文章のなかに、そのひとの眼差しが見えるから、好きになる。
誰かの書いた文章を好きになるときって
どこが好きなんだろう。
わたしはまだ見たことのない映画の評を 書いていらっしゃった横田創さんの
「天使、まだ手探りしている」という
タイトルの映画評を読んだ時ひとめぼれ した。
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「壺からでたばかりの焼き立てのパンをトレーごと落としてさらにあわててその上から生卵を雨と降らせてしまったアルバイトの女性を慰める言葉なんて、わたしには思いつかない。」
そんな冒頭を読んだ時これはわたしの物語かと思うぐらい、彼女に似ていた。
失敗するひとにひいき目の視線を送りたい。
そして彼女はその場所から逃げてしまうのだけど。
こういうとき、親しい者に声をかけられることは逆効果だ。
大丈夫じゃない時に大丈夫? と聞かれることのいたたまれなさは何度も経験しているから。
横田創さんのその眼差しが好きだ。
そんな時は、なにもしないことが正解なのだ。
彼女は心が焦りの汗まみれになってしまっているだろから。
今日ほんとうは、立ちすくんでいる人になんて言葉をかけたらいいのか迷っていた。
仕事ですこし大きな失敗をしたらしい。
さっきまでなにかを書こうと想っていたけど。ちょっと待ってみる。
そのことを見透かされたみたいに。
予言されたみたいに書かなくてよかったと 安堵していた。
たった一言こんな文章に会うとわたしはずっと読み続けていたいと思う。
観たことのない映画をみたような気がする。
映画評だけなのに、もう見てしまったような。
そしてほんとうに見定めたいと思う。
そういうものが評なんだろうなって。
いや、評が読みたいわけじゃない。
評であれ、小説であれ詩であれわたしは
たぶん横田創さんの言葉を感じたいのだと
思う。
そしてそうやって誰かの文章を好きになる とき。
文章もまなざしなのかもしれないと思ったりする。
なにかを描写している、そこに注がれている
眼差しを好きになる。
今日のいちにちの終わり近くにわたしは
わたしじしんが好きな人の文章に
とても救われていた。
なにをみたいの なにをみたくないの 世界のなにを
ずっと何も みていないの みられなくなってる
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