弟だったらよかったのに。
でこぼこのみどりの突起をなるべく傷つけない
ようにしながらナイフを入れると、まんなかには
綿に包まれた、種がびっしり。
「ゴーヤの種おいておきましたから植えたってください」
カンちゃんとはじめて会った時彼は、玄関口でそういった。
嵐の育ての母のマチ子さんが沖縄暮らしをしていたせいか、
小さなころの食卓にはいつも、ゴーヤ料理が並んでいた。
偶然デパ地下で、でっこぼこのゴーヤに手を伸ばそうとした時、
同じものを選んでいた人と指が触れた。
「すみません。どうぞ」
がっさがさの声の人、それがカンちゃんだった。
肌はマチ子さんがいつも使っていた椅子の背と同じ色ぐらいに
日焼けしていて、屈託なさそうに眼が笑っていた。
ふつうはそこでおしまいなのだけれど。
同じゴーヤに手を触れたとき、ふいに瓢箪から駒っぽく、
カンちゃんが話しかけてきた。
「沖縄の方? だってこのゴーヤの中からいちばんすてきなのを
選ぶからさぁ~」
からさぁ~のさぁが、よくマチ子さんが言っていた口調に似ていた。
「いや、なんとなく、です」
って言った嵐をふたたび屈託なく見る。
でも嵐はあんまり視線はあわせられなかった。
「じゃ。俺はこいつにしとくからそれ譲ります」
なんかわからないけれど、すごくがっかりさせたんか?
って気になって顔を見たら、彼はただただ真顔でカゴに
ゴーヤを備え付けのビニール袋に入れてる最中だった。
去ってゆく彼の背中をすこし目で追う。
とある日の朝。
嵐のちいさな部屋で彼はゴーヤチャンプルーを作っていた。
島豆腐ならこんなことしないんだけどって、前置きしてキッチン
ペーパーに包んだもめん豆腐をレンジで水抜きして、水分を抜くと
焦げ目がつきやすくなって美味しくなるんだっていいながら、
キッチンに立っている。
料理はおいしかった。
子供の頃、はじめて食べた時のあの青臭さと苦みが、苦手でしぶしぶ
食べていたのに大きくなってから好きになったって話をしたら
彼がのって来た。
亡くなったお父さんが沖縄の人だったらしい。
「故郷を訪れることはあんまりなかったみたいだけど、ゴーヤだけは思い入れあったみたいで愛してたな、親父」
屈託のなかった瞳にすこしだけ影がさして、嵐まだ月夜の下で彼を見ているみたいな気持ちになった。
「おとなになって、ゴーヤブームが到来したとき思ったよりも苦くなかった苦瓜たべてなんか、肩透かしくらったみたいだった」
それってさぁってカンちゃんが、言葉をつなげた。
「あんなに広かった運動場がいざ訪れてみると、こんなにちいさかったとか、あんなに見たかった絵が、本物を目にした途端思い描いていたトーンの色じゃないとかって、がっかりしたり。あんなに好きだったのにねぇ、どこでどうぼくはまちがった感情で日々をすごしてるんだっていうのに似てるね」
って一気にしゃべると
「嵐くんといると喋りすぎてこわいから」って言って、立ち上がった。
「ほな、帰ります」
「こちらこそ、おいしい朝食をありがとう」
ちいさいワンルームだから、すぐ玄関に辿り着くのに嵐はカンちゃんを
少し引き留めたいような気分にかられながら、そこをゆるゆる歩いた。
カンちゃんの歩幅は広かった。
玄関に立つカンちゃんが何かをいいたそうになっていたので、なに? って顔で見上げると
「ゴーヤの苦さって、どっかに大切な忘れ物してきたような妙な感覚がするねん」
関西のニュアンスの語尾でつけたした。
嵐は話がうまくつかまえられなくてわからない? って無言で訴えたらカンちゃんにふわっと笑みがひろがった。
「嵐くん? わからんでええ。キッチンにゴーヤの種あろうて置いておきましたから、植えたってください」
「種?」
「そう種!」
種を嵐は植えている。
まだなにも咲いていない。
嵐はシリアルにあったかいミルクを注ぐ。
イチゴやリンゴのドライフルーツに
深緑を薄めたようなひまわりの種や
ココナッツのかけらが浮かんでる。
だだっぴろい白い海のボウルの中に。
嵐は白いってところがはじまりの
ような果てのようなってつぶやいた。
みもふたもないぐらいとけてしまった
シリアルはもうすでに年老いた人の
食べ物のように思ってしまう。
それでも嵐は、子供の頃にさかんに
砂糖のまぶされたコーンフレークばかり
おやつに食べていたことを思い出したり
してる。
あの頃はなにが、イエスでノーだったん
だろう。
根拠のないイエスと時折おとずれる頑なノーに
囲まれていたような。
それが年月を経て、たとえばうっかり人をすきに
なってしまったりすると、このイエスとノーが
どこか、あとかたもなく、消えてゆく。
ちょうどその間にしかすべての答えがなくて、
選択肢はもうどこにもないような。
やっかいだと思いつつそのまんなかにある
「わからない」という現象に取り囲まれてしまう。
カンチャンは弟だ。
いや、弟と思おうとしている。
世の中にはどっちみちイエスとノーしかないの
だから、あなたはどっち? って畳みかけていた
カンちゃん。
弟だと思いたい彼を待っている。
ゴーヤの朝ご飯を作ろうと思う。