【無秩序な解釈共同体の必要性-学校で人文学は生まれ得るか-】

近頃頻繁に言及されているように「教育は『オワコン』」だと言う資格は私には無い(というかこうした言説は、教員の方々の並々ならぬ豊穣な蓄積を無碍に捨象しているようで、無神経だと言わざるを得ない。強い言葉には中毒性がある)。が、そもそも文学と教育は、本質的に相反するものではなかろうかという感覚が胸裡でわだかまっている(実際そうした議論の歴史もある)。教室というある種閉鎖的な空間で展開される以上、「読みの制度化」は免れ得ない。これはオープンスペースの教室であろうとも、そこに「教育」的力学が介在する限り、変わらない可能性が高い。

仮に「複数の解釈を認めても、ある一定の水準で納得・妥協する」方を教室的な意味においての「解釈共同体」としてみる。すると「全員が『解釈』という営みを通じて連帯しており、かつ全ての『解釈』が保障される」状態においての、本当に「自由」な--すなわちアナーキーかつカオスな--「解釈共同体」は、「学校」という組織の外部でしか成立し得ない。後者の実現を学校の中で目指そうとしてきた数々の研究・実践を見ても、最早言葉遊び・修辞法の範疇を出ないところにまで来てしまっているように見受けられる。いくら考えようとも、私はそこに教師あるいは研究者として参画しようという度胸はないし、イメージもできないことを、ようやく自覚化し認めることができた。

最近愛読させて頂いている東浩紀先生は、ルソーの『社会契約論』をアクロバティックに再解釈し『一般意志2.0』を執筆なさった。「人文学は、拡大解釈の歴史である」という至言は、実に示唆に富んでおり、鑑みるべきものがある(ソース源を既に返却してしまったので正確な引用ではないが、本稿は公的なエッセイではないため、ご容赦願いたい。機会を改めて正式に引用させて頂くこととする)。残念ながら、現状の学校教育制度に、こうした「拡大解釈による人文学の螺旋的発展」あるいはその誕生の契機を期待することは大変難しい。すぐに秩序立てようと機能が働いてしまうためだ。やはり制度・監視外でのchaoticな学びと対話こそ、人文学の必要条件となるのだろう。

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