ずっとガラケーだった理由。
この間、スマホをもって出掛けるのを忘れて
あせった。
目的地からまた家までタクシー呼んで帰ったりして、なんだんねんみたいな気持ちだったけど。
しかし、今のスマホももってから2年が経った。
何代目ソウルブラザースとかじゃない。
初代スマホだ。
ずっとガラケーだったんすか?
みたいにキャリアの担当の人にも言われ
続けてきて。
携帯がガラパゴスじゃなくて
あたしがガラパゴスなんだよって
心の声が漏れ出そうなことも
なんどもあった。
きっかけは、仕事のギャラをペイペイで
しか払えないと言われたことだったけど。
それまで頑なにずっとガラケーだった理由は。
ひとことで終わる。
連絡したい人もつながりたい人もおらん
かったからだ。
ほんとうに、noteに来るまでわたしは
ひとりだった。
ひとりだったって感傷に浸ってるわけじゃ
なくてじじつ、ほとんど交流をしていなかった。
ひとり部屋にこもってたわけじゃない
けれど。
身内以外ででちゃんと話せる人の顔が
浮かばなかった。
書道教室も6年も通ったし、仕事で
打ち合わせしたりしなければいけない
人はいたけど。
それ以外で知りたい情報もなかったし。
「いま」を生きたいタイプでもなかったので
できうる限り情報の外で生きていたかった
からパソコンだけでこなしていた。
びっくりするけれど20年近くやっている
仕事でも仲間と言うには先輩すぎるし、
雲の上というかわたしがここにいて
いいんでしょうか?というポジションに
気後れしていた。
震災が起きたあの311。
あれを機に周りの人たちは、スマホに切り替える人が増えていた。
俺いいよ、ガラケーでさ、不便ないもんって
言っていた人たちも、軒並みスマホ系の人に
なっていた。
雑踏を歩いている時、まだ歩きスマホあかんよっていうお達しはなかったので。
みんな、仕事かもしれないし友人かもしれないけれど、しゃべったりしているのを待ち合わせ場所でじっと見ていた時。
わたしにはあんなふうに喋りたい友達がひとりもいないから、ガラケーでいいのだなと妙に納得していた。
そして唯一の友達中川君がいた。
コピーの学校からのクラスメイトで。
彼はスマホも何代目ソウルブラザースだった。
なんでガラケーのままやねん?
彼が聞いてくる。
だって繋がりたい人とか喋りたいひとって
もしかしたらあんた以外おらへんやん
っていったら。
さみし。
って三文字で彼は答えた。
さみしってわたしは平気なんやからそんな
ふうに言うな、逆に傷つくわって言ったら。
ええから、スマホとか持てよ。
もう俺とだけつながってるのでええから
誰ともつながってないとか言うなって
なぜか叱られた。
あんたはおとんか、おかんか。
そんな気分にもなりながら、彼は
わたしのガラケーに向けてメッセージを
送り続けてきた。
iPhoneから送りましたみたいな、メッセージのついたメールだった。
311の後も、すぐに連絡がきて。
思えば阪神淡路大震災の時も、すぐに
駆けつけてきてくれたのは中川君だった。
そして2年前にガラケーからスマホに変えた時こっちから連絡した。
もう今更なんやけど、ようやっとスマホにしたでって、言ったら。
そうなんか!って喜んでくれた。
今時、スマホにしましたって報告して、
お目当ての高校にでも受かったの
ほんまによかったなみたいに親戚の
おじさんのごとく喜んでくれるのは、
人生でわたしにはたぶん
中川君しかいない。
最近どうしてる?みたいな話になって。
近況を報告した。長い長い話をした。
何を言ってもよかったなよかったなって
言ってくれる。
ぼんちゃんの話の中に俺の知らん人の
名前がでてきて俺はうれしいねんって
言ってくれた。
そっかってわたしは声に出さずに思っていた。
そうなんやな。
たかがガラケーたかがスマホだったけど。
それを持てるまでにわたしには長い時間が
必要やったんやなって思った。
ひとりだったときも、折に触れ中川君がみて
くれていたことも同時に思ったりしていた。
そういえばコピーの学校に通っていた時、友達としてこの仲間のみんなで老人ホームに入ろうなって約束してたの覚えてる?って話になって。
俺ら二十歳そこそこやったのに、おじいとおばあみたいやったなって、笑った。
そんな日は来ないだろうけど。
そういう若い頃を中川君やみんな仲間と過ごせてずっと未来の時間を夢想していたその一瞬のつながりがわたしの宝物になっている。