
君が、いつか猫になったとしても。
いつもブルーと白のストライプのタオルケットが好きで、
夏はそれに顔を埋めるようにして眠るハルヲ。
そばに猫もいて、彼は彼の居場所があるらしく彼の足元で
眠っている。
結婚する前から、猫とハルヲは同棲していた。
猫の名前はノアールだった。
もっとふつうの名前でいいのにねって、わたしが真夜中
みたいに真っ黒けのノアールを膝に抱っこしながら言うと、
言いたいことあったら俺の顔みてまっすぐ言えっていうんだ
よねってハルヲは、ノアールをわたしの膝からじぶんのお腹の
上に移動させて、その耳のそばで囁いた。
わたしは生まれ変わったら好きな男の人の猫になりたいと
思ったことがあったけど。
ノアールには時折じぇらしいのじぇぐらいは感じてる。
ハルヲも両親には恵まれずに育ったせいか、ノアールが
ともだちだって本気で思っているところがあって。
ペットってことばもきらいみたいで、ペットショップって
いう看板をみただけで、少し機嫌が悪くなるのだ。
そういうときは、そっとしておく。
自動車事故で、お父さんとお母さんと弟をなくしたハルヲは、
いまも自転車が好きで、時折、前カゴにノアール乗っけて、
坂道を汗だくになりながらペダルを漕ぐ。
この重さこそが俺の幸せだっていつか叫び出すんじゃないかって
ぐらいの勢いで、坂でもペダルを全速力で漕ぐ。
築50年も経っている海の家みたいな家に住まうようになって、
ウチに猫がいるせいか、野良猫もやってくるようになった。
いつのまにか、馴染みの来客のようになって猫の額ほどの庭に
居ついたりしてる。
2日間だけずっと姿を見せていなかったキジトラの猫がずっと
家の敷地内で鳴いていた。
わたしが台所に立つと鳴きはじめて、家事が終わると泣き止んだ。
喉を転がすような、せつないファルセットが続く。
耳に響くっていうより、なんか胸に反響してくるみたいで痛い
気持ちが襲ってくる。
わたしが、捨てたわけじゃないのに置き去りにした猫がここに
戻ってきてるみたいな感情に包まれる。
それをみているわたしの後ろでノアールがじっと、キジトラを
みつめていた。
「ひとりなのかな? ノアール気になるの?」
見上げてるノアールは、ちいさく喉を鳴らしてわたしの
腕からすり抜けてまた窓の前に座ると、迷い猫をみつめる。
幾日かそんなことが続いて。
ハルヲも仕事が休みだったその日。
日に日に掠れてゆく切なそうな声が、いつしかキジトラと
ノアールが喋っているみたいな声に変った日をさいごに、
その迷い猫はどこかにいってしまった。
<視線をあわせた時に終わってしまう何かを恐れていたのです>
テレビのフレームの中には、未完成のままのミケランジェロの
ピエタが映し出されていた。

大理石の中に潜んでいるたいせつななにかを彫刻しようとした
時間がそのままむき出しになっているような作品だった。
そこに彫刻されていたマリアとイエスの視線は交わらないままで、
視線を合わせると終わってしまう何かっていうフレーズが
なんども耳の中で繰り返される。
ハルヲはノアールと視線を合わせるように見つめる。
ノアールはハルヲの気持ちをしっているのか、視線をずらす。
いつだったか、出会うってことは、じぶんの目が出会うのだって
突然わたしは気づいたことがあって。
でも目がなにかや誰かに出会ってしまうってことは、もうすでに
おしまいをはらんでいることだと知った。
ノアールと暮らし始めてから規則正しくまっすぐ家に帰る日が
続いていたハルヲ。
その日は務めている画材屋さんの棚卸しの日で、帰りが遅くなった。
そんな真夏の夜。わたしも所要があって思いがけず帰りが深夜に
近くなってしまった。
ドアを開けると、ハルヲの部屋のベッド上で寝ているノアールをみた。
何の変哲もない部屋のいつもみている景色なのに、なんだか胸が
ひりひりする。
ノアールはふだんハルヲがひとりじめしている縞々のタオルケットに
真っ黒いからだをすっぽり包むように、鼻を押し付け眠っていた。
ハルヲの匂いを感じたくて、その長い糸の塊を足の間に引き寄せて
いる。
待っているうちに眠ってしまったんだって思ったら。
なんだかハルヲとノアールの愛しくちくちくした関係に気持ちが
つかのま揺さぶられそうになった。
そんな時、ハルヲが帰ってきた。黙ったままわたしはハルヲの
ベッドを指さした。
ハルヲは一瞬制御できないような感情に見舞われたみたいに唇を
噛んでいた。
その真っ黒い毛むくじゃらの闇に似た生きものを今すぐ抱きしめ
たかったけれどがまんしているかみたいに震えてた。
ハルヲはあんなにタオルケットにくるまって眠るのが、唯一侵され
たくないかれのテリトリーなのに。
そのタオルケットを、あっさりとノアールにゆずってひとりソファで
眠った。
あのくたっとした繊維。
まるで猫っけのようで。
それはきっとそのひとの匂いが知らずしらずにしみついていて。
そんなタオルケットオキュパイドな夜から一夜明けて。
ノアールは朝方、こっそり我が家から出て行った。
とにかく何を探しているのかわからなくなるぐらい探しつくした
けれど。
ノアールははじめっからいなかったみたいに、消えていた。
ハルヲがどんなふうになってしまうのかこわかったけど、意外と
冷静だった。
「あの、キジトラに逢いに行きたくなったんだろ。尋常じゃない
目でみてただろう、ノアール」
「うん、ハルヲもね」
窓のそばにはしゃがんだ格好で、まるでノアールの視線の位置で
もってハルヲは話し始める。
その時ハルヲはふいに。
<視線をあわせた時に終わってしまうなにかを恐れていたんです>
というナレーションを思い出して腑に落ちる。
「キジトラさ、むいみな出会いだと思ってたけど。あいつら目と
目が出会ってしまったのかもしれない。猫だものね」
独り言のような感じで呟きながら、おもむろに立ち上がる。
「あ、線香花火でもしますか?」
ハルヲとわたしは、ちいさな庭にしゃがんで線香花火に火を
つける。
黙ったままふたりで火をともしていた。

ハルヲはほんとうはノアールのことを、誰よりも信頼できる家族だと
思っていたのかもしれない。
ハルヲの横顔をのぞき込む。
ただただこわいぐらいに静かだった。
線香花火にマッチで火をつけた。
むかし子供の頃に親しんだものとちがって今はチャイナ製の
せいか、おそろしくはやく燃え尽きる。
ハルヲは、つかのま思い出に沈み込みそうだったけど、気を
取り直したのか、再び、部屋に戻った。
ノアールが昨日の深夜くるまっていたタオルケットを、洗濯機
の中に放り込んで、スイッチを入れた。
ノアールの匂いが微かにしたような気がしたけど、それは
<フローラルグリーン>の香りにまけて、消えていった。
猫の額みたいな庭に戻ってくると「あ、俺、失敗した」って
叫んだ。
「なに? 失敗って」
「今日のセレクションまちがえた!」
「花火のこと?」
「そう。なんで今日に限ってしんみり線香花火なんだよ。
どう考えても、ねずみでしょ」
「ハルヲぬかったね」
そんな私たちのことを、どこか闇にまぎれたノアールがひっそりと
みつめているような気がして、ハルヲの背中越しの夜の真ん中を
みていた。
静寂が聞こえてきそうな夜を微かな音がした。
鳴いた?
今の聞こえた?
空耳かなって思って隣のハルヲをみた。
手花火の光の隙間から闇のような色したハルヲの瞳が
潤んでいた。
ノアールの横顔に似ていた。いつか、ハルヲが、猫になったとしてもずっと、ここにいるよ。
ふりかえる 首の角度を 憶えているから
よく似てる 後ろ姿の 尻尾に惑って
ピエタ像(サン・ピエトロ大聖堂)のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20151042281post-6184.html
夏の終わり(線香花火)のフリー素材 https://www.pakutaso.com/20180844243post-17259.html
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