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【『鬼滅の刃』ネタバレ注意】We are all alone「二人だけでいることについて」~妓夫太郎と堕姫のエピソードから~(改)

第10話のラストシーン。向かい合わせの首が第11話に展開していく。悲しき運命の意味を考えてみる。

共依存関係の鬼

妓夫太郎と堕姫は非常に過酷な運命をたどった。

遊郭で生まれたことで命が軽んじられるばかりか、醜く罵詈雑言を浴びせられ続けた妓夫太郎。

そして美貌のために遊郭で働くことになり、処女が奪われる前に客の目を指し、生きたまま焼かれる堕姫(=梅=梅毒で死んだ母からつけられた名前)。

二人は、だれも味方のいない中、歩んでいる。

堕姫は妓夫太郎に常に支配されている(鬼としての形態に、とくにあらわれている)。

それは、日本的というより西洋的な一神教の世界(砂漠の中でらくだを操って生き延びてきたユダヤ難民)でいきる人々のように見える。

そのような世界では、二人で生きていくしかない。たとえ支配関係だろうと。とにかく生き延びるために手段は選ばなかった

最後、二人はは鬼になった。それは必然である。そして、鬼殺隊により、二人の共依存関係は明らかになり、崩壊した。

しかし、かろうじて、炭治郎の一言「せめて二人は仲良く」という言葉で、二人の心の最後の絆は繋ぎ止められた。

妓夫太郎は堕姫のことを思い、縁を切ろうとした。それはまぎれもなく堕姫への愛である。

しかし、堕姫にとっても妓夫太郎は最愛の存在であり、唯一の肉親である。

最後、二人は二人でいることを選ぶ。これはアダムとイブの選んだ結論である。

二人は原罪を背負って生きていく。そして鬼で居続けるのである。

カルテット」世吹すずめと父親のエピソード

ここで、2017年1月から放送されていたドラマ、「カルテット」を取り上げてみたいと思う。

主人公の一人、世吹すずめ。すずめがまだ幼い頃、父親が、すずめには超能力が使えると嘘をつき、二人でテレビ番組を席捲していた。

その際、すずめは父親の言われるがままに超能力少女を演じ続けていた。

しかし、その嘘が明らかになり、父親とすずめは別々の人生を歩んでいた。

父親はすずめの居場所をしらなかった。しかし、父親はすずめの居場所を突き止める。

すずめ自身も父親がもうすぐ死ぬと聞いて、会うかどうか悩む。

しかし、すずめは、自分の過去をカルテットの仲間(巻真紀)に話すうちに、父親と会わないことを決意する。

父親は、すずめに会おうとしたが、結局会えず、すずめは父親のもとを去る。

父親のもとを去ったすずめは縁を切ることで新たな縁が生まれる(カルテットのメンバーとして)。

これは、日本神話の典型的な形、見るなの禁を破るエピソード(鶯の里、浦島太郎)とよく似ている。(余談であるが、吉原の最寄り駅は鶯谷駅である。)

見るなの禁と依存

ところで、なぜ、見るなの禁では、禁を破ると男女関係が解消するのか。

やるな言われるとやりたくなる衝動は、愛着が不安定な人に見られる。

我慢できないことから、薬物やアルコール、ギャンブルにはまってしまい、止められなくなる依存症の症状は、男女関係の依存にも当てはまる。

度を過ぎた依存はやがて虐待や被虐に発展し、関係は破綻する。

こういった経験的な知恵が、これらの説話には含まれている。

We are all alone?

妓夫太郎と堕姫には破滅的な未来をたどるだろうか。

同時に、私たちは「ふたりだけ」では存在しえないということだろうか。

夫婦二人が生活単位となっている核家族の問題はこういったことからも考えられるかもしれない(依存関係の破綻は、「ノルウェイの森」(村上春樹)にも見られる。直子もワタナベ君も、最後独りぼっちになってしまった)。

 吉本隆明「共同幻想論」によれば、人間のこころは、個人幻想、対幻想、共同幻想によって成り立っている。

このうち、吉本は対幻想こそが最も重要であるといっているが、それぞれの幻想は互いに補完的であり、一つの幻想に人間の心を還元することはできない。

私たちは、個人であると同時に、家族をもち、共同体に属する存在だからである。

各々の幻想の実在性には意味があり、それらを反故にすることなどできない。

共同体に見放された存在はやがて鬼を創り出す。そして共同体を破壊する。

わたしたちは、妓夫太郎と堕姫についてもっと考えなければならないのだ。


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