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『六月の蛇』の話。

 映画と巡り合うタイミングは不思議なものだ。
 『六月の蛇』という映画を知って、その映画が十三のシアターセブンで上映される日程にたまたま神戸での仕事が立て続けに入っていて、神戸から大阪へ帰る途中で十三で下車する時間がちょうど上映時間の頃合いだった。他の場所、時間に仕事が入っていたら観に行けなかった。

 初めて行くシアターセブン、歓楽街を通って映画館を目指すと、道を行く男に片っ端から声をかけるキャッチの兄ちゃんがどう見ても健全な男である自分にだけなぜか声をかけなかった。

 ということで『六月の蛇』の感想を書きます。

 映画は、まず♀のパートから始まる。
 「心の健康相談センター」で電話カウンセラーをしているりん子は、ある自殺志願者の男を救う。
 その男は人間を撮るのが苦手なカメラマンで仕事もなく人生に絶望していたが、りん子に救われたことから彼女に執着するストーカーとなり、りん子が自慰行為に耽る姿を隠し撮りした写真と携帯電話を送りつけ、彼女の秘められた欲望を暴いてゆく。

 写真をネタに脅されたりん子が携帯電話で指示され、際どいミニスカートを履いて電動こけしを買いに行かされ、それを装着して八百屋で茄子や胡瓜を買わされる場面は陳腐なロマンポルノみたいで笑ってしまったが、青いモノクロームの画と物語の間ずっと降っている雨のおかげでぎりぎり下品にならない不思議。

 あと、イヤホンを着けて話しながら歩く人間というのは、ありふれた光景となった今でも(電話を持って耳に当てていないというだけで)自分と同じ世界に存在していないように見えるのだが、りん子もイヤホンでストーカーに指示されている間はこの世界から半ば切り離された存在に見える。(当人はスカートのせいで他人の視線が異常に気になり普段よりも意識することになるのだが)

 りん子がこの羞恥プレイをさせられている間、ストーカーの姿は映らない。そして至近距離にいても無理なのではないかというような指示を出す。この辺りから、ストーカーが現実的な存在ではないのではないかという疑念が生じる。
 ストーカーはもう助からない末期の癌で、だからりん子自身も自覚していない彼女の乳癌にも気づく。(ストーカーしてるだけでなんで乳癌が分かるんだ)と思うと、さっきの疑念がますます強くなる。
 後に続く♂のパート以降でストーカーが本当に現実離れした存在だということがわかるのだが、監督自身が演じるこのカメラマンのストーカーは映画の中の登場人物でもあり、劇の内外の境界を越えている存在でもある。
 
 さて、りん子は仕事熱心な夫と無機質なコンクリートのデザイナーズマンションに住んでいる。劇中降る続く雨を完全に遮断するマンションで、いつも排水溝を掃除している潔癖症の夫と表面上は平和的に暮らしているが、夫がセックスを拒否するために生活に暖かさが感じられない(青い画面が一層そう感じさせる)。 

 夫の潔癖症は異常なレベルで、動物を嫌い、妻とのセックスを拒否どころか忌避し、便の臭いを消す薬を服用し、自らの母の死に目からも逃げる。死を拒絶し、そのために死につながる生をも拒絶する。

 この映画は、人間を撮れないカメラマンが人間を観る側のトリックスターとなって、♀のパートでは性を解放できない人妻の内面を暴くことで彼女の生を充足させ、♂のパートでも、生にも死にも目を向けられない夫に無理矢理男女の水死のショーを見せる。
 自分の死期を悟っているストーカーにとっては、この二人に生の実感をもたらすことはおそらく自分を救済することでもある。
 というのも、ストーカーは夫婦それぞれの分身的な存在で、ヌード写真を撮れなかったことから、りん子のように自分の欲求に忠実になれず、便の臭いを消す薬を自身も服用していた過去があると語るように夫と同じ潔癖症で、りん子に救われるまで彼も生や死に向き合えていなかったはずだからである。
 (監督が演じているので、つまりこの夫婦自体が監督の分身であって自己救済の映画ともいえる)

 ♂♂♀のパート、実際は記号が重なって、映像で何度も挿し込まれた両性具有のカタツムリのような形になる。
 りん子に手術をさせなかった夫を監禁して拷問のような行為をするストーカーの様子は、たしかに性の境界をも超越していた。
 
 土砂降りの中で裸のりん子の写真を、人間を撮ることができなかったカメラマンがひたすら撮影する。
 写真というメディアは映るものの時間を切り取るものであり、人間を撮るという行為は、「生」を見つめることである。それができなければ死とも向き合えない。
 生と死を合わせ持つ代物であることは、ストーカーが手製のピンホールカメラで自分の写真を撮って、一枚は自分の姿が映り、もう一枚には映らないという場面からもわかる。
 一枚の中には生きた姿が映っていて、一枚は不在(死)を表す。そのように捉えることもできるが、ピンホールカメラは動くと映らない。つまり綺麗に像を結ぶ写真ほど死体のように動いておらず、映っていない写真こそ、そこには人間が生きて動いた背景が浮かぶ。

  この映画から「この世界の私の生の救済」というテーマを感じて、『ノスタルジア』という映画を思い出した。
信仰や宗教という要素が消えて、人間の救済を個人的な物語にしか求められなくなった東京という都会を舞台にした『ノスタルジア』が『六月の蛇』なのかもしれないと思った。

 映画館の帰り道も、十三の歓楽街を歩いてたのにキャッチにスルーされた。


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