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諏訪大明神=普賢菩薩!!!

前回は仏教の諏訪信仰について書きました。

今回は、諏訪大明神本地普賢菩薩について書いていきます!

本地垂迹(ほんぢすいじゃく)とは

平安時代頃~明治初年まで、日本は神さまと仏さまが一体となる神仏習合という宗教観を持っていました。

その神仏習合の中で、本地垂迹思想というものが生まれます。

神さまは仏さまが姿を変えて日本に降臨したもので、神さまの本の姿(本地)は仏菩薩という考え方。そして、日本の神さまを「明神」や「権現」という呼び方で表していたのです。

諏訪大明神も本の姿があり、それが普賢菩薩であるとされ、上社神宮寺普賢堂というお堂に祀られていました。

諏訪大明神本地普賢菩薩の歩み

この仏さまが祀られていたお堂「上社神宮寺普賢堂」は正応5年(1292)に諏方氏の支族で伊那地方の豪族であった「知久氏」により建立された記録があります。

お堂を建立するには、祀るものが無くてはならないですよね!お堂があっても本尊様がなければ、「仏作って魂入れず」ということわざのように、器だけあるが肝心なものが無い状態になってしまいます。

今の諏訪大明神本地普賢菩薩の「象」の部分は作風や専門家の考察から「普賢堂建立当時のものと考えて矛盾がない」とされ、正応5年(1292)のものであると思われます。

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どうやら最初は白象であったようです。ところどころに白い胡粉が見て取れます。

お姿も国宝の大倉集古館の普賢菩薩騎象像の象にそう遠くない印象を受けます。

鎌倉時代の優品と言っていいのではないでしょうか!

菩薩像

お気づきでしょうか?前段でわざわざ象の部分という表現を使いました。実は、菩薩像はまた違った年号が入っているのです。

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菩薩像の蓮華座の部分に文禄2年(1593)の銘が入っているのです。この部分は菩薩様のお座りになる場所に書かれており、菩薩像はこの上に乗る形ですので、この書付により菩薩像の年代は1593であろうとされていましたが、菩薩像自体がこの年号なのか確証がありませんでした。

平成の大修理

平成27年 諏訪大社式年造営大祭にあわせるように、普賢菩薩像の解体修理が行われました。

そうしたところ、多くの発見がありました。

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玉眼という仏さまの目にはめ込まれている水晶を押さえるためのあてぎの部分です。

ここに、文禄2年という年号と「信州すわの本尊也」と書かれていました。

蓮華座の書付の確証が体内からも発見されたのです。

併せて、作者の名前も発見されました。

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作者は「洛陽住人 大仏師 民部法眼 康俊」なるものでした。

京都に仏所を構え、大仏師の称号を持ち、民部法眼という位を持ち、康俊なる者。判明したんです。

運慶で有名な慶派の系図に文禄頃に活躍する「民部卿 康俊」という人物がいるのです。

この菩薩像部分は慶派の作であり、当時の一流仏師に依頼して作られたものであることがわかりました。

時代が違う理由

菩薩像が文禄2年(1593)と確証が出たことで、象座の正応5年(1292)と300年も年代に違いがあることが決定づけられました。

この間に何があったのでしょう・・・・?

それは、日本の歴史と深くかかわります。

戦国時代(1500年代)諏訪大明神を篤く信仰していた武将は「武田信玄」武田家です。

「南無諏方南宮法性上下大明神」という旗を掲げて戦っていたことは有名です。「南無諏方南宮法性上下大明神」とは・・・仏教用語であり「すわの仏教の真理・本性である上社下社の大明神に帰依します」という意味になります。

そう読むと・・・この本地普賢菩薩の加護を旗に掲げ戦っていたと考えることもできるのです。

武田勝頼の時代となり、天正10年(1582)3月3日 織田信長軍が勝頼討伐軍を諏訪へ進めます。そして、諏訪上社を焼き討ちにした・・・と信長公記にあります。

そして、武田家が信仰していた諏訪大明神本地普賢菩薩像も壊されてしまうのです・・・

信長はその年に本能寺の変により死去します。

その後、普賢堂建立のちょうど300年目の文禄元年に普賢菩薩の再造像を発願し、一年後に完成。難を逃れた象の上に「慶派の大仏師 康俊」の菩薩像を祀り、再び諏訪大明神として普賢堂に祀ったと考えられます。

これが、象の部分と菩薩像の部分の年代の差の理由と思われるのです!

胎内仏発見!!!

解体修理の際に胎内仏が発見されました。今まで思いもしなかった発見でした。

象座のお腹の中からは3体の仏さまが発見されました。

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お腹の中には・・・象と如来さまと天部もしくは武将の像が込められていました。

どの仏さまも、鎌倉時代あたりの仏さまで、織田軍の兵火により傷ついた仏さまをお腹の中に納めたのではないかと推測されています。

そして・・・菩薩像の胎内からも・・・

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合掌印の騎象像。本地普賢菩薩のお姿と同じ普賢菩薩が込められていました。また、その後背には「三蔵作」と彫られていました。

大きさはわずか2.7センチ

諏訪大明神本地普賢菩薩略縁起

諏訪市文化財 仏法寺文書D-7「両社仏閣社僧寺院御廃一派諸般記」というのもがあります。本地普賢菩薩が祀られていたお堂やお寺の最後を書き留めた古文書です。

その中に「諏訪大明神本地普賢菩薩略縁起」という記載があります。

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胎内仏の記載がちゃんとあるではないですか~

前宮へ役小角(えんのおずの・修験道開祖)がインド善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう)作の普賢菩薩を安置し、最澄(天台宗開祖)が作った普賢菩薩の胎内仏として、三蔵作の前宮の普賢菩薩を込めた・・・と読み取れる記述があるのです。

もちろん、この略縁起に登場する人物は日本仏教会のオールスターといえるような方々ですので、事実かどうかは・・・というところですが、このような伝承ができるほどに大切に信仰されてきたお像ということは伝わります。

そして、時を経てもなお、色あせることのない仏教の諏訪信仰の息吹を今に伝えているのです!

諏訪大明神普賢菩薩の解説動画は↓です。

次回は、神宮寺から移転してきた諸仏や諸品を解説したいと思います。

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