第四話 朔風花払 ―きたかぜはながはらう― (二)
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<二>
「ところで、手に持ってるそれ、なに?」
梟帥の視線は、咲保の手元に注がれていた。
「ああ、つい、今し方お見えになったクロタケさんという方から、言付かり物をお兄さまに渡して下さいとお預かりしたんです」
「クロタケ? 聞いたことないな」
「学生帽は被ってらっしゃらなかったけれど、大学の方かしら……あっ!」
ひょい、と梟帥は小包を咲保から奪うと耳元で振った。中からカタコトと硬い音が聞こえて、咲保は慌てて飛びつき取り返した。
「壊れたらどうするんですか!?」
「大丈夫だって。持った感じ、そんな感じなかったし」
梟帥は悪びれる様子もなく笑った。
「ちょっと開けてみようよ」
そんなことまで言う。「駄目です」と咲保は、ふたたび伸びてきた手を軽く叩き落とした。
「他人の物を勝手に!」
「だって、気になるじゃないか。ちょいちょい直せばバレないだろ」
「ご自分が同じことされたらお嫌でしょうに」
「咲保さんは、堅いなぁ」
「常識です!」
咲保はしっかりと荷を抱えると、勝手口へと向かった。梟帥も後ろについてくる。客人なのだから玄関を使えばいいのに、もう、すっかり家人気取りで振舞っている。
(変な方……)
梟帥はいつも何がおかしいのか、にやにや笑っている印象だ。飄々とした態度で人を揶揄うのが好きで、時々、とても不躾に感じたりもして、ムッとしたりもする。優等生だった妹の茉莉花とは、性格が真逆に感じる。
だが、なぜか、家人の誰も何も言わない。懐いている磐雄はもとより、両親は彼が家に出入りするのを喜んでいる節もあるし、あれほど咲保に近づくなと注意をしていた桐眞も、静観の構えだ。瑞波は我関せずだし、家族がそういう態度なら咲保は何も言えない。咲保も、梟帥のことが嫌いなわけではない。ただ、苦手なだけだ。
小包を桐眞の部屋の文机の上に置いて厨房に戻ると、作業台の机で向かい合い、ふかし芋を食べながら喋る磐雄と梟帥がいた。今日のおさらいのようだ。『あわい』で迷わないようにするためのコツなど、随分と熱心に話し込んでいる。お手伝いのきゑが、傍で茶を入れているが、お構いなしだ。
きゑも二十年以上もこの家に仕えてくれているだけあって、わけがわからないだろう話にも慣れっこか、或いは、わかっていながら素知らぬ顔で聞き流している。
「おねえさんも一服なすったらいかがですか」
「ありがとう。でも、まだ掃除が途中だから、あとでいただくわ」
厨房の暖かさに後ろ髪引かれながらも、咲保は玄関にあった旗をしまい、再び庭に出て残りの掃除を片付け始めた。
(何かしら、これ……?)
黒っぽい、手のひらほどの大きさの木の皮を思わせる薄い板が、木の葉に紛れていた。六角形を潰した形で、硬い。とは言っても、ガラス板ほどの硬さではなく、薄過ぎる。陽にかざせば、向こうが透けて見える。そして、羽のように軽い。表面にたくさんの筋が入っていてざらりとした手触りだ。
(何かに似ているわね……)
その何かはわからないが、なんとなく気になったため、懐紙に挟んで懐にしまった。そして、残りの落ち葉を急いで片付け、咲保は再び厨房に戻った。戸棚から軟膏を取り出し、両手に塗り込む。痛みから見れば、また指先に小さな切り傷ができている。あかぎれだ。ささくれも。冬場はこれが嫌だ。赤い傷がいくつもついてガサガサになった手は地味に痛くて、見た目も悪い。少し悲しい。
「うちの校長先生、やたら話が長いんですよ。毎年、その日の祝祭の意味を長々と説明するんですけれど、毎年やる必要があるのかって思います。半ドンなのは嬉しいけれど、アレも嫌だな、万歳三唱。形ばかりで、なんの意味があるのかって思います」
「そういうものだよ。話す方はそうは思わないけれど、興味のない話を聞かされる方は、短い時間もやたら長く感じるもんさ」
磐雄と梟帥の二人はまだそこにいて、おさらいは終わったのか、そんな雑談をしていた。瑞波は豆腐屋の笛の音を聞きつけ、鍋を持って出掛けている。
「僕らには必要がないことでも、他の人には必要な事なんだよ。偉い人には偉い人なりの苦労や形式ってものがあるのさ。考え方の違いってやつだよ。形式を重んじる人っていうのは、たいてい面倒臭い人たちだから、変に揉めるよりは合わせたほうが円滑に事が進む。相手の面子も立ててやるし、わざわざ勿体ぶって、回りくどく話したりもするんだ。世の中はそういうことだらけだって、大人になればわかるよ。今はその慣らしの時さ」
「ええ、嫌だなあ。無駄でしょ、それ。偉い人が人は平等だって言っているのに、なんで一方的に我慢しなきゃいけないのかわかりません。ええと、言論の自由! があるんだから、言ってもいいわけでしょう?」
「自由と野蛮は違うよ。自由には規律が求められるし、野蛮は無法だ。物事の発言や振る舞いには時と場所を選ばなきゃいけない。好き放題言ったり振る舞った結果、他人が不利益や不快感を被れば、ただの野蛮。君が校長が気に食わないからって、予告なく朝礼の時にみんなの前でそれを言えば、皆の予定を狂わせるから不快感を与えて、野蛮。皆が許す別の時や場所を使って、他の生徒の賛同を得た上で校長に申し入れをして、設けられた話し合いの場での発言が、自由さ」
「それじゃあ、もし、校長が話し合いなんてしないって言った場合、僕を不快にさせている校長は野蛮、ってことじゃないですか」
「その辺は、校長という立場が持つ裁量権ってやつだよ。朝礼を、規律ある社会を作るための学びの場での教育の一環、と主張した時点でおしまい」
「えぇ、それじゃあ、いつまで経っても変わらないってことじゃないですか」
「そうだね。『校長は朝礼での挨拶を禁じる』なんて規則を作らない限りは」
「そういう風に言われると、馬鹿馬鹿しいな……」
「だろ? 目にあまる不快な行為があれば、規則ができる。つまり、もし君が『自由だから』と言いながら規則にない野蛮な行為をすれば、大抵『やっちゃいけません』って法なり規則なりが追加されることになる。法や規則ができれば、そのぶん、みんな不自由になるわけさ。つまり、自由でいたい君自身が、自分の首を絞めることになる」
「ええ、そこまで大袈裟なことはする気もないよ」
「そうさ。だから、妥協も必要ってこと。実際は、言っても仕方ないことの方が多いよ。話せばわかるってのも、ウソ。話の通じないやつなんて、世の中に五万といるんだから。だから、幽霊や怨霊なんてのもいるんだろ」
「それはそうかもしれないけれど……」
「もっとマシな事に時間を使った方が建設的さ。どうしたら校長先生の演説をいかに短く出来るか、なんて不毛なこと考えるよりも。未だ完璧ではないけれど、少なくとも、ひと時代前みたいに、殿の胸先三寸で『蚊を殺したら死刑』なんてことはなくなった。それが、今ある自由ってもんだよ。野蛮さを捨てることこそが、自由への第一歩さ」
咲保は手を洗い、棚から自分の湯呑みを取り出そうとして、気づいた。
「お兄さまが帰ってきたわ」
「え、ほんと?」
磐雄の問いに答える間もなく、廊下を歩く力強い足音が聞こえてきた。桐眞は、玄関から自室に直行したらしい。襖を開閉する音も聞こえた。「ほんとだ」、と梟帥も感心したように言った。
「家の結界を通り過ぎるのでわかった?」
「ええ」
家族以外にも出入りする者がいる一枚目の結界は、とても緩いものだ。人の気配など、すぐにわかる。咲保は頷くと、桐眞の湯呑みも手にし、二人分の茶の用意をした。程なくして、桐眞が厨房に顔を出した。例の小包みらしい桝のような四角い木箱を携えている。
「お帰りなさい。早かったのね」
「ああ、熾盛も来てたのか。いつも悪いな」
「どういたしまして。出无はどうでしたか」
「まあ、なんとか一通り、無事に終わったよ。向こうの方言がわからなくて、少し困ったくらいだ。それより、咲保、これなんだ? 机の上に置いてあったけれど」
と、箱を見せる。
「ええ、さっきクロタケさんって方が見えて、こちらに来る用事があったから、お兄さま宛の頼まれものを持ってきたそうなので、お預かりしたのですけれど」
「どんなやつだった?」
「書生さんか学生さんに見えましたけれど……ご存じの方ではないの?」
「心当たりがない」
「あら」
「中身、なんだったんですか?」
興味津々とばかりに、梟帥が声をかけた。「それがなぁ……」、と桐眞は答えに淀み、咲保たちの前に箱を開けて差し出した。果たしてその中身には、咲保たちも首を傾げるしかなかった。ところが、おやまあ、ときゑだけが声を上げた。
「若さまは、男前でらっしゃるから」
当惑する咲保たちの横で、きゑは面白そうに声を立てて笑った。
「今時、こんなことなさる方が、まだいらっしゃるんですねぇ」
「きゑさん、これが何か知ってるんですか?」
不審顔の桐眞に、きゑは「ええ、存じておりますよ」と、よい笑顔だ。
「お若い方はご存知ないでしょうねぇ。お武家さまの時代の庶民の間の文ですよ。文字を読める者がまだ少なかった時代の。今となっては古風なもんですけれど、そこが逆に風情を感じますねぇ」
それはまた、随分と昔の話だ。箱の中身は、どこかの川縁で拾ってきたかのような丸い小石だった。細い木綿の糸で縛ってあり、上に松葉が添えてある。他に手紙らしきものもなく、これのどこが手紙なのかさっぱりわからない。
「糸と小石と松で、『いと恋し、待つ』と読むんですよ」
答え合わせに、あらまあ、と咲保は口を押さえた。梟帥のにやにや笑いが、いっそう深まった。
「恋文か」
「え、兄さま、そんな方がいるのですか?」
磐雄が声をあげれば、「いるわけがない」、と若干、顔を赤らめて桐眞は答えた。
「でも、『待つ』ってことは、誰かとお約束されたのでは……」
咲保も気になって問えば、「記憶にない」とぶっきらぼうな返事だ。
「どこかにお名前はなかったのですか? 包みの端とかにも」
「何もなかった。そのクロタケというやつは何か言ってなかったか? どこの学部だとか、どこに住んでいるとか」
「いえ、何も。不在を伝えると、また挨拶する機会はあるだろうとおっしゃられて。知り合いかと思って、詳しくお聞きしなかったのですけれど……」
まさか、中身が恋文とは思いもしなかった。失敗した――咲保は途方に暮れるしかなかった。どこのお嬢さんかは知らないが、うっかりしていたにしても、身元の手がかりぐらい残してくれればいいのに、と思う。
梟帥が興味深げに、小石を手に矯めつ眇めつした。
「謎の差出人か……石からは気配もないし、呪いも祟りもなし」
「当たり前だろう。そんな物騒な物、気づかないわけがない。それより、君は、また誰彼かまわず、余計なことを言ってまわるなよ」
桐眞の注意に、「そんなことしませんよ」と、へらへらとした声が答えた。
「若さまもそういうことの一つや二つあってもおかしくないお年頃ですから。どこぞの古風なお嬢さんが見かけて、お見初めになられたんじゃないですかねぇ」
「きゑさんも、揶揄うのはよしてくれ」
桐眞は照れ臭そうに言うと、小石を箱の中に戻して蓋をした。
「まあ、一方的なものだし、間違いかもしれないし。放っておいても、必要なら、そのうち先方から何か言ってくるだろう」
話は終わりのようだ。そうするより仕方ないだろう、と咲保も茶を啜りながら思った。
(どんな方が送ってきたのかしら……?)
悪筆で文字を書くのを恥ずかしがったのだろうか。うっかり名前を書くのを忘れたか、手違いだったとか? 『待つ』とはどう言うことだろう? きちんと対面できる日を待つとか、そう言う意味だろうか。或いは――見知らぬ相手への想像が尽きない。兄が恋心を抱く対象となることが、妹としてはピンとこないのだが、関わりを持つとなれば、良い人であって欲しいと願うばかりだ。兄にとってだけでなく、自分にとっても。
「出无で出会ったとか」
「そりゃあ、ないな。裏方で、祀りの関係者は男ばかりだし、女性は年配の方ばかりだ」
「本当に? 美人の後家さんとか」
「ない。大体、言っていることがわからん。はなから意味がわからないのであれば、どうしようもない」
兄はうまく話題を逸らしたようだ。
「『べったーだんだん』なんて、最初、なんのまじないの言葉かと思った」
「なんという意味なんですか?」
「『いつもありがとう』と言う意味だそうだ。『べったー』が『いつも』って意味で、『だんだん』が『ありがとう』」
「へぇ、出无弁ってそんなんですか」
「若い者は普通に話してもそこそこ通じるが、お年寄りはなぁ……人当たりも柔らかくて、いい人たちなんだけれどな。磐雄も覚えておいた方がいいぞ。いずれ、お前も手伝いに行くことになるかもしれないから」
「通じない場合はどうするんですか?」
「そりゃあ、誰かを頼るか、あとはだいたいの雰囲気で、相手の言いたいことを推測するしかないな」
「えぇ……」
「軍の都合で、標準語が制定されてからそれが当たり前になっても、地方に行けば、そんなもんが通用するのは中央だけだって、思い知らされるよ」
桐眞がどことなくしみじみとした様子で言った。
「祝詞も訛って聞こえたが、あれが本来のものなのかもしれないな」
「それ言ったらまずいですって。それじゃあ、社のある地元の者しか正しく祀れないってことになってしまう」
梟帥の言う通りだ。祝詞には正しい発声も重要と言われている。訛りの抑揚も含めては、咲保たちの唱える祝詞は正しくないことになってしまう。だとすれば、由々しき事態だ――咲保もそわそわしてしまう。
と、いつの間にか、両手鍋をもった瑞波が戸口に立っていた。口がへの字に曲がっている。
「お帰りなさい」
鍋を受け取りに出ると、中身は空っぽだった。
「お豆腐、売り切れてた?」
「ううん。あのね、お豆腐屋さん追いかけてたら、途中で豆腐小僧に通せんぼされたの」
「あら、それで買えなかったのね。災難だったわねぇ」
瑞波は頷いた。
「あいつきらい」
「そりゃあ、好きなやつはいないだろう」
横で聞いていた梟帥が笑った。
「しかし、この時期に珍しい妖にあったな。雨も降りそうにないのに……ちょっと見てこよ」
そう言って、外に出て行った。この隙にとばかりに、桐眞もそそくさと厨房を出ていく。
(お味噌汁にはお麩を使おうかしらね……)
機嫌の悪い瑞波を労いつつ、咲保は献立の修正をした。