第四話 朔風花払 ―きたかぜはながはらう― (四)
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<四>
◇◇◇
梟帥たちの視線が鬱陶しく、居た堪れずに隙を見て自室に戻ってきた桐眞は、机の上に置いた石を眺めた。長く水底にいたのだろう角ひとつない石は、握るにちょうど良い大きさで、握力を鍛えるのに良さそうな重さだ。つるりとした黒っぽい地に、星のように黄色い点が散らばっている。見ようによっては、夜空のようだ。
だが、困った。何が起きたわけでもないが、対処に困る。誰がこんな物を送ってきたのか――彼も恋文をもらうなど初めてのことで、嬉しさ反面、どうすればいいのかわからない。
桐眞も年相応に異性に興味もあるが、そういうことにはこれまで縁遠かった。いずれは長男として家を継ぐために、嫁をとらなければならないとはわかっているし、折を見て、それなりの家の出の娘との縁組が用意されるのだろうと思っている。自身も、よほどの難がなければ、それを受け入れるつもりをしていた。
友人の中には、異性に対して妙に夢見がちな者もいるが、普段から姉や妹を見ている桐眞としては、そこまで期待していない。自身についての評価も、『まあまあの範囲だろう』という認識だ。伴侶が美人であるに越したことはないが、高望みせず、お互いに支え合える信頼関係が築ける女性であればいい、と思っている。なにせ、家の事情で候補は限られている。普通に常識的に育った女子が、日常から人ならぬモノに関わる生活に耐えられるとは思えない。
家の跡取りとしての修行やら何やらで、見渡せば桐眞の周囲は男ばかりだ。道ですれ違う女子に『いいな』と思うことがあっても、それ以上のことは何もない。たまに出る公の場にて知り合う女性もいるが、挨拶程度に話すくらいで終わる。だいたい、何を話せばいいのかもわからない。気の利いた言葉のひとつでも出れば、また違うのだろうが、そうではない。『朴念仁』と陰口を叩かれたりもしたこともあるが、桐眞自身それを否定する要素が思い浮かばない。
だから、恋文をもらえる相手など、まったく心当たりなどないし、青天の霹靂以外のなにものでもない。
こういう時は、誰かにこっそり相談するのが良いのだろうが、適当な人材の心当たりがない。それなりに友人もいるが、異性に関しては桐眞と似たり寄ったりで、参考にならないだろう。その点で言えば、違うところで梟帥が思い浮かぶが、そもそも相談相手としては不適格だ。先程の態度からしても、たいして実のある忠告もないままに笑い飛ばされて面白がられるだけだろう。彼はそんな性格だ。
桐眞にはわからないが、梟帥などは異性から好まれやすい容姿をしているらしい。高等学校の頃も、幾度となく、女子学生から文をもらっていたとか、いかがわしい場所に出入りしていたのを見た、という噂を耳にしたことがある――男子学生もその手の噂には敏感だ。本当かどうかは知らないが、癪に障るし気に食わない、とやっかみ半分の熱り立つ者たちを諌めるのに、年長者として何度か苦労したこともある。喧嘩になれば、返り討ちにされるだろうことがわかっていて、止めない訳にいかなかった。とはいえ、どうしたものか――と、そこへ、
「若さま」
突然、後ろから声をかけられ、飛び上がりそうになった。
「あ、ああ、まるお。帰ってきたのか」
肩越しに振り返れば、丸々とした体躯の、如何にも女中らしき藍の着物姿のモノが立っていた。
まるおは、曽祖父とどういう契約を結んだのかは知らないが、父が生まれるずっと以前から家に仕えている。だが、咲保が生まれてからは、ほぼ妹に付きっきりだ。桐眞とはあまり関わることがない。だからといって邪険にされているわけではなく、母の手が回らない時には、桐眞や嫁に行った姉の知流耶も共に面倒を見てくれた。磐雄や瑞波にも同様で、皆の乳母のような存在だ。暇があれば、両親の手伝いもしている。有能で、今や木栖家には、なくてはならないモノだ。
「驚かせたようで申し訳ございません。急ぎ確認したきことがございましたので、少々、お時間よろしゅうございますか」
「ああ、いいけれど」
「そちらの石が、今日、受け取られたもので?」
咲保が話したのか、と一瞬、苦々しく思った。女はおしゃべりだと知ってはいるが、自分がネタにされるのは不愉快だ。
「そうだが……」
「ご無礼いたします」
瞬く間もなく傍らに移動してきたまるおに、ひやり、とした。一見、愚鈍そうに見えても、人外であることを実感する素早さだ。刃物を向けられていたら、対応できなかっただろう。
まるおは、石を手にすると角度を変えて見聞したのち、鼻先に持ってきて臭いを嗅いだ。
「なるほど」
「……何かわかったのか?」
「少し。それで、お聞きしたいのですが、どこぞで玄武と関わりをもったご記憶はございますか?」
「え……?」
何を聞かれたのか、すぐに理解できなかった。
◇◇◇
暁葉の説明を、咲保の中で整理した。
「ええ……つまり、人の信仰心というか願望によって存在が認められるようになったから、玄武たちは復活したということ?」
「復活というより、生まれ変わりですかねぇ。同じ玄武でも、こちらの気風に合ったモノとして、より小さな範囲で力を発揮するものになりましたから。性格も違いますし、以前の記憶も残っていないと思いますよ。『まったく別モノ』と思っていただいてよぉござんすよ」
「小さいってどれくらい?」
「お屋敷とか小さなお社とか。庭や相撲の土俵にも使われているくらいだそうですから」
「あら、そうなの」
「そうらしいですよ。あたくしは、相撲じたい見たこともござんせんが……ほんといけすかないったら」
「あれも元は神事ですものね。天之手力男神の」
あからさまに天津神を嫌う暁葉の反応に、咲保は笑った。ああ、でも、とそれで腑に落ちることもあった。
「つまり、玄武は、民間のおまじない的な存在に変わったってこと?」
「そんなところですかね。『捨てる神あれば拾う神あり』とか言いますけれど、どこぞの庶民が気軽に取り入れてみたかして、たまたま効果でもあったんでしょう。人の世では、そういう噂が広まるのは早ぉござんすから」
「あれみたいね、ひふみ神文。古留部由良由良……あれも、もとは国譲りの時に、天十握剣に布都御魂を降ろすためだったけれど、文言が省略されたり変えられたりして、いつの間にか、病気の時に当たり前みたいにして唱えられるようになったもの」
「ああ、アレみたいなもんです。確かに、今やすっかり治癒のまじないですからねぇ。はなから文言が間違っているから降ろせる筈もない。それでも人は効くと信じて唱えるから、言霊でも働きましたかねぇ。それにしたって、力一分ってところでしょうが。それでも有難がられるんだから、大したものですよ。国譲りの際には鹿島神がアレを両手にはしゃいだせいで、国津神もずいぶんと難儀をしたと聞きますが……わからないもんでござんすねぇ」
「そんなものがそう頻繁に降ろされてはかないません!」
ぶるり、と大きく震えて、浜路がいっそう炬燵にしがみついた。ふ、と渡り廊下の結界に人の気配がよぎった。この気配は桐眞だ。しかし、一向に部屋の中に入ってくる様子がない。仕方なく咲保は立ち上がり、襖を開けた。
一枚開け、押入れのある二畳間を通り、もう一枚の戸を開ける。すると、どこか所在なさげに兄が立っていた。後ろには、怖い顔のまるおが控えている。途中、いなくなったのは気がついていたが、桐眞のところに行っていたようだ。
「お兄さま?」
「すまない、まるおからアレの話を聞いたんだが……玄武がどうとか」
「私も今、暁葉たちから教えてもらったところです。どうぞ、お入りになって。ここは寒いわ」
部屋に招き入れれば、桐眞は炬燵には入らず、端に置いた火鉢に寄り添うように座った。落ち着かない様子で部屋を見廻すと、暁葉と浜路にむかって頭を下げた。
「先だっての魂鎮めの際には、お世話になりました」
「いえ、こちらこそご助力いただき、ありがとうございました。よき神楽歌もお聞かせいただいたおかげで、今は健やかに休んでいるようです」
「ああ、あの神楽歌はよぉござんしたね。あたくしどもの間でも噂になったくらいで。剣捌きもお見事でしたよ。荒ぶるモノ相手に、よくあそこまで削ぎ落とされましたねぇ。あの時の武具は、生太刀と生弓矢でござんしたでしょ。素戔嗚尊がご使用をお許しになったのもそうですが、あれほどの神器をよく降ろせたものだと感心したんですよ。その若さで、大したものでござんすよ」
居心地悪そうに頭をかく桐眞に、暁葉は笑顔を向けた。
「いえ、私もまだまだで……あの、それで、まるおから玄武のことを聞いたんですが……まるおの見立てでは、石から輝陽の気配がするそうです。送り主はおそらくそちらのモノだろうということなんですが、玄武なんてわたしには心当たりもなくて……それで、輝陽の事情なら暁葉さんがよくご存知だろうから、とご相談にうかがったんです」
「おやおや、輝陽のモノでしたか……とはいえ、たまに『あわい』にちっこいのが、わらわらと湧いているのを見かけるぐらいですからねぇ」
「そんなにたくさんいるものなの?」
驚く咲保の問いかけに、「そりゃあ、いますよ」、と暁葉は当たり前の顔で答えた。
「うちの小狐とか、まるおのところの子だぬきみたいなもんでござんすよ。半人前の修行中のモノたちで、化けることもできない」
世情が不安定なせいですかね、と呟くように言う。
「こういうご時勢の時は、人は人ならぬモノに手当たり次第に縋ったりもしますし。それで増えたり減ったりしますからねぇ」
「しかし、訪ねてきたのは人の姿をしていたのだから、それなりに力あるモノの筈だが、心当たりはないのか」
まるおが質問すれば、暁葉は少し考える素振りを見せた。
「それが、どこかでそういう話を聞いたことがあるような気はするんだけれど……ただ、興味もなかったし、とくだん交誼を得たい相手でもなかったから、聞き流したんじゃないかねぇ」
「……まあ、そうだろうな」
珍しくまるおが暁葉を否定しなかったところを見ると、共通して四神はそういう扱いらしい。
「私は輝陽についてはさっぱりですが、こちらでも小さい玄武なら、たまに見かけますよ。ただ、数は多くても、人に化けるほどの力のあるモノがいるとは、噂でも耳にしたことはございません」
浜路もそう答える。
「輝陽のことなら、姉さまにもお聞きになられてみたら?」
「やめろ」
咲保の思いつきは、桐眞に即、刺々しく否定された。
「知流耶姉ぇには、絶対に言うなよ」
「……はい」
「お父さまにもお母さまにも、だ。誰にも言うな」
兄も怖い。ちくちくする。痛い。
「……はい」
まあ、と暁葉がため息をついた。
「……そういうことなら、ちょいとこちらでも調べてみますよ。地元ですからね。陰陽道関係なら、葛の葉の筋で何ぞ心当たりがあるやもござんせんし」
「あ、私も、連絡がつくところで、仲間に聞いてみます」
浜路も答え、お願いします、と桐眞が頭を下げた。
「子供の頃には祖父の家に預けられていましたし、毎日のように通っていた時期もありましたが、ここ数年は学業もあって、年に一、二回と足も遠のいているので、輝陽と言われてもあまりピンとこなくて」
「おや、そうなんですか。居られたのはいつごろの事でござんしたか」
初めて聞いたと言う顔で、暁葉が尋ねると、まるおも、ああ、と額を叩いた。
「うっかりしていた。そうだった。三つと九つの時の二回、それぞれ三年ほど大旦那さまのところに、上のお嬢さまと預けられていた時期があったんだった。それからも高等学校までは、大旦那さまからの仕込みのために輝陽と行ったり来たりだったね」
「つい、最近じゃないか!」
暁葉が声をあげた。忘れていたまるおを詰り、いつもの言い合いが始まった。
「最近って、十年以上前の話だぞ」
と、呟く桐眞に、咲保は「モノですから」と小声で答えた。
「モノの時間感覚は私たちとは違うのですよ。戦国の時代も『ちょっと前』だそうですから」
「三百年前でそれか……」
長く存在するだけ、時間の感覚も鈍くなるのだろう。ひと頻りまるおと言い合いをした暁葉は、溜息を吐いた。