山中鹿介の像と難攻不落といわれた月山富田城
「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った山中鹿介の像と難攻不落といわれた月山富田城です。
山中鹿助は、尼子三傑(十傑)、「山陰の麒麟児」と呼ばれた、戦国一の忠義者です。
山中幸盛(鹿介)は次男でしたので、尼子氏の重臣である亀井氏の養子になり、亀井姓を名乗った時期がありましたが、病弱な兄の代わり山中家を継ぎ、山中家に代々伝わっている三日月の前立に鹿の角の脇立のある冑を譲り受け、のちの「鹿介」となりました。
尼子復興の為、天正元年(1573)山中鹿之は、因幡国に転戦。かつて一緒に戦っていた湯永綱(尼子の家臣)の長男(新十郎のちの亀井茲矩)に出会い。ここでふたりは尼子復興を固く誓いました。そして、新十郎に智勇兼備と非凡な才能を見た鹿介は、自身の養女・時子との婚姻を決めます。時子は、尼子氏の重臣・亀井秀綱の次女。18歳の新十郎は、亀井の名を継ぎ、茲矩と名乗ることとなったのです。鹿介は茲矩の義父。時子の姉が鹿介に嫁いでいることから、ふたりは義兄弟の間柄でもありました。
天正6年(1578年)上月城の戦いで織田信長勢の羽柴秀吉(豊臣秀吉)に属して山中鹿介は亀井茲矩と共に戦っていましたが、播磨国(兵庫県)の上月城に入っていた尼子勝久の自決をもって尼子氏は完全に滅亡。毛利軍に捕らえられた鹿介は謀殺されました。その陰で亀井茲矩は、秀吉の使者として密かに上月城内に入り、鹿介に脱出を求めますが、「逃げるわけにはいかない」と頑なに拒否。ならばと茲矩も上月城に留まることを願い出ましたが、鹿介はそれを許さず、ひとり、秀吉の元へ戻ったと伝わっています。
鹿介亡き後、娘婿の亀井茲矩がその遺志を継承し、秀吉の下で尼子旧臣を糾合して毛利と戦い続け、天正9年(1581年)吉川経家が守る鳥取城攻略で戦功を挙げたため、因幡国鹿野城主に任命され、1万3,500石の領主となりました。
秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方に与して戦い、戦後、加増され、3万8000石の鹿野藩初代藩主となり、慶長17年に鹿野城で56歳でなくなります。
元和3年(1617年)亀井茲矩の子政矩の時、津和野藩主であった坂崎家が改易されたため、坂崎家の跡を受けて4万3千石で津和野に転封しました。
飯梨川を挟んだ向こう、 松江市との安来市の境界にそびえる京羅木山(きょうらぎさん)、月山富田城の反対側の松江市(旧・八束郡)東出雲町上意東畑地区中腹、標高150~200m一帯に西条柿が栽培されています。月山冨田城側からの写真の一番高い山が京羅木山で、右側手前が、 勝山城があった勝山です。
この「西条柿」は、16世紀、毛利氏と尼子氏の覇権争いが行なわれていた頃、西条柿はすでに干し柿として 加工され武士の保存食として使われていた事に関係があるといわれています。
戦国時代、毛利元就率いる毛利軍が出雲の戦国大名であった尼子氏を攻めた時、1562年に陣地を構えたのがこの京羅木山です。一帯では長きにわたって戦いが繰り広げられ、合戦の最中、毛利軍は食料として柿を植え、干し柿を非常食にしたといわれています。
松江市には各地に樹齢 200 年以上の古木 (枕木・秋鹿地区には樹齢 500 年の大木が見られる) が点在、また、毛利軍が尼子を攻める時に通った街道や陣所、城の周辺にある古木の遺伝子を調べると柿の木を継ぎ木して増やした事がわかるそうで、歴史と食文化の繋がりの深さをうかがい知る事ができます。
因みに、島根県は、西条柿の栽培面積は日本一になります。
毛利氏と尼子氏と西条柿についての投稿です。
https://www.facebook.com/hideki.fujihara.18/posts/pfbid0gaMUffS9k2KSEQNy7bW6m8pjxG2eaSYk4zjpzM9ezV5SMvDNbFzjXmMRhC1P8GHwl
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