察する(子どもの気持ちを)
気持ちを察して欲しい
よく女の人が口にする言葉だ。私たち男はあまりそんなことを考えないばかりに、直接的にきいたり、聞かずに行動したり、何も言われないからやらなかったりすることで、投げかけられる。女性はなぜ、この言葉を口にするのだろう。
女の発達心理学
小さい子どもを見ていると、言語能力が男と女で明らかに違う。理由はよく分からないが、これは子育てや教育の現場にいたことがある人はよく経験することだ。女の子は母親と、早くからコミュニケーションが取れるようになる。そして、男の子より、口が達者になりがちである(もちろん個人差はあるが)。
女性の社会的役割
一方で、女性は未だに自由闊達でよく議論し、喋ることをよしとしない社会的圧力がある(とする。これは女性に限らないかもしれないが)。そうすると、女性は言葉で論理的に伝えるという方法をやめ、別の方法でコミュニケーションを取ろうとする。たとえば、女性の方が婉曲的なふわっとした表現が得意である(そして、女性同士の伝達は、男から見ると暗号のようだ)。また、スキンシップやジェスチャーを上手く使う人も少なくない。表情も複雑で、一見笑っているのだが何か機嫌が悪そうな表情をすることもよくある。さらに、内心と表情が全く違うこともある。女性の考えを読み取るためには普段からのその言動や行動をしっかりと観察し把握する必要があり、その文脈に基づいて、さらにその時の言葉や表情が普段とどう違うかを察知して(つまり、察して)、コミュニケーションすることが当たり前になるように思う。
男性の発達心理学
一方、男性の場合、言葉の発達が遅いのは、一般に遺伝的に裏付けられた発達曲線の影響が言われることもあるが、そもそも母親とうまくコミュニケーションするのが難しいという特性もあるように思う。よく、母親から「男の子ってよくわからない」という言葉を耳にするが、根本的にコミュニケーションに対する指向性が少ないのかもしれない。男は、生物学的に周囲からの情報を遮断し、集中することで力を発揮してきた側面があるからだ(狩猟の時に必要な集中力を考えてみよう)。コミュニケーションへの指向は圧倒的に女性のほうが強い。かつて、狩猟ではなく採集を女性が請け負っていたことと関係があるかも知れない(どこに何がどれくらいあるか、周囲の様子を広く見たり情報を仕入れたりする必要性を考えてみよう)。そんなわけで、母親は言語ではなく、スキンシップを多用して(そもそも走っている子に止まれと言っても聞かない)男の子と接する機会が多くなる。また、言葉を使う場合も男の子に対しては、母親はより分かりやすい明確で簡潔な言葉でやりとりをすることが必要になる。よく噛み砕いて言葉を選び丁寧に話すことで初めて伝わる。総じて、男の子は言葉の発達が遅いことから、母親が察しなければいけない機会が多く、自然とやってもらうのが当たり前になっていく(察する必要がない)。
男性の社会的役割
男の子が跡取りとして大事にされてきた背景から考えても、男性が女性より優遇されてきた部分が大きい。かつては、多くの家庭で家庭における父親の存在も、察する側ではなく察してもらう側であった。夫の少ない言語表現の意味を妻が理解して世話をするという構造は、今でも残っている。そんな中、男が女を察するという力を伸ばすのはとても難しい。
同性同士の方が楽
そうなると、コミュニケーションの仕方が似ている同性同士で話をする方がもはや楽なのではないか。余計な詮索はいらないし、スムーズに言葉が通じる方が精神衛生上も良い(誤解や齟齬が生まれにくいという意味で)。このような傾向が強まっているのだとしたら、少子化に繋がるだろう。過去において、多少、人権を無視してでも行われたお見合いと家父長制は、少子化対策の方法としてはなかなかうまく機能していた可能性がある(ただし女性の人権が考えられていないこのシステムは現代では採用されようがない)が、少子化対策として、これに代わる良い方法は、あるのだろうか。
男と女のコミュニケーションを促進する方法
私たち男は女性が好きだ。きっと女性もそうだと思う(思いたい)。女性だけでも男性だけでも物足りないし、そもそもLGBTの観点から、男が、女が、と、あらかじめ当たり前のように性的役割を決めつけるのは、倫理的に間違っている。よく、性転換をした方がいる接客業の店にハマる人がいるという話を聞く(男女ともに)が、彼らの振る舞いには多くのヒントが隠されているのかもしれない。そもそも、私たちは、こころの中に男性性も女性性も備えているのだ(男性も女性も、敢えて区別したに過ぎない産物だ。混沌なるものから生まれたイザナギイザナミや、創世記においての行為によって区別されるアダムとイブが、たまたま男性と女性を表象したに過ぎない。現代の男性性も女性性も明らかに誇張である。にもかかわらず、敢えて二人が生まれてきたとしたら、何かしらの区別を想定しないのも不自然ではある)。
言葉を尽くす
我が家では「察して」は、禁止事項となっている。そもそも他人同士が察することなどできないからだ。コミュニケーションの多くは齟齬を含んでおり、同性同士か否か関係なく、誤解したまま進んだり、伝わっていないことを諦めて流したりしている。そんなにたくさん関わらない者同士ならそれは問題ないが、夫婦には子どもの共同養育の義務がある。夫婦のビジョンが、大きくズレていて、互いにコミュニケーション不全に陥っていたら子どもの発達にとって良いわけがない。なるべく言葉を尽くして互いのビジョンを擦り合わせるべきだ。
夫婦だけの問題が多すぎる
そうは言っても、夫婦だけですべての問題が解決できるわけではない。二人が育児に使える時間など、現代社会では限られている。育児はとにかく時間がかかり、先が読めない。ましてや先述のように男女のコミュニケーションの難しさから、現実的には逃げ場がなくなり、夫婦喧嘩がエスカレートしてDVやモラハラに発展することもある。
「察して」のその先に
子どもにとって、被虐体験であると、今度は子どもが親を察する必要が出てきてしまう。親の行動を気にして育った子どもは自分の意志を持つことが難しい。行動は概ねトラウマに支配され、自分がこうしたいと思うこととは関係なく体を動かしたり言葉が出たりする。それは、時に、それは他者への攻撃になる。彼らは、基本的に人間を信頼していない(その体験がない)から、思いやりを持つことが難しい。しかし、そのことは、当然その子の責任とはいえない。また、被虐体験のある子が親になる場合、その体験はさらに次の世代へ受け継がれることが多い。そう考えると、問題を抱えた家庭に責任を押し付けることなどできやしない。
育児を外注する
ならば、育児を外注するという方法が考えられる。初めから夫婦間に起こりうるリスクを減らすため、自らが育児に割く時間を減らすのだ。たしかにこれは一見合理的に見えるのだが、実際の保育の現場は大人一人が複数人の子どもを見る。また、毎日24時間任せるわけではない。夜は家に帰って過ごすのが普通だろう。このように育てられた子どもは、親とどの程度強い愛着を築けるだろうか。保育園の分離不安の場面を見ていると、愛着に対するダメージが子どもには多少なりとも残るのではないだろうか。(実際、知人のシングルマザーが仕事を続けるため、保育園に子どもを預ける時間を長くしたところ、保育士から、子どもの保育園での様子や分離不安の様子から、愛着障害を疑われたケースもある。しかし、保育士にその知識があったことで、知人は子どもへの関わり方について改めて考え、今は落ち着いているようだ。)
本当に察するべき相手は誰か
私たちが本当に察しなければいけないのは子どもである。特に全く言葉が使えない小さな乳幼児に対して、察し過ぎることはない。むしろ、子どもは子どもなりにちゃんと身体で言葉を発している。ただ、身体と言語が分離していないだけなのだ。それはつまり、母と子が精神的に分離していないということである。だからこそ、この時期に、子どもは特定の大人と愛着をしっかり築くことでができる。子どもは、大人を安全基地とすることではじめて探査行動することができ、外の世界を冒険することができる。本当にこの時期は、その子の将来のことを考えると最も大事な時期なのだ。
必要なのは保育園ではない
そう考えると、必要なのは保育園ではない(誤解を恐れずに言うと、保育園がある→子どもを長時間預けられる→仕事ができる→子どものこころに問題が生じる→親は忙しくて気づかない→問題が悪化、というループが生じるならばという条件付きではあるが)。中心となって養育する者がしっかりと腰を据えて子育てできるような環境が整うように社会が支援することである。私たちはよく、「子育てをするためにキャリアを諦める」という話をするが、そもそもそのような社会が問題なのであって、そのような社会を維持するべくあるキャリアをあきらめないために保育園に預けて仕事をするのは全くナンセンスなのだ(例えば、必要があればいつでも仕事を休めるし、子どもの大事な時期に子どもと一緒にいることが尊重される社会。自由にキャリア形成でき、いつでも学べる社会。会社のために個人があるのではなく、一人一人がよりよく生きるために会社が存在する社会。になれば良いと思う)
目指すべき社会とは
まず、今いる養育者の仕事依存症(仕事に自分のアイデンティティを求め過ぎること)を解消し、ゆっくり子どもと向き合う時間を過ごすことができる環境を整えることが大事だ。そしてそのためには、私たちはビジョンを共有しなければならない。それが、子どもだけでなく大人の幸せにもつながるのだ。今、私たちが行なっている多くの仕事にどれだけの意味があるのか、よく考えて欲しい。グローバル資本主義を実現するための代替可能なコマとしての私たちが行なっている仕事に一体どんな意味があるというのだろう。私たちは、倫理に目覚める必要があるのだ。今必要なのはグローバルな啓蒙である。それは、モノや金ではなく人を大事にするということだ。そして、そのために、今ある地球を大事にするということだ。
私たちはもともと動物だった
私たちも生態系の一部であるということを忘れてはならない。さまざまな自然の恩恵を受け、これまで生き延びてきた。生まれてきたばかりの子どもたちはそのことをよく知っている。だから自ら自然を破壊したりはしない。ささやかな泣き声で、ただ母親を求めるのだ。子どもたちの欲望に素直に耳を傾けよう。そこに、私たち人類があるべき姿のヒントが隠されているのではないか。私たちは本来、繋がりたいはずだ。生きるとは、他者や自然に囲まれて生きるということだ。人工的に設定された人間関係などではなく、今、目の前にある人や環境を生かして子育てをする道が私たち大人には求められている。
女性と「察する」の関係から
さて、最初の問いに戻るとしよう。おそらく現代社会はあまりに多くのことが切断されてきた。それは私たちの身体がもはや失われるくらいの勢いだ。その反動として、ポストモダンがあったと考えるならば、私たちはもう一度身体性について考えなければならないが、それが行きすぎてしまっては、元の木阿弥である。より、身体性を生かした新たな言語世界の構築こそ、これからの私たちの課題なのである。それは、システムに裏付けられ、形而上学を超えて、偶然性に開かれたものでなければならないのだ。私たち日本人は近現代において時に「察する」に苦しめられてきた(特に学校や会社などのコミュニティで)が、その使い手として新たな自我を作ることができれば、この社会の困難を乗り越えられる(受け入れられる?すり抜けられる?)のではないだろうか。
追加
とある若い夫婦が一生懸命子育てに取り組んでいるのだが、母親の方が育児に疲れてしまい、子ども(現在8ヶ月)を保育園に預けて働きに出るという。父親は心配で自分が育休を取りたいと思っているのだが、収入が心配で育休を取ることに踏み切れない、という話を聞いて、愛着形成の観点から考えるとやはり少し心配だと感じた。また、知人の女性で、やはり同じように子どもがまだ0歳の時から深夜のパートに出かけて(おそらく子育てに行き詰ってしまったのではないか。彼女自身も両親が離婚していて少し複雑な家庭なようだ)父親が深夜の子どもの様子を見るという話も聞いたことがある(ちなみに父親はフルタイム勤務)。男性も育休を気楽に取れるといいなと思っていた矢先、育児・介護休業法改正案の話が出てきた。これ自体はとても良いことなのだが、おそらく産休育休取得は伸び悩むであろう(そもそも育休を取る男性がまだまだ少ない現実から考えると、育休が取りやすいために何をすべきか考えなければならないのにそこはすっ飛ばされている)。先述したとおり、最も大事なことは、私見では
1 育休期間の世帯収入が保証されること
2 育休取得が後のキャリアに影響しないこと
である。このことを法整備など何かしらの方法で解決しない限り、育児を取り巻く環境や少子化問題は改善しないと思う。
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