら、10月に放送予定の「ラブライブ!スーパースター!!」3期を楽しみにしている自分がいるのでした。
(本当でしたら、この記事の中に「アイドル的なもの」が何なのかも含めるべきだと思うのですが、それはまた別の機会にしたいなと思います・・・。)
最初は「きみの色」の話もこの記事の中で書こうと思ったのですが、文章の量が長くなってしまったので別の記事にしました。
「きみの色」の感想を書く前にこの記事を書き進めていたので、この記事で考えていたことが元になっています。こちらもよければ見てくださると嬉しいです・・・!。