絆未満の関係性(2)ー最果タヒ
(続)
ここから
「絆未満の関係性すべて」
と
「絆未満の関係性について」
で違ってくるところだ。
まずは「絆未満の関係性すべて」
絆未満の関係性を、むりやり「絆」にしようとするような、
乱暴なことはしたくない。
中途半端に空いたお互いの距離を、そのままで楽しみたい。
近しい人もいれば遠い人もいて、いいとおもう。
だって、その人が見えないわけでも、
存在しないわけでもないんだ。
関係性があるってだけで、十分にすばらしい。
恋人、とか友人とか、
そんな言葉で言い表せない関係性を大切にしたい。
これが昔の私では理解できなかった。
セフレ、浮気、不倫、なんていう
容易な言葉で言いあらわせるような関係性ではないのだ。
これは当人達でないと理解できない言葉ではないのかな。
それを無理に「恋人」、「友人」、「家族」なんて
堅苦しい名前の関係性という型にむりやりはめ込む必要があるのだろうか?
その中途半端な距離感が
心地よくて安定することだってある。
途切れるかどうかなんてわからない、
お互いを知り合うとか、信頼関係を構築するとか、
そんなことも不要だったりする。
それでも十分、十分な関係なのだ。
だって相手が存在していて、認識できて
それに加えて関係性があるってだけで
十分幸せだったりする。
”繋がっている” = ”縁がある”
それだけで得られる幸せがこの世にはあるのだ。
次は「絆未満の関係性について」
わたしがかみさまなら、
あなたとのこの関係性にあたらしく名前を付けて、
友でも、恋人でもなく、あなたの名前をつけていた。
わたしがかみさまなら、あなたとのことを、
好きとも嫌いとも大事とも言わず、
ふと出会ったそのときに、
いっしょに食事をとっていた。
「恋人」や「友人」、「夫婦」に「家族」
そんなありきたりな型にハマった関係性ではなく
その当人同士でしか表現できない関係。
その特別な関係性を言い表すとしたら
どんな言葉でも当てはまらなくて、その人でしかないわけで、
あなた、の名前をつけるのです。
特別であって、
好きとか、嫌いとか、大事とか
そんな次元ではない関係性を保ちつつ
当たり前のようにすごしていた。=平凡で特別な幸せ
どちらの表現も
当人同士でしか理解し得ない関係性=縁であって
他人が口出しできるような、
ましてや、
わかりやすい名前の型にはめられるような
そんな簡単な関係性だけではないのだ。
人それぞれ、幸せのカタチや感じ方が違うように。