第四話 朔風花払 ―きたかぜはながはらう― (八)
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<八>
◇◇◇
咲保は、浜路の忠告に従い、まず着替えることにした。普段着だが、ちょっとした外出にも着ていけるよう護法を仕込んだ市松柄の紬だ。簪も同様に取り替えた。おそらくこの先、感情的になる場面が増えるに違いないと予想された。そのための自衛だ。いちいち倒れたりしてはいられない。
次に、父宛てに短い手紙を書くと、式神にして飛ばした。電話で伝言するには心許なく、また他所に漏れる心配がある。久しぶりに作った式神は気持ちが反映したのか、灰色のどこかみすぼらしい鳥になってしまった。それでもしっかりと羽ばたいて行ったので、間違いなく父に届くだろう。午後までには連絡がつくに違いない。
まるおや暁葉には、浜路が子猫を使いに出して伝えてくれるそうだ。浜路にはなにか考えがあるようで、見張り役の子猫を一匹置いて、今は出掛けている。
医者の診断では、母は特段悪いところも見当たらず、疲れが出たのだろうということだった。今朝、唯一の朗報だ。母は瑞波に任せ、家事に戻った。各部屋に炭を入れ、朝餉の支度をした。そうすることで、段々と気分が落ち着いてくるのを感じた。
ほぼ平静に戻れば、うっかり学校に電話を入れることを忘れていた、と思い出した。と、すでに磐雄が自分で瑞波の分も連絡を入れてくれていた。
「先生にはなんて?」
「母が急に倒れたから、と伝えました。妹以外の家族が不在なので、看病が必要だからと」
「何かおっしゃられていた?」
「お大事にと」
噓も方便とはいうが、随分としっかりしたものだ。考えてみれば、磐雄もひと昔前ならば、元服間近の年齢だ。なにもできない幼子ではない。咲保は少しだけ安堵した。
「今朝あったことを話すわね。お兄さまのことも。静かに聞いてね」
言葉数の少ない、三人だけのいつもより遅い朝食をすませたのち、咲保は神妙にかまえる弟と妹に言った。不安に揺らぐふたりの目から逃げるように視線をわずかに逸らして、桐眞がモノに攫われたことを伝えた。
可能な限り平静に、弟や妹の感情を刺激しないように伝えたつもりだったが、失敗してしまったようだ。
「桐眞お兄さまは、もううちに帰ってこれないの? もう会えないの?」
今にも泣きそうな瑞波の問いに、いいえ、と答えられたらどんなに良いだろう。
「わからないわ……」
「助けを呼びましょう。梟帥お兄さんなら、きっと助けてくれます!」
「駄目よ。他家に知られるわけにはいかないわ」
一瞬だけ、磐雄の行き場のない怒りが咲保に向けられたが、風が当たった程度のものだった。
「どうしてですか」
「お家の存続に関わるからよ。攫われたなんて間違いなく醜聞になるし、皇のお耳に入れば、お兄さまが無事に帰ってきたとしても、家の跡取りとして力不足と判断されて、遠ざけられる可能性があるわ。この先、不遇を強いられるかもしれない。帝周辺の方々に知られれば、面白おかしく噂されて、お兄さまどころか、お父さまのお仕事にも影響が出るかもしれないわ」
「お兄さまの実力なら、そんなのすぐに覆せるでしょう」
「そうできればいいけれど……他人の不幸を面白がる人は多いわ。他人を貶めたがる人も。現実がどうとかよりも、それを信じたがる人も。そうじゃない? それが他人の人生にどう影響しようと関係ないのよ。あなたの周りには、そういう人はいない?」
そう問えば、弟は唇を歪んだ形のまま閉じた。
「だから、お兄さまを助けるにしても、慎重に進めなければいけないの。結果的に助力を求めるしかないにしても、人選も含めてお父さまが判断なさることよ」
家の没落など、珍しい話ではない。新政府になってからは尚更だ。爵位などいらないと父も常々口にしているが、今の生活を続けていられなくなるのも困る。
「でも、なんとかしないと」
「心配で何かをしたいのはわかるけれど、下手に動けば、かえって事を悪くしかねないの。今を解決するだけではだめなのよ。お願いだから、ここはお父さまのお帰りを待ちましょう。それにね」
咲保は成人に近づきある磐雄の顔を見た。顔つきに、この年頃の男の子らしい自己過信の片鱗が感じられた。頼るには危うい。それは咲保も同じではあるが、ここでは一番の年長者として、堪えるしかない。
「梟帥さんは頼りになる方だけれど、今回に限っては難しいの。おそらく、お兄さまが囚われたのは、『あわい』の中でも道とは違う『あわいの場』よ。『場』に行くと言うことは敵陣の真ん中に行くようなもので、普通の討伐よりもずっと厳しいと言われてるの。たとえ無事に戻ってこられたとしても、モノの『場』は浦島太郎の竜宮城みたいに、時間の流れが違っている場所よ。戻ってきた時、あなたや皆んなが死んだ後でという可能性もあるのよ。助けに行く方も、一生を賭けることにもなってしまう……よその方に、そんな無理をお願いできないわ」
「そんな! じゃあ、どうすれば……?」
顔面を青白くしたその問いの答えがあるなら、咲保も聞きたい。
「お兄さま、ひとりぼっちになっちゃうの?」
ぐすぐすと洟を啜りながら瑞波にも問われる。瑞波の悲しみが、優しい波のように打ちつけてくる。そこにある純粋な思いやりや善意に、胸が痛くなる。そうではない、と言ってやりたいが、一時的に誤魔化したところで、かえってより傷つけることになりかねない。咲保は正直に答えるしかなかった。
「最悪、そういうこともあるかもしれないの。でも、希望がないわけではないわ。お兄さまは知識もあるし、お強いもの。こちらでも、今、浜路が助ける方法を考えて動いてくれているわ。それと、みぃもお兄さまに一緒についていってしまったの」
「うそ、みぃもいなくなっちゃったの?」
迷いはしたものの正直に答えれば、堪えきれなくなった涙が、妹の瞳からぼろぼろとこぼれ落ち始めた。咲保はチリガミを妹に手渡した。
「そうなの。でも、浜路が言うには、みぃがお兄さまを守ってくれるだろうって。みぃは賢いから。お兄さまもみぃがいて心強いでしょう。少なくとも、ひとりぼっちではないわ。それだけでも安心しているのよ」
泣き声をあげる妹の悲しみに、咲保も溺れそうだ。だが、他に慰める言葉も知らない。視線をまだ納得がいっていないらしい弟に向けた。
「磐雄、万が一、お兄さまが帰らなかった場合、あなたが家を継ぐことになるわ。酷なこと言うようだけれど、その心づもりだけはしておいてね。決して、勝手に動こうとしないで、当主であるお父さまの指示に従ってちょうだい」
そう弟に釘を刺せば、悔しそうに俯いた。すべてを飲み込むのは難しいだろう、と咲保も思う。が、少なくとも父が戻るまでは、堪えてもらうしかない。
「今はなにもせず、待つのが最善です」
磐雄は黙って立ち上がると、部屋を出ていってしまった。難しい年頃だ。特に男の子は、どう扱っていいのかわからない。八つ当たりの的にされなかっただけ、まだ上出来かもしれない。我慢できず、咲保は溜息をついた。弟や妹が愚図る気持ちもわかるが、ずっと寄り添ってもいられない。そこまでの余裕は咲保にもない。考えなければならない事は山ほどある。しなければならないことも。
「さあ、家の仕事をしなくては。まるおもいなくて大変なの。瑞波も手伝ってちょうだい」
そう促すが、瑞波はまだしゃくりあげていて、腰をあげそうにない。そっとしておくしかないだろう。咲保はそれ以上、妹にはかまわず、朝食の膳を片付け始めた。
部屋を出ると、外から勇ましい掛け声が聞こえてきた。磐雄だ。素振りを始めたらしい。仕方がない。こっちも放っておくしかないだろう。咲保はもう一度、溜息をついた。
きゑや六蔵にも手伝ってもらいながら、午前中をかけて家中の掃除を片付けた。特に神棚と祠は念入りに行った。途中、瑞波も加わってくれたので、あらかた終えることができたが、洗濯までは手が回らなかった。手を洗って厨房に戻れば、母が起きだして朝の残りごはんで握飯をにぎっていた。更に追加で炊いているのだろう。ふつふつと音を立てている釜から、湯気と共に米の甘い匂いが漂っていた。もう一つの竈では、きゑが煮物を作っている。
「お母さま、もうよろしいの?」
「ええ、世話をかけましたな」
「よかった」
仄暗い目を見る限りまったく大丈夫そうではないが、そう答えた。
作業台を見れば、いくつもの具材が皿に用意されている。梅干しに塩昆布、おかかに塩鮭のほか貝のしぐれ煮もある。あとは海苔。いったいどれだけ作るつもりなのか、それぞれの量が多い。だが、母に聞こうにも聞ける雰囲気になく、ただ無心に手を動かしているだけのようにも見えた。
「手伝います」
「ほなら、そこの海苔を炙って、縦に四等分にして切ってもらえますか」
「わかりました」
黒々とした板海苔を二枚重ねにして、七輪で表裏を返しながら炙り、緑がかった色に変わったところで、次の海苔に移る。香ばしい匂いがたつ海苔を重ね、細長い四等分に切り分けた。それを一枚ずつ出来たおにぎりに巻いていった。
ふ、と結界を通る者がいた。ほんの微かな気配だ。父ではない。
「あら、どなたかいらしたみたい。私が出ますわ」
母に断って、襷を解きながら玄関に向かった。すると、浅葱の地に流水紋の訪問着と、この時期にはそぐわないだろう身なりの女性が待っていた。髪は結いもせず、ただ流しているのが、良さげな仕立ての着物とそぐわない。瞼の薄いのっぺりとした顔立ちに表情はなく、それが余計に寒々しく感じた。良家の者らしい雰囲気はあるが、どこかちぐはぐだ。人の姿をしたモノらしいと咲保も察した。しかも、高位の、だろう。おそらく、暁葉やまるお以上の。緊張する。
「どちらさまでしょうか」
「木栖咲保さまでらっしゃいますか」
「さようにございますが」
「憚りながら、我が姫さまより、こちらをお渡しするよう申し仕り、参った次第にございます。どうぞお受け取りください」
と、女性は袂より、無造作にもむき出しのままの、とんぼ玉ほどの大きさの玉をふたつ取り出した。透明な玉と、もう一つは、深い青緑色の瑪瑙に似た不透明な玉だ。どちらも濁りひとつなく美しい。手に受け取れば、ひやりと冷たい。
「色のついた方が潮盈珠、透明な方が潮乾珠にございます」
ひ、と声にならない声をあげて、咲保は息を呑んだ。
「あの、失礼ながらお尋ねいたしますが、ひょっとして姫さまとは、豊玉毘売命さまのことであらせられましょうか?」
「さようにございます」
「これは知らぬこととは言え、とんだご無礼を!」
咲保は珠を乗せた両手を掲げたまま、その場で平伏した。
豊玉毘売命は、天照大神の孫である天津日高日子番能邇邇芸能命と木花之佐久夜毘売との間の子である、山幸彦こと火遠理命の伴侶であり、皇族の祖にあたる。兄の海幸彦こと火照命との確執は、『海幸山幸』の呼び名で御伽噺のひとつとしても語られている。
また、豊玉毘売命は、海神大綿津見神の娘であり、大綿津見神は諸説あるが、木栖家の氏神である大山津見神の名と役目を変えた同神とも言われている。しかし、現世にあって、こんな形で、神が人に直に接触してくるなど、聞いたことがない。聞いても、せいぜい夢枕に立ったというぐらいだ。
「どうぞお楽に。面をお上げください」
鷹揚な使者の答えに、咲保はわずかばかり頭を浮かせた。
「人の世にあっては差し迫ったことと判じ、先触れなく訪いましたことお許しください」
「お気遣いもったいなく」
「一族の者が阿波の猫神、お玉さまが眷属である浜路さまよりご相談を受け、あまりにお気の毒な話に姫さまにお伺いを立てたところ、これらが役に立つのではないか、とお許しがございましたので、お持ちしました」
(浜路ったら、なにをしてくれているの!?)
咲保は心の中で悲鳴をあげた。出すところに出せば、国の宝と扱われるだろう代物が、今、自分の手の中にあると思うだけで、震える。
「なんと勿体ない……畏れ多いことにございます」
「お気になさらず。それぞれ、一度きりの使用しかかなわぬものにございますれば、ご遠慮なくお使いください」
漣のように細かく震えて聞こえる使者の声が、大したことのないように言う。
「聞けば、渡来のモノで水を扱うモノの所業であるとか。私どもでは把握しておらぬモノにございますが、御尊父さまが目をかける氏子に対し、なんたる無礼な仕打ちと、姫さまもお怒りにあらせられます。招くでなく、望むわけでもなく、哀れでも幼子でもなき者を人の世から離すなど、モノでなくとも道に反する行い。とはいえ、直に介入するは掟に反する故、わずかばかりではございますが憐れみを授くることとされました」
直接に力は貸せないため見舞いの品を渡す、という形らしい。
「罰を与うるは必定なれど、水分に障りがあってはなりませぬ。程々にされるがよろしかろうと申されておりました」
土地ごとの水の分配は、国之水分神が担うとされる。別の神に関わるとなれば、より面倒になりかねない、ということのようだ。確かに、そうなっては困る。
「……身に余るお心遣い、感謝の念に絶えません。豊玉毘賣命さまのご慈悲に、心より深く御礼申し上げます。如何様にご報恩すれば良いのかすら、皆目、見当がつかぬほどにございます」
「では、無事に戻られた暁にはこの珠を飾り、一度、感謝の祭事を。その際に海では珍しきものをひとつ奉じれば、姫さまもさぞかしお喜びになられることでしょう」
「さようにさせて頂きます」
「あと、ひとつ。門をこじ開ける際には、鏡をお使いになられるとよろしいかと。人の身への負担も減りましょう」
はっ、として咲保は思わず顔を上げた。深い海の底を覗くような使者の瞳と合った。全てが見透かされているようで、なんとも恐ろしい。
「重ねがさねのご忠告、痛み入りましてございます」
咲保は珠を袂にしまうと、額を床につけた。
「無事の帰還、切に願います」
姿は見ずとも、潮のひく静けさで使者の気配が遠ざかっていくのを感じた。完全に気配がなくなるまで咲保は頭を下げ続け、途絶えた瞬間、そのままへたり落ちた。身体の奥から、何かがごっそりと削り取られたような気分だ。
「びっくりした……なんてこと……」
すぐに立てそうにない。それほどに驚いた。
呆けたまま玄関の床に突っ伏していると、足音が近づいてきた。
「なんやの、こないなところではしたない」
「お母さま」
「今の気配はなんでしたの。尋常ではない圧で、こっちも動くに動けんようになってしもて……悪いもんやないとはすぐに分かりましたけれど、一体どなたがお見えになられましたんえ」
叱る言葉はふだん通りでも、声にいつもの覇気がない。それが咲保は、無性に腹が立った。背筋を伸ばして座り直すと、母に向き直った。
「豊玉毘売命のご使者を名乗る方がみえて、これをお与え下さいました。潮盈珠と潮乾珠です」
「まさか」
「間違いございませんわ。それに、門をこじ開ける際のコツもお教えくださいましたの」
そして、鼻息荒く宣言した。
「お母さま、私、お兄さまを連れ戻しに行って参ります」