第四話 朔風花払 ―きたかぜはながはらう― (九)
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<九>
父が帰宅したのは、それから間もなくのことだった。『あわいの道』を使ったにも関わらず荒い息をついている様は、それだけ動転していることが察せられた。顔色も悪く、目の下にうっすらと隈も浮かんでいる。父こそ、今にも倒れそうだ。
「お母さまは大丈夫ですわ。疲労が溜まっているところに心労が祟ったのが原因で、他に悪いところはないそうですわ。安静にしていればすぐに良くなるだろうってお医者様が」
咲保は父を出迎えた玄関で、手短に話した。
「寝ているのか」
「いえ、もう起きてらっしゃいます。先程まるおも戻ってきたので、ついていてもらっています」
「そうか」
「ただ、私……」
「どうかしたのか」
「お母さまを、泣かせてしまいましたの」
咲保の宣言を聞いた母はひどく取り乱し、怒り詰られ、泣かれた。目の当たりにした母のあまりの感情的な様は、咲保もまさかと驚くほどの激しさだった。やはり、母は大丈夫ではなかった、と言ったことを後悔した。
「それで、おまえは大丈夫だったんか」
「はい。磐雄と瑞波が来て、お母さまを宥めてくれましたから」
束の間、ほぼ失神状態だったが、それは黙っておく。
「そうか。すまんかったな。随分と負担かけた」
「いえ……」
「桐眞のことは」
「それについては、皆と一緒に。お母さまが落ち着いてからお話しします」
「わかった」
父からは深々とした嘆息があった。おそらく事態が飲み込めていない焦りもあるだろうに、飲み込んでくれたことに申し訳なくも感謝した。頼りになる人がいてくれるだけで、咲保の不安も和らぐ。
「お父さま、お昼は? お母さまが用意したおにぎりがありますけれど」
「ああ、助かる」
「もし、お部屋でとられるなら、瑞波に言って運ばせてください」
「おまえは? もうすませたんか」
「まだ、これから。部屋でいただきます。浜路たちと話さなければなりませんし、今はお母さまも顔を合わせづらいでしょうから」
「そうかしらんな。なら、様子見て呼ぶ」
「お願いします」
咲保は父と別れると、厨房を経由して離れへと戻った。
部屋には、すでに浜路と暁葉がいて、すでに二人で話し合っていた。
「一条を更に上ったところに古い小さな神社があって、そこの奴じゃないかって、うちの子がとっ捕まえた亀公から聞いてね。ちょいと見に寄ってみたんだけれど、当たりで間違いないと思うよ」
「輝陽は疎くて。なんという神社なんですか」
「そのまんまだよ。玄武神社。しかも、祀られているのがかつての皇子でね、藤原某に政権争いで負けた人物だそうだ。世が世ならば、皇になられていただろう御方さね。先の大戦より以前のまだきちんとしていた頃だから、それもなかったのが残念だねぇ」
「あら、そこだったら覚えがあるわ。行ったこともないし御社の名前までは知らなかったけれど、そういう方が祀られているってお祖母さまに聞いたことがあるわ」
思わず、咲保は二人の会話に割って入った。
「おや、お嬢さんもご存知で」
「お祖父さまのお屋敷からさほど遠くないところよ。お母さまのご親戚も、お近くにお住まいじゃなかったかしら。従兄弟だか再従兄弟だったか……失礼してごめんなさいね。お昼をいただきながら聞くわ」
暁葉に答えて真向かいに座り、話に耳を傾けた。
「いいえ、どうぞお気遣いなく。それに関して、ちょいと気になる話も耳にしましてね。女の童がふたり、よく出入りしていたそうなんですよ。白いのと黒いの。最近は、とんと見かけないそうですが」
「白いのと黒いの?」
「おかっぱ頭の白いのと黒いのだそうで。小綺麗な振袖姿の、双子らしいよく似た面立ちの童女ふたりだそうですよ」
「座敷童子かしら。双子なんて聞いたことはないけれど」
「ちがうでしょう。座敷童子は滅多に外に出ない上に、西には数も少のぉござんすから。蝦夷にいた人の移動に憑いて下りてきたのが、少々いるくらいですよ」
「それに関係するかどうかはわからないのですが」
と、遠慮がちに浜路が口を開いた。
「お庭の門を開いたあたりを探ってみて、これらを拾ったのですが」
取り出したハンカチの上に、小さな半透明の破片がいくつか載っていた。
「鱗?」
昨日、咲保が庭で拾った玄武の鱗とは違い、間違いなく魚の鱗だ。
「よく見つけたわね、こんな小さいもの」
「手応えは感じていたので。何か手がかりがないかとよくよく探してみたのです。そうしたら、これらが庭のあちこちに」
「じゃあ、玄武のほかに協力しているモノがいるってことかい?」
暁葉の問いに、浜路は頷いた。
「どっちが協力しているのかはわかりませんが、同じ水の系譜で手を組んだと考えられます」
「なんの魚かしら」
「真水であったことからも川魚かと。鱗の大きさから、鯉か鮒か」
「鯉でござんしょうね」
間髪おかず、暁葉が答えた。
「鮒は滅多に力を持ちませんから。その点、鯉は縁起担ぎの定番でござんすから」
「端午の節句とか。出世魚の代表よね。人に『こういうものである』って思われることで個性が得られて、そこに独立した意思が生まれることが物の怪に変貌する第一歩、と前に聞いたわね」
「そこに個として名がつけば益々、というものでござんすが、どこぞの誰かが、社の池の鯉に名でもつけましたかねぇ?」
あれ、と何かが咲保の中で引っかかった。
「ええと、お兄さまを攫ったのは玄武ではなくて、鯉のモノ? 『場』を作れるだけの力量のある」
「おそらくは」
「鱗がそう示しているかと」
咲保は首を捻った。
「『恋し待つ』の石を運んできたのは玄武よね。預かり物と言っていたから、てっきり同じ玄武の仲間が出したと思っていたけれど、それが実は鯉で、なにがしかの理由があって玄武が協力していたってこと?」
「その可能性も出てきた、ということですね。お庭に顕れた『場』は鯉のもので間違いないでしょう。ですが、鯉も別のモノの協力者とも考えられます。二人の童女というのも気になりますし……こちらは、まったく関係ないかもしれませんが」
「ますます、わからなくなったわ。ねぇ……その、下世話な話になって申し訳ないけれど、まさか、かげまということはないわよね? その、モノにも衆道とかってあるの?」
クロタケと名乗った玄武自身が出した恋文を『預かった』と偽り、道ならぬ恋に鯉が協力している、という逆の可能性にも思い当たった。
「ないわけじゃござんせんが、それじゃあ、あまりにも坊ちゃんが不憫すぎますよ」
暁葉が呆れたように答えた。
「そうよね。できれば、私もそっちは考えたくないわ……」
咲保も肩を落とした。
「まあ、とにかく、お兄さまは鯉の『場』に囚われたと考えていいのね」
「そうですね。そこから別の『場』に移す可能性もありますが、『場』と『場』を直接つなげることはできません。そんなことをすれば、モノ同士の力が反発し合い、どちらも崩壊します。そうなれば、『あわい』全体に伝わるかと。一度、『あわいの道』を経由する必要があります」
「そうなのね。でも、そこから移動されると厄介ね。みぃが一緒ならいいけれど、気づかれて引き離されたら絶望的だわ」
『あわい』は無限の広さと言ってもいい。一度、見失えば、神の目を持ってしても探すことは困難だろう。
「ですから、首謀者が何者であれ、急ぎ鯉の『場』をこじ開け、その状態を維持することが先決と思われます。そうすれば、『場』であっても天の助力を得られます」
そして、力押しで畳み掛ける。
「それでお兄さまを助け出せれば、重畳。いなければ、鯉か玄武をふんじばって居場所を吐かせる、でいいのかしら」
「お嬢さん、言葉使いが乱れてござんすよ。お気持ちはわかりますけれど」
そう窘める暁葉の浮かべた笑みにも、ぞっとするような獰猛さが感じられた。
「モノ同士にも最低限の礼儀ってものがございましてね。他のモノの領分を侵して『場』を開くなんて横紙破り、戦を仕掛けられたも同然にござんす。これを許しせば、モノとしての沽券に関わります。縄張りを荒らされたまるおは当然のことながら、あたくしも浜路もお気に入りにちょっかい出されて、この手で八つ裂きにしても飽き足らない程に腹を立てているんでございますよ」
見れば、大人しくしている浜路の瞳も、いつもより猫の目に近い。
(ああ、そういうことなのね)
咲保は、豊玉毘賣命が急ぎ使者を送ってきた意味に気づいた。途端、ゆらり、と陽炎が立つような気持ちが湧いた。人ひとりの一生を台無しにしようかという局面で忖度を迫るとは、神とはつくづく理不尽だと感じる。
「あなた達が戻る少し前に、豊玉毘賣命さまの使者の方がいらして、潮盈珠と潮乾珠をくださった時、おっしゃったのよ。くれぐれもやりすぎるな、って。水分に支障が出ると困るだろうって」
ひゃっ、と浜路が悲鳴を上げた。暁葉は器用に片眉を上げて、ふん、とつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「さすが、惚れた男を『場』に三年引き留めただけのことはござんすね。大した仰りようだ。男も望んでのことだったようですが、その辺りであちらにもご同情なすったんですかねぇ? ご自身も、結局は裏切られたっていうのに」
八尋の大和邇――大きな鮫とも言われるが、その化身であった豊玉毘賣命が出産に際し、本来の姿となるため見るなと言いつけたにも関わらず、夫である火遠理命は好奇心から産屋を覗いてしまい、本性に恐れて逃げてしまった。豊玉毘賣命はそれを恨み恥じて、二度と夫が行き来できないよう『道』を塞ぎ、傷心のうちにひとり海に帰ったと伝わる。
浜路が首をすくめた。
「水のモノに関しては不得手のため、そちら周辺の知人にどうすれば良いか聞きに行っただけなんです。そんなつもりはなく……」
「気にしないで。突然で、心臓に悪かったけれど」
「……すみません」
「珠を譲ってくれただけまし、ってもんでしょうかねぇ。まあ、有り難く使わせていただきましょう」
「でも、水分神のご機嫌を損ねて、バチを当てられたくないわ。水が来なくなれば、人には死活問題ですもの。お兄さまを助けられたとしても、それじゃあ割に合わない。でも、ほどほどってどのくらいを指すのかしらね」
「さて、どうでしょうかねぇ。確かに他の神の領分に障りをきたせば、のちのち面倒になりかねませんから……」
「嫌がらせ程度で収めろ、ってことでしょうか」
「嫌がらせ……」
モノへの嫌がらせとは何をどうすれば良いのか、咲保にはすぐに思いつかなかった。
「ああ、そう言えば、こんなこともおっしゃっておられたわ。『門をこじ開ける時には鏡を使え』って。負担が減るだろうからって。普通の鏡でいいのかしら」
それには、二人もきょとんとして咲保を見た。
「なるほど、その手がありましたか。鏡は高天原にも通じる門でござんすから。より天にも『場』にも通じやすくなりますね」
「確かに、直に『場』に飛び込むよりは安全でしょう。その代わり、フダを逆さに書く必要がありますが」
「ああ、鏡文字は難しいわね。作るのに時間がかかりそうだわ」
「でも、そうするだけの価値はあるでしょう。入った途端に怪我を負うなんてことは避けられるはずです」
「無理に押し通るわけですからね。招かざる者が入ろうとすれば、拒むのは必定。『あわいの道』を開くのとは、勝手がちがいますよ。用心に用心を重ねて、損はござんせん」
「鏡もこちらでご用意いたしましょう。できるだけ良い物を」
「そう。じゃあ、任せるわ。よければ、嫌がらせの方法も考えてくれるとありがたいわ」
そこまで話したところで、「もうし」と障子に小さな影がよぎった。障子を開ければ、大黒頭巾を被った子だぬきが一匹、ちんまりと畏まった様子で外廊下に佇んでいた。
「お話し中お邪魔して申し訳ございません。お嬢さまには母屋にいらしてくださるよう、ご主人よりお願いされてございます」
と、子だぬきは、大人の所作で子どものような声を発する。
「あら、子だぬきさんのお使いなんて珍しい。まるおはどうしたの」
「姐さまは、此度の失態にお嬢さまに顔向けできないと、すっかりと気落ちなさっておいでで。代わりに参りましてございます」
「おや、怒り狂っているならまだしも、傷心とはらしくないねぇ」
暁葉が混ぜ返せば、子だぬきは申し訳なさそうに俯いた。
「無論、此度の襲撃には一門ともども腑が煮えくりかえってはおりますが、お嬢さまが大変な時にお側についていられなかったことを、姐さまはたいへん悔やんでおられまして」
「仕方がないわ。新嘗祭だったんですもの。そうそう抜けられるものではなかったでしょうに」
「でも、そのお気持ちはわかります」
浜路が同情めいて口にした。咲保は立ち上がった。
「お母さま達を説得してくるわ。まるおにはこっちに来てもらいましょう。あなた達と話してもらった方が、落ち着いてくれると思うから」
「お任せください。喝を入れてやりますよ」
胡乱な暁葉の笑みに見送られて、咲保は母屋へと向かった。