見出し画像

328日目(薄皮饅頭とこころの発達に関するフィクション②)

先日人生ゲームのことを書いたせいか、何と子ども会のくじ引きで人生ゲームを持って帰っていた長女。シンクロニシティ。

共時性とこころ

前も少し書いたが、結構こういうことがわたしの周りでは起こる(急にエヴァンゲリオンのアニメを見始めたら、二日後にエヴァンゲリオンが好きな学生さんに出会ったとか、気になっていたヴァイオレットエバーガーデンというアニメが戦争とトラウマと手紙の話だったとか)。

こういうことをシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)と心理学者のユングは言っているが、私たちのこころは深いところで他者や自然に繋がっているのだと思う。

また、そんなつながりのことを共時性と言ったりもする。私たちは完全に独立した存在ではないということだ。

薄皮饅頭と共時性

薄皮饅頭には皮がある。空間的に隔てられてるから薄皮饅頭が一個であることがわかる。

たとえ、薄皮が破れていたとしても基本的には一個と数えるだろう(個体間に隙間があれば)。

ところがである。時にそうした空間的に制約を乗り越えて、薄皮の中身が共鳴し合うことがある。

何かの拍子に粒あんがこし餡に変わってしまうことがある(物理的には起こり得ないが、心的薄皮饅頭では、時折そういったことが起こるらしい)

一年生と年長さん

この日、来年地域の小学校に入る、長女の出身幼稚園の子どもたちが、その小学校の一年生の長女に小学校の話を聞く会をした。

年長の子やそのお母さんお父さんが、小学校について何となく気になっていることをとりとめもなく質問して長女が答える。

長女はこの会に際してとても張り切っていて、年長さんたちがどんなことを聞きたいかリサーチしていたので、それに答えられるように彼女なりにいろいろ準備をしていた。

どんな勉強をするのか、給食は何か、係活動は何をするのか、登下校はどれくらい歩くのか、質問答えている姿をみて、途中でわたしは席を外して遠くから見守った。

私からみたら、普段通りよく喋るなぁ、という感じだったが、質問した子達やお母さんお父さんたちにはポジティブに映ったようで、少し学校に行くのが後ろ向きだった子どもたちも、楽しみな気持ちが湧いてきたようだった。

感じ合うこしあんと粒あん

長女の薄皮が開き、年長さんたちの薄皮も開いた。お母さんお父さんの薄皮も開く。

その時、こしあんと粒あんは混ざり合う。表面だけでなく、餡の深いところでも混ざる。だからこそほどよい食感になる。

実は心の薄皮饅頭は入口が二つある。表面の薄皮が開いた場所だけでなく、餡の奥深くにももう一つあるらしいのだ。

気持ちが一つになるとき、私たちはどこか奥深くでつながることができている。

そこには、決して言葉や文字だけでは何かが介在していて、不思議な一致をもたらす。

そういうわけで、シンクロニシティはちょっとしたことですぐに起こるのだ。

感じ合うとはそういうことなのだと思う。



いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集