第四話 朔風花払 ―きたかぜはながはらう― (十一)
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<十一>
◇◇◇
母屋の両親の部屋を訪れた咲保が見たものは、お通夜状態としか言いようのない家族の姿だった。部屋がますます暗く感じる辛気臭さだ。憔悴とやる場のない怒りと困惑と悲しみ。その他、さまざまな負の感情が視覚でも、ぶつかってくる刺激でも感じとれた。特に両親は、ここ数週間の身体の疲れも影響しているのだろう。希望では、もう少し柔らかい当たりを期待していたのだが、残念ながら予想通りだった。
咲保は皆に気取られない程度に、密かに吐息をついた。たった一日でやつれてしまった母の横には目を泣き腫らした瑞波が、父の脇から少し離れた位置に、硬い表情で俯く磐雄が正座している。まるおは、と見れば、ひとり火鉢よりも遠い奥に座っていた。
「お嬢さま、此度の襲撃時お力になれなかったこと、大変申し訳ございませんでした」
いきなりまるおが手をつき、低く頭を下げた。
「仕方ないわ。誰もこんなことになるなんて思いもしなかったんですもの」
「ですが、昨日の時点で、もっと警戒を強めていれば……せめて、石を若さまから取り上げるべきでした」
「そうだとしても、いずれは、また別の方法で付け狙ったに違いないわ。もっと巧みな方法で、追えなければ、そこでしまいよ」
咲保も見逃したし、兄自身も油断していた。誰か一人に非があったわけではない。
「それよりも、今すぐに離れに行って、暁葉と浜路の説明を聞いてちょうだい。ふたりに協力してあげて。することが沢山あるだろうから」
「……畏まりました」
静々と部屋を出ていくまるおの背は、少し曲がっている。咲保は長火鉢を挟んで正面、空いた座布団の上に腰を下ろした。
「みんなから色々と話を聞いたけれど、大変やったな。世話をかけた」
父の労う声は、静かだった。だが、両手を袖に隠して、身を守るように腕を組む仕草が、父でも難しい状況だと思っていることを知らせるようだった。
「それで、要領を得ないところもあるし、おまえからも話を聞きたい」
沈みがちな気持ちを立て直して、咲保はできるだけ昨日からあったことと分かったことを、なるべく感情的にならないよう話した。話している最中、母と弟が口を挟んでくることはなかった。父からは、二、三、質問があったが、横道にそれる内容ではなく、彼女を責める言葉もなかった。そのおかげで、最後まで冷静に話すことができた。
一通り咲保の話を聞き終えた父は、深々と溜息をついた。
「言いたいことは沢山あるけど、私が居たとしても、猫神さんがその場にいてそれだと、阻止できたかは怪しいな」
「そうだと思います」
それで、と一段と父の声が低くなった。
「おまえが迎えに行くて、お母はんに言ったそうだな」
「はい」
「なんでそう考えた。招かれずしてモノの『場』に入るなんて、死地に向かうようなもんだと分かっているんか」
「わかっています。その場の思い付きで言ったわけではありません。理由はあります」
「理由とは」
「お兄さまが、このまま大人しく捕まっているとは思えません。隙を見て逃げ出そうとするでしょう。ですが、出口がそう簡単に見つかるとは思えず、また攫ったモノも逃すまいとするでしょう。ですから、こちらから口を開けて加勢しようと思いました」
「出口を作るだけではいかんのか」
「もし、戦闘があったとしても、相手を再起不能にすることができません。お兄さまには不利です。門を開ければ、神や神器を降ろせるようになるかもしれませんが、それでも、怪我をする可能性もあります。『場』では主が許さない限りはかすり傷さえ治癒されませんし、流れる血は止まりません。助けがあった方が無事に戻れる可能性は上がります」
「うちが行きます」
堪えきれない様子で、母が言った。
「子を守るんが親の務めどす。二人も我が子を死にに行かせることなどできまへん」
今にも飛びかからんばかりに必死で咲保を止めようとする母の形相を、咲保は見やった。その母の袖を、皺になりそうにまで握りしめる妹の顔も。
「いいえ、瑞波にはまだお母さまが必要です。お父さまにも、磐雄にも」
「せやかて、あんたが行く必要はあらしませんやろ」
「誰か別の……モノに頼むわけにはいかんのか。まるおも自分が行く言うてたぐらいや」
「それこそ、死にに行くようなものです。当たり前に、他のモノの『場』に入ったモノには制限がかかるそうです。力は半減し、『場』の主に対して敵対行動はできなくなるそうです」
「そうなんか?」
「そう浜路から聞きました。間違いないでしょう」
急に切り取ったかのような、空白が生まれた。
「『場』は、そこの支配するモノの意志がそのまま反映されます。時間の流れさえ思いのままで、入った者も影響を受けます。持ち主はそこでは神にも似た存在です」
浜路はそう説明した。
『場』でモノ同士の戦いになった場合、通常の『あわい』と違い、当然、『場』の主に有利な条件となる。現世の武具は持ち込めるが、もし、『場』の主に傷を与えられたとしてもすぐに修復されるし、何もない空間に、想像だけで瞬時に物を作り出すこともできる。
「とはいえ、あくまでも神に『似た』存在。主たるモノの基本の力量や精神状態も影響しますので、上限があります。本物の神が『場』に顕現すれば、勝てません。つまり、主を上回る力量の持ち主であれば、影響は回避できます。戦いにおいて『場』の主の有利さに変わりはありませんが、『絶対の存在』ではなくなります」
尚、負けたモノは消滅するか、勝ったモノに従属することになる。そう説明すれば、このことは父も知らなかったようだ。討伐において『場』に逃げたモノを追うまでのことは、滅多にしない。無駄死にしかねないからだ。外から出られないように封印するのが定石とされる。だから、尚更、『場』でモノ同士が戦った場合のことなど知るはずもない。
父は口の中で唸ると、押し黙った。ここで磐雄が、『自分も行く』と無茶を言い出さなくて良かった、と咲保は思う。すでに両親に言い含められているのだろう。膝に置かれた手が骨の形が見えるほど、硬く握りしめられているのがわかった。
「ですから、中に入るのは人でなくてはいけません。今回は、私が行くのが最善です」
「おまえが行ってどうなる」
「私には、これまで自分を守るために集めてきた知識があります。対抗できるだけの知識も道具もあります。豊玉毘賣命さまより賜わった潮盈珠と潮乾珠もあります。暁葉や浜路、まるおの手助けで、『場』の影響を受けないだけの装備を準備しています。だから、お兄さまを助け出すことも可能だと思っています」
「それらを借りて、他の誰かが行くこともできるんと違うか」
「いいえ、札などは渡すことは可能ですが、それだけでは心許ないでしょう。装具については私用にあつらえていますので、無理です。新たにあつらえるとなると、材料集めも含めて時間がかかります。今こうして話している間も惜しいです。行くのに、早い内が良いです」
父も、咲保の説明の正当性がわかっているだろう。だが、心がそれに追いついていないように感じた。それが、もどかしい。
「相手が、『酒呑童子』や『土蜘蛛』と変わらんかしれん。そうしたら、どうするつもりだ。戦い方を知らんおまえが行って、無事で済むはずがない」
確かに、咲保では源頼光や渡辺綱のようにはいかないだろう。
「相手は玄武や鯉。暁葉たちの見立てでは、鬼よりも格段に劣るモノだろうということです。祟りモノとは違い、元より陰陽道に祀られたモノであることからも、神仏のお力をお借りすれば、私なら必ず抑えこむことができるだろうと。そのための方策を、練ってもくれています」
「それなら、おまえでなくても良いだろう」
その問いの答えは、いいえ、だ。
「私が最善です。私はお父さまたちのように、神だけに仕える者ではございませんもの。その分、渡来のモノにも対抗できる手数も多いです」
父や兄のように、その身に神や神器の御霊を降ろせるほどの胆力や膂力が、咲保にはない。だが、人並み以上にそれ以外を扱うことができる。その中途半端さが、今の助けになる。父も、はっとして、それが理解できたようだった。
「咲保、おまえも大事な娘だ。行かせたくない」
「……わかっています」
「いや。おまえは、すぐに無茶をしたがるところがある。自分から進んで犠牲を払いたがっているように感じる時がある。どうにもならん身体のせいか、自分にはさほど価値がないと思っているのか知らんけれど、おまえも桐眞と変わらず、私たちの自慢の娘だし、どちらかを選ぶことなどできない」
はっ、として咲保は慌てた。
(そうじゃないわ。そうじゃないの!)
しかし、なんと言えば理解してもらえるのかわからない。なんとか、頭の中から言葉を捻り出した。
「お父さま、私、この厄介な体質のせいで、これまで数えきれないほど死にかけていますけれど、自分から死にたいとは思っていません。ただ、この先、普通の方々のようにお嫁に行って、子どもを産み育てることは無理だと思っています。たぶん、そう長く生きてもいられないだろうな、とも思っています。わかりませんけれど……」
悲痛な表情を浮かべながら、それでも咲保の言葉を聞こうとしてくれる両親の顔を見やった。
「でも、世間では違うのかもしれませんが、それでも私、自分のことをこれっぽっちも可哀想だとは思っていません」
親が子に持つ価値と社会的な価値の違いを思わず言いそうになったが、黙った。話がずれる。それにしても、こうしてはっきりと意思表示をするのは初めてだ。心臓がどきどきと脈打った。
「毎日、出来るだけ穏やかに、その日をなんとか過ごせればいいと思っていますが、その中で自分にできることを増やしたいと思っています。なかなか上手にできませんが、せめて、自分の面倒ぐらいは自分でみられるようになりたいと、私なりに努力しているつもりです。ですから、お父さまには無茶と思えることをしていても、磐雄が剣の修行で怪我をして帰ってくるのと同じにみてもらえれば、と思います」
指をつき、畳の目を見下ろす。
「私は、お兄さまのいる、元の日常に戻りたいです。そのために、できることをしたいと思っています。今回の件についても、まったく勝算がないわけではなく、私なりに考えて、迎えに行くと決めました。助けられる可能性があるのに、見捨てては置けません」
「おまえの言う事はわかる。わたしも助けられるもんなら、なんとしてでも助けたい。だが、話に聞く、モノの『場』に行った者が帰って来れた例は、ほんの数例だ。それも複数年経ってからとか、頭がおかしくなって帰ってきたとかそんな話ばかりで、帰って来られたとしても、親として、そんな状態で苦しむおまえも桐眞も見たくない。生きていてくれさえいればいいと思いもするが、おまえをも犠牲にしてまで更に辛い思いをさせるくらいやったら、諦めた方がいいかもしれん……そういう迷いがある。すぐには決められない」
「けれど、そうしている間にも、お兄さまは飢え死にしてしまうかもしれません。お兄さまなら、絶対にあちらの食べ物を口にしないでしょうから」
異界で出された食べ物を口にすれば、それだけモノに近づくらしい。常人から離れた存在になる――それを知っていて食べることはしないだろう。しかし、人は食べなければ生きていけない。生理的な欲求にどこまで耐えられるかは個人差によるが、食べなければ身体は弱る一方だ。
「まだ半日も経っていません。でも、あちらとこちらでは、時間の流れが違います。それがどう影響するか……迷う時間が長引くほど、難しくなっていくでしょう。それに、モノに拐かされたと言われる話のほとんどが、神隠しを騙った人為的なものです。気が触れたという話もあてになりません。仮に、本当にモノの仕業だったとしても、攫われたのは普通の、知識もない家の子供や人たちです。その点、私もお兄さまも、モノや『あわい』のことを知っていますし、慣れています。対処の仕方も。暁葉たちも協力してくれています。どこにいるかは、浜路が見つけてくれます。それだけでも、お兄さまが助かる可能性は高いと思います」
咲保は頭を下げた。
「ですから、今、決断をお願いします。助けに行かせてください。お兄さまも待っていると思います」
頭を下げた姿勢のまま、返事を待った。しかし、なかなか父の声は返って来なかった。母と短く小声で話す声が聞こえた。辛抱強く待った。一生懸命に話したつもりだが、父にはちっとも伝わらなかったのか、と不安にもなる。
どれほど待ったのか、実際は大したことのない時間だったかもしれない。そろそろ同じ姿勢でいることも辛くなってきた頃に、父の深々とした溜息があった。
「二日間……こっちで二日経っても戻らんかったら、他家の力を借りても、なにをしてでもおまえたちを助けに出る」
「それは……」
そんなことをしてもいいのか、家や兄の名に傷がつくのではないか、と思わず顔を上げると、父は火鉢の灰を睨みつけていた。咲保の方を見ようともしない。
「その辺が、まるお達を抑えられていられる限界だ……これからすぐに出るのか」
「準備がありますから。札を用意したりいろいろ。でも、遅くとも、明日の朝にはと思います」
「そうか。目処が立ったら教えてくれ」
「はい。では、さっそく準備にかかります」
では、と咲保はひとつ頭を下げ直すと、立ち上がってすぐに両親の部屋を出た。閉めた襖の向こうから、磐雄の大きくした声が聞こえた。母の泣く声も。話している間、みんな咲保が倒れないようにと、言いたいことを我慢をしてくれていたのだろう。咲保は、静かに部屋の前を立ち去った。