Sakura Michelle Bradley

筑波大学の院で国語教育を研究しています。来年度から中学国語教諭(予定)。 知を愛し続け…

Sakura Michelle Bradley

筑波大学の院で国語教育を研究しています。来年度から中学国語教諭(予定)。 知を愛し続ける。#文学教育 #多文化教育 #Culturally Responsive Education

最近の記事

日カナダ系ハーフが日本文学を志すまで〜前編〜

 これまでのnote記事では大っぴらに申し上げてきませんでしたが、私はいわゆるカナダと日本の「ハーフ」です(私自身「ダブル」や「〇〇系のルーツ」といったタームを用いることを推奨しているのですが、自分を指すとなると「ハーフ」になってしまうのは、「表象」の複雑さの表れでもあります)。まず分かりやすく名前がカタカナなので、今までも「英語(英文学)じゃないんだ!?」と驚かれることも少なくありませんでしたし、教員になって以降も間違いなく「えっ、(明らかに英名の方が割合的に多いのに)英語

    • 国語教育関係者こそ、海外の(言語)教育を参照しよう!

      私の指導教員の先生もよくおっしゃるのですが、国語教育に進むと、よほど意識しなければ国語以外の領域への関心が希薄になり、視野狭窄に陥ってしまいやすいです。今回は学部生の皆さんから教員の先生方まで、国語教育に携わりたい/現在進行形で携わっていらっしゃる全ての方々に向けて、「海外の言語・母語教育を学ぶことは楽しいぞ!」ということを、いくつかの手立てをご紹介しつつ申し上げてみたいと思います。 ①海外の言語教育に関する英語論文/学術書を読むこちらのフェーズでご紹介するのがResear

      • 論文査読が通った話。

        今年2月から書き始めていた日本文学系の投稿論文に関し、再査読を経て、ついに掲載許可を頂くことができました。正直あの絶不調だった時期に書き上げられただけ奇跡だった上、果たして修士2年次の若輩者を受け入れてくださるかも不安だったのに、まさかまさかと未だに信じられないのですが、大変光栄ですし嬉しいです。博士後期・アカデミズムに進むことを先延ばしにした現在にあっても、何かしら小さくとも業績があった状態で教員になった方が、研究継続しやすそうですし、損はしないかなと思います(誇りになりま

        • 論文における翻訳問題—Culturally Sensitivenessを働かせる—

           多文化文学の指導の日本への紹介と導入について書かれた、日本語ではある種貴重な論文を読んでいる最中、翻訳について引っかかったことがありました。当該論文で参照されていた引用文献の中に、アフリカ系の生徒・(教員志望の)学生にどのような影響を与えるかを論じたものがあり、原文は以下のようになっておりました。  —When I did hear about my culture it always went back to the slave years or Dr. Martin

        日カナダ系ハーフが日本文学を志すまで〜前編〜

          読書withスマホ術-読書にとってスマホは本当に悪なのか-

          いわゆる近年の「読書術」と題される本では、大抵スマホを脇に置いて読書することは推奨されていない。スマホが目に入るだけで集中力が拡散すること等が研究上立証されていることも、背景としてあるだろう。 確かにそれも事実として屹立しており、否定はし難い。しかしながら、もはや私たちはスマホというメディアが身体的に拡張した世の中で生きている。であれば、そのライフスタイルに合う新たな読書術を編み出してゆくしかないのではないだろうか。従来の読書術の「逆」を張ってみても良いんじゃない?というの

          読書withスマホ術-読書にとってスマホは本当に悪なのか-

          【無秩序な解釈共同体の必要性-学校で人文学は生まれ得るか-】

          近頃頻繁に言及されているように「教育は『オワコン』」だと言う資格は私には無い(というかこうした言説は、教員の方々の並々ならぬ豊穣な蓄積を無碍に捨象しているようで、無神経だと言わざるを得ない。強い言葉には中毒性がある)。が、そもそも文学と教育は、本質的に相反するものではなかろうかという感覚が胸裡でわだかまっている(実際そうした議論の歴史もある)。教室というある種閉鎖的な空間で展開される以上、「読みの制度化」は免れ得ない。これはオープンスペースの教室であろうとも、そこに「教育」的

          【無秩序な解釈共同体の必要性-学校で人文学は生まれ得るか-】

          奪われたもの、その残滓

           とあることがきっかけで、ふと、そう言えばいつ頃から研究やら学術的言語、雑篇の読み書きやらに執着するようになったのだろうという思いが水泡の如く浮上した。  私は中学2年生では合唱、高校1年生では演劇に、それぞれ1年ほど携わっていた経験がある。それらの経験はいかなるものであったか、ここで詳細を語るようなことはしないが、一つ言えることは、この双方の--「芸術的」とも言えるかもしれないが--経験は、私にとっては原点回帰でもあり、resserectionでもある、ということだ。すな

          奪われたもの、その残滓

          【バイリンガルが幸せになる国語科へ】

           最近、第二言語習得論に関する本を読み始め、その中にバイリンガルの記述があった。曲なりにも十数年前まではバイリンガルであった身として、ほうほう、と思いながら読み進めると、「受容バイリンガル」という言葉に当たった。「聴いて理解はできるが、自分からは喋ろうとしない、または喋ることができない」。これだ、私は「受容バイリンガル」というれっきとした部類に入ってはいたのだ。長年の疑問が解き放たれた瞬間であった。  この発見を母に伝えると、青天の霹靂的な事実が語られた。どうやら両親は私が

          【バイリンガルが幸せになる国語科へ】

          言語の彼方へ

           言語には二種の指向性が存在する。一つ目は「世界を所有・支配するための言語」、もう一つは「自然と共にただ舞い、歌うための言語」である。  一般的に、前者は文字言語、後者は音声言語として現れやすい。言うまでもなく文字言語は人類の学問や文化、文明を進展させてきた媒体である。近代言語学は両者を研究対象とし、科学としての言語の可能性を見出してきた。  一方で私たちは文字言語を用いることで、既に「単語-意味」として自明化された法則を以て、全てを説明できるという錯覚に囚われやすい。こ

          「知と愛」に関する雑録

          ・愛とは知であり、知とは愛である。しかしこれはもう西田幾多郎先生が言及なさったらしいので、オリジナリティーを付与すると、「愛することとは知ろうとする態度・行為であり、知ることは愛の獲得・醸成である」と言えるのでは。  他者を愛するという行為は、他者の無限性に自身を浸すということでもあり、結局のところ、他者を知ろうとしないところに、愛は永遠に生じ得ない。知とは他への無制限の愛である。 ・「絶対的に真実な愛」なるものは、それ自体では存在し得ない(ただし、これは決してキリスト教的

          「知と愛」に関する雑録

          「本心と仮面」の脱構築へ向かって

           演劇舞台としては非常にメジャーな嗜好ではあるが、私も『オペラ座の怪人』を愛してやまないうちの一人である。人物像、音楽、間の取り方等々、全てが素晴らしい調和の元に紡がれている。  怪人とクリスティーヌが口づけを交わす場面を見る度、私は落涙の衝動から逃れることはできない。彼女が彼の「顔」も「仮面」も含めて、彼自身を人間存在として静かに受け入れた姿には、同情を超越した、人間の普遍性に還元され得る愛がある。  「本心と仮面」という二項対立がある。他人も自分も傷つくことなく「付かず

          「本心と仮面」の脱構築へ向かって

          「繋がる」ことと知的探究の姿勢

           教育界においてICTが爆発的に普及し、今やICTやインターネットの利活用を前提とした教育方法・学習方法の開発が喫緊の課題とされています。この趨勢は、もはや抗うことのできないものであり、時空間を越境することのできるこうしたツールは、今後の学びにおいて必要不可欠であることは言を俟ちません。  一方で、インターネット等は「いつでも情報に繋がることができる」媒体であるため、どうしても「あらゆることを知っている」という錯覚が発生してしまうことがしばしばあり得ます。気を抜けば私もそう

          「繋がる」ことと知的探究の姿勢

          雑考めも・「国語教育」再考のための一試論

           メモ程度ではありますが、心に顕れるまま書き出してみました。いずれ文章としてまとめようと思っていますが、ひとまず現段階での少考を残しておきます。「国語」/「言語」と「教育」という二重のアポリアにどのようにして応答してゆくべきか、ということに関する一可能性です。またぼちぼち始動します。 ◎「国語」「教育」を「解放する」とは、究極的に言えば、言葉の持つ「無限性」(言葉の意味それ自体は有限であるが、個人・集団が紡ぎ出すあらゆるコンテクストを含むと無限性が付加されるようになる、とい

          雑考めも・「国語教育」再考のための一試論

          【学習コミュニティとしての地域-学校の連携・協働】

           本日(というか昨日ですね)、突如として謎の体調不良に襲われ、ひねもすベッドのお世話になっておりました。直近の2週間で、少々はっするし過ぎていたかもしれません、少しペースを落としていきたいと思います。何もせずお休みなさいするのも気が引けましたので、『学校と社会をつなぐ!これからの人づくり・学校づくり・地域づくり』(藤原文雄・生重幸恵・竹原和泉・谷口史子・森万喜子・四柳千夏子、学事出版、2021年)の簡素なレビューをお届けしようかと思い、筆を起こしてみた次第です。どれだけお役に

          【学習コミュニティとしての地域-学校の連携・協働】

          「対義語」再考-義務教育段階に「言語哲学」を取り入れてみる-

           国語科の中でも重要な学習として、漢字の「対義語」の学習があります。大体小学校中学年頃でしょうか。  ふと思ったのですが、ある程度概念を習得してからでも、「対義語」の二項対立的な構造を俯瞰・熟考し、学習者が自分なりに脱構築する機会を保障することは、有意義なことなのではないでしょうか。  例えば「幸福」と「不幸」という概念があります。これらは学校知識的な観点から言えば、対立する概念、「対義語」です。ですが、「幸福でもあったが、同時に不幸でもあった」という状況は、私たちの人生の

          「対義語」再考-義務教育段階に「言語哲学」を取り入れてみる-

          演劇と国語4技能

           「国語4技能」を基にした「国語学習」を、本間正人先生と提案させて頂いているわけですが、考えてみれば演劇には国語4技能の要素が全て包含されているんですよね。見事に総動員されている、と言いますか。MI理論的には身体的知性と対人的知性の要素が多めですかね。そのことに、ふと気が付きました。  まず「話すこと」。これはもちろん、感情を伴わせながら台本を読んだり、身体と言語とを結びつけて全力で表現したり、といった営みです。他の役者と共にどのような点を改善すればより見応えのある演技にな

          演劇と国語4技能